志乃の帳簿
辰五郎が三箱の前へ立った時、志乃は人の輪の外にいた。
七月五日の朝。魚河岸へ入った鯛箱は、まだ蓋を開けられていない。
辰五郎は煙で擦れた声で、師走の初め、半ば、正月過ぎ、と話した。最初から紙荷と知っていたこと。死者の名を見ても二度目を運んだこと。三度目に銀貨五枚を受け取ったこと。
「脅されたのは、そのあとだ」
辰五郎は言った。
「三度は、俺が引き受けた」
りんは二つ折りの荷札と銀貨を持っていた。父の代わりに見せも隠しもせず、聞かれた時だけ自分の掌を開いた。
話が終わると、荷運びの親方が辰五郎の担ぎ棒を取り上げた。
「今日から箱は担がせねえ。弁蔵の所で口を残せ」
辰五郎は親方へ一度頭を下げ、空箱を洗う列の最後へ座った。
志乃の父は、まだ帰っていない。
人の輪がほどける前に、りんが水路図の代わりを地面へ描いた。
七月三日、舟は下流へ出て二つ角を曲がった。そこから紙荷を濡らさずに上げられる蔵口は二つだという。片方は川幅が狭く、潮が引けば原稿箱二つを載せた舟は底を擦る。もう片方は霊岸島の貸倉へ出る。
「どちらかと決めないで、両方見る」
りんは濡れた指で二本の筋を残した。
一つ目の蔵には、糊の空樽しかなかった。
二つ目の裏へ回ると、七月三日に見た荷足舟が杭へ繋がれていた。開いた戸の内側に原稿箱が二つある。薄紙を数える父の声もした。
志乃は口元まで出た声を呑み、りんの袖を引いた。
りんと二人で戸口、見張り、舟の位置を確かめ、その足で黒田半蔵を訪ねた。
「霊岸島の貸倉です。父と箱二つを確認しました」
「赤石屋の男は」
「表に一人、裏に一人。ほかは確認できません」
「日暮れ前に移す」
「父を出してください」
「箱の中は見たか」
「父と箱二つだけです」
「なら、先に開ける。今は私も、中身を知らん」
黒田は日暮れに同じ蔵口へ来いとだけ告げた。
霊岸島の貸倉は、川へ半分張り出していた。裏へ荷足舟が一艘ついている。
黒田は倉番に表戸と二箱の錠を開けさせ、鍵を自分の袖へ入れた。
連れ二人を表裏へ立たせ、倉番、赤石屋の男二人、船頭を隣の蔵口へ出す。荷改めが済むまで留め置けと命じた。四人が離れたのを、りんが裏口から確かめた。
貸倉へ残ったのは、黒田、志乃、りん、源吾だけだった。
原稿箱は、土間に二つ並んでいた。
父はその前に座っていた。
両手は自由だった。右手に筆を持ち、綴じ前の薄紙へ番号を移している。志乃を見た父は、書きかけの一画を終えてから筆を置いた。
「火は、隣へ移らなかったか」
最初の言葉がそれだった。
「移っていません」
「そうか」
「私のことは聞かないのですか」
父の指が、墨のついたまま膝へ伏せられた。
黒田が一つ目の箱の蓋を上げた。
一つ目には、茶表紙の支払帳と受取が費目ごとに綴じられていた。紙問屋、人足、舟、糊。生きている者へ明朝渡す額だけがある。黒田は頁を抜かず、蓋も元の向きへ戻した。
二つ目には、黒表紙の秘密引合簿、綴じる前の引合札、未記入の薄紙が入っていた。死んだ者の名、原証書番号、赤石屋の内控が、相手ごとに並んでいる。
黒田は二箱の間へ座った。
「倉を丸ごと役所の封へ入れれば、一箱目も開けられん。明朝の支払まで止まる。順に照会すれば、周防へも先に届く」
「二箱は分かれています」
「一箱目は倉へ残す。辰野源吾も出す」
黒田は二箱目の黒表紙へ指を置いた。
「こちらの記入済みの紙は、要る行を写したあと焼く」
「要る行を、誰が決めますか」
「お前だ。死者名義、証書番号、内控、訂正」
