りんの父
りんは鰻を一尾買い、三つに切った。
七月四日の朝、魚河岸では昨日の紙蔵火事より、今朝の鰻の太さが先に値になった。よく肥えた物は料理屋へ渡り、りんが選んだ一尾は、背に古い鉤傷があって少し安かった。
弁蔵の物置で、炭を弱くして焼いた。たれは一度だけ塗る。辰五郎は昔、色を濃くするため三度塗り、焦げた尻尾を自分の椀へ入れた。りんは父の味へ合わせなかった。
辰五郎は壁へ背を預けている。右の掌には濡れ布で冷やしたあとの包帯、両手首には縄の跡があった。煙を吸った咳は夜より減ったが、話が長くなると胸の奥で鳴る。
弁蔵が戸口に座った。今津清兵衛は口銭控と送金控を自分の膝へ置いている。昨日、辰五郎が生きて出たと聞き、朝の商い前だけなら読むと来た。
鉄之助は最後に入った。
りんは二つ折りの荷札を懐から出した。
六月十二日、鉄之助が秤の脇へ置いていった物だ。魚油の染みた内側には、鯛三箱、海運橋北詰、赤石屋裏蔵、辰五郎。外側には小宮家の番号と死者の名がある。
りんは荷札の隣へ、赤石屋の銭包みを置いた。こちらも六月十二日から自分で持っている。中の銀貨は五枚。何の代か書いた紙は、今もない。
「三度を、順に話して」
りんは焼けた鰻の一つ目を皿へ載せた。
辰五郎は、箸を右手で持てなかった。左手でつまもうとして身を崩す。りんは皿を父の膝へ寄せ、箸の先で身を小さく割った。
「最初は師走の初めだ」
辰五郎は鰻を一口食べた。焦げていない皮を、時間をかけて噛む。
「新堀の紙蔵から、赤石屋の裏へ薄紙を運んだ。魚箱の底へ入れた。名の空いた預りの紙と、委任の紙だ」
「中を見たの」
「一枚、蓋の隙間から出た。紙荷だと知って戻した」
「何に使うかは」
「知らなかった」
辰五郎はそこで止めようとした。
りんは次の鰻へ手を伸ばさない。
「知らない物を、魚箱に隠した理由は」
「表で運べねえ紙だとは思った」
「それでも運んだ」
「荷賃がよかった」
今津は自分の送金控を開き、師走初めの赤石屋の紙荷がある所まで指を進めた。辰五郎の名はない。荷の受けは魚河岸の符丁だけだった。本人の言葉を裏づける部分と、裏づけない部分が同じ頁にあった。
りんは二つ目を父の皿へ載せた。
「次」
「師走の半ば。海運橋の北で、鯛箱を三つ受けた。赤石屋の裏蔵へ運んだ」
辰五郎が二つ折りの荷札を見る。
「それは俺が書いた。鯛は入ってなかった。藁の下は預り証と委任の紙で、今度は名と番号が入っていた」
「誰の名」
「覚えてねえ」
「死んだ人?」
辰五郎は鰻を口へ入れず、箸の先で身を崩した。
「死んだ者の名だと、蔵の手代が言った。死人は取りに来ないから扱いやすい、と」
鉄之助の膝が動いた。
りんは父だけを見た。
「そこでやめた?」
「やめなかった」
「何で」
「一度運んだ。今さら聞かなかったことにはできねえと思った」
「それは、二度目を運ぶ理由じゃない」
辰五郎は左手の箸を置いた。
「銭が要った」
りんの納屋は、父が消えたあとも場所代がかかった。秤を直した月も、米が足りない月もあった。父が何へ銭を使うつもりだったか、りんにはいくつも浮かんだ。どれも、紙を運んだ足を止めはしない。
二つ目の鰻が冷める前に、辰五郎は自分で箸を取り直した。
三つ目は、りんが皿へ載せなかった。
「最後」
「正月を越してからだ。赤石屋から新堀へ、名を入れ終えた束を戻した。前の二度より薄かった。蔵で、娘の薬へ使った証書もあると聞いた」
「誰の娘」
「知らねえ。聞こうともしなかった」
辰五郎は銭包みを見た。
「帰りに五枚渡された。三枚が運び賃、二枚が見なかった口だと言われた」
「受け取ったね」
「受け取った」
「使った?」
「使わなかった」
「返した?」
「返してねえ」
納屋の秤の後ろへ隠し、娘にも言わず消えた。使わなかった五枚は善い銭へ戻らず、湿った包みの中で父の帰りを待っていた。
りんは三つ目の鰻を半分に割った。片方を辰五郎、片方を自分の皿へ置く。父だけに食べさせて終える気はなかった。
「私の帳面には、辰五郎さんが三度運んだとまとめた一行はありません。赤石屋から出た紙荷、魚荷の符丁、海運橋の受けはあります。今の三つは、ご本人の話として分けて残します」
「そうしてくれ」
辰五郎が言った。
今津は二冊を閉じ、紙紐を掛け直した。
二つ折りの荷札は、りんの膝にある。銀貨五枚も、りんが持ってきた包みに戻した。
「四度目は」
弁蔵が問うた。
辰五郎の咳が一度出た。
「一月十七日の夜だ。薄紙二箱を、また海運橋へ運べと言われた。受取の控えへ、りんの名を入れると聞いた」
「どうして私の名」
「俺が消えても、魚河岸の荷道を残すためだ。娘が受けた形なら、赤石屋は次も箱を入れられる」
倉田が聞いた言葉と重なった。
三度は運んだ。四度目も運べ。
辰五郎は、次の控えに娘の名を使うなら運ばないと答えた。
「私の名じゃなかったら」
りんは三つ目の鰻を箸で割った。
「知らない娘の名だったら、運んだ?」
辰五郎はすぐに否定しなかった。
物置の外で、魚箱を洗う水が流れた。鰻のたれが炭へ落ち、焦げた匂いが少し立つ。
「運んだと思う」
辰五郎は言った。
りんは父の皿を下げなかった。
自分の名だから止まった。そのことを嬉しく思う場所は、胸の中に確かにあった。同じ場所へ、前の三度を入れることはできなかった。
「四度目を断ったあと、なぜ帰らなかった」
「赤石屋の男を殴って逃げた。河岸へ戻れば、お前の名の紙を出すと言われた。船溜まりを転々として、六月に様子を見に戻った所を捕まった」
弁蔵の顔が険しくなった。
「俺たちへ言えばよかった」
「言って、娘の名が出なかったと誰が請け合う」
「だから一人で決めたのか」
辰五郎は答えなかった。
りんは食べ終えた皿を重ねた。父の皿には、皮が一片だけ残っている。
「魚河岸には、私から言っておく」
辰五郎が言った。
「何を」
「脅されて、紙荷を運ばされたと」
りんは皿を持つ手を止めた。
「それは、誰の話?」
「俺の」
「違う。父ちゃんは、最初から紙だと知って、自分で三度運んだ。五枚も取った」
辰五郎は包帯の右手を膝へ置いた。
「あんたの口で、そこから話して」
「納屋を取られるぞ」
「取られるかもしれない。場所代を払う人が、父ちゃんを河岸へ置かないかもしれない」
りんは軽くしなかった。
「それも、父ちゃんが聞いて」
辰五郎は長い間、戸口の向こうを見ていた。荷を担ぐ声が近くなる。朝の競りはもう終わり、昼の仕分けが始まっている。
「明日の荷が開く前でいいか」
「今日じゃなくて?」
「声が戻るまで待ってくれ。逃げるなら、今夜また消える」
りんは父の草履を前へ置いた。火事場で煤けた足に合うよう、弁蔵が古い鼻緒を替えた草履だった。
辰五郎は包帯の手で、それを自分の方へ引いた。
「明朝、河岸へ連れていけ」
りんは返事を待った。
「三箱の前で、俺が話す」