黒田が恐れている物を、志乃は六月十七日に見ていた。一枚の偽借用証で、薬包と米と日払いが同時に止まりかけた。正規の支払帳まで封じれば、赤石屋より先に困る者もいる。
それでも、焼いた字は戻らない。
「支払を続けるだけなら、秘密の帳簿は焼かなくてよいはずです」
「そうだ」
「原物を焼けと、どこから命じられましたか」
「どこからも」
「お役目の外で消すのですね」
「そうだ。後で残す記録には、私の名を書く」
支払帳を残す判断と、秘密の原物を消す判断は別だった。後の方まで黒田一人の名で行う。
「父の署名も写します」
「名義の行には要らん」
「署名まで含めて、父が書いた帳簿です」
「それなら源吾をここへ残す」
「父だけを連れ帰る条件なら、受けません」
黒田は志乃の損失を先に言い、しばらく黙った。
「署名まで写せ」
「記入のある所を先に読め」
黒田が言った。
志乃は机へ座った。白紙を一枚取り、最初の死者名義から写す。
りんが向かいへ座り、硯へ水を落とした。目を硯へ置き、墨を磨り始める。
父は帳面を見た。
「私の署名は省け。書いた者は、口で話す」
「二月十二日の数字を直した者も、口で話せば消せますか」
父の目が、志乃の筆先へ移った。
赤石屋。い七十四。代理三名。新堀四。二月十二日。志乃が一度直した数字の下に、辰野源吾の署名がある。
「お前に、帳面の仕事を残せると言われた」
父は低く言った。
「女の手は役所へ入らない。私が行を整えれば、お前の清書も使うと。銭も受けた」
「それで書きましたか」
「最初は」
父はそこで止まった。
「途中からは、止めれば前の行まで出されると思った。だが見張りが寝たあとも書いた。書けば一行だけでも正しくなると、まだ思っていた」
志乃は父の言葉を、そのまま二人の間へ置いた。
父の署名を、その形のまま写した。「源」の最後で筆を止める。自分の二月十二日も、その上へ残す。
墨が浅くなるたび、りんは同じ濃さまで磨り直した。志乃の筆が署名の所で止まるあいだも、硯に手を添えて待った。
源吾は一行ずつ読み上げた。自分が書いた行。別の者が持ち込んだ行。あとから訂正した番号。知らない所は、知らないと言った。
写しが終わるころ、外は暗くなっていた。
黒田は二箱目から秘密引合簿と記入済みの引合札だけを取り、鉄の火鉢へ入れた。炎は綴じ糸から走り、志乃が今しがた写した父の名を内側へ巻き込んだ。
未記入の薄紙は二箱目に残った。一箱目の支払帳と受取は、朝の並びを箱の中で保った。
黒田は預かっていた鍵を倉番本人へ返した。朝になれば、一箱目で紙問屋と人足への支払が続く。赤石屋の男たちは、火が落ちるまで隣の蔵口に留め置かれた。
志乃は火へ背を向け、膝にある写しを最初から読み直した。りんが磨った墨は、最後の行まで同じ濃さだった。
「死者名義へつながる行は、これで全部ですか」
源吾へ問う。
父は燃え落ちた黒表紙を見た。
「これは引合だ。渡された頁を、相手ごとに並べ直した」
「元は」
「全件を束ねた原簿が、別にある」
「どこにありますか」
「見たことはない」
源吾は顔を上げた。
「元の集積原簿は、周防主計が自分で持つと聞いた」
「どのような物ですか」
「厚い鼠茶の表紙で、背は黒糸綴じだ。私へ渡す頁を抜く時、一度だけ見た」
「なぜ周防主計が」
「九月九日を越えたあと、赤石屋と証書の枚数と口銭を合わせる。店が都合よく書き換えれば、その原簿を出すためだと言っていた」
「今ある場所は」
「知らない」
志乃は、知らない、まで写した。




