火の中の父
源吾は水路へ、辰五郎は表戸へ出るはずだった。
七月三日の夜、鉄之助たちは新堀四番の紙蔵が開くのを、二つの道から待った。
志乃は裏の杭に繋がれた荷足舟を見ている。りんは表戸脇の紙屑籠へ身を伏せた。鉄之助は二人の間、蔵の角にいた。戸が同時に開けば、源吾と原稿箱は志乃、辰五郎はりん、間に出る見張りを鉄之助が止める。三人で決めた順だった。
先に裏戸が開いた。
赤い石の前掛けが二人、原稿箱を一つずつ運び出す。二箱の後ろから源吾が出た。縄で引かれてはいない。両手に薄紙の束を持ち、自分から舟へ足を掛ける。
「その紙は置け」
男が言うと、源吾は首を振った。
「湿れば、名の位置がずれます」
捕らわれたままでも、自分が整えた紙を守っていた。
志乃が杭の陰から半歩出た。父まで六歩。前掛けの男が二人。舟には船頭が一人。飛びつけば源吾の袖には届くが、原稿箱二つは水へ押し出される。
その時、表で荷車の車輪が鳴った。
薄紙六束を積んだ車が、敷居の溝へ右輪を落とした。担ぎ手が後ろから押し、御者が馬を引く。荷が傾き、一番上の束が軒へ当たった。
「止めろ。行灯をどけろ」
誰かが叫んだ。
遅かった。
馬が首を振り、御者の手から行灯が落ちた。油皿が割れ、紙屑籠の下へ火が走る。糊を温めていた小さな竈まで、こぼれた油が一本につながった。
最初の炎は、掌ほどだった。
男が足袋で踏み、別の男が薄紙で叩いた。消えかけた火を、夜の川風が紙屑の内側へ押した。籠の底から赤い筋が三本上がり、軒に立てた紙束へ移る。
「水だ」
りんが隠れるのをやめた。
表にいた男の一人が、小部屋の鍵へ手を掛けた。煙にむせ、鍵を一度落とす。
「そいつはあとだ。箱を先に出せ」
裏から声が飛んだ。
男は鍵を拾ったが、小部屋へは戻らなかった。薄紙の束を荷車から引きずり下ろし、燃えていない二束を抱えて水路へ走った。
前掛けの男たちは、りんより先に原稿箱を見た。
「舟を出せ」
源吾が振り返った。
「表にもう一人います」
「お前は乗れ」
男が源吾の肩を押す。志乃は舟へ走ろうとした。表の小部屋から、戸を蹴る音がした。
一度。
続いて二度。
「父ちゃん」
りんが戸へ向かった。
炎は表戸と小部屋の間へ上がっている。鉄之助から見えたのは、裏で離れ始めた舟と、火の向こうで揺れる小部屋の掛金だった。
源吾が舟から志乃を見た。
父娘の目が合った。
志乃の唇が一度だけ、父、と動いた。声は出さず、舟縁へ乗った男の片袖と、箱を縛る縄の結び目を目で追った。
源吾は助けを呼ばなかった。抱えていた薄紙の束を原稿箱の上へ置き、ずれた角を揃えた。
「父は舟にいます」
志乃の声がした。
「男二人、船頭一人。箱二つ。下流へ出ます」
追ってくれとは言わなかった。見えた物を、消えない順で言った。
鉄之助は表へ走った。
りんが小部屋の掛金へ濡れた藁を叩きつけている。火は弱まらない。木の掛金は外側から太い釘を打たれ、戸が半寸しか動かなかった。
竹筒から刃を抜く。
人へ向けず、戸と柱の隙間へ入れた。鍔を両手で押すと、刃が木を裂いた。右膝へ蔵の壁ほどの重さが掛かる。りんが反対から戸を引いた。
釘が一本抜けた。
中から辰五郎の肩が当たり、戸が鉄之助の顔へ開いた。
煙が塊で出た。
辰五郎は床へ膝をついていた。両手首に縄の跡があり、右の掌が赤く膨れている。前掛けで口を覆っていたが、立つとすぐ咳き込んだ。
りんは腕を広げなかった。
水桶の柄杓を取り、まず前掛けへ水を掛けた。
「口へ当てて。低く歩いて」
辰五郎は娘の声に従った。鉄之助が肩を貸そうとすると、自分で壁へ手をつき、三歩進んだ。四歩目で足がもつれ、そこで初めて鉄之助の腕を借りた。
裸足の裏に、濡れた灰が貼りついていた。りんは柄杓の残りを足元へ流した。黒い水の下から、右の小指の曲がりが出た。昔、魚籠を落として折った指だった。
りんはそこを見終えてから、父の顔を見た。
外では近所の者が水桶を渡し始めていた。燃えているのは表の薄紙と軒で、隣の蔵まではまだ間がある。紙問屋の男が鳶口で渡り廊下を落とし、火の道を切った。
「源吾さんは」
りんが聞いた。
「舟だ」
鉄之助が答えるより、志乃が戻った。
「下流へ出ました。角を二つ曲がった先で見失いました。父は生きています。原稿箱二つも舟です」
髪の片側が水に濡れていた。追える所まで岸を走ったのだろう。息を切らしていても、箱の数は変えなかった。
辰五郎が志乃を見た。
「源吾さんは、奥でずっと書いてた。見張りが寝ても手を止めなかった」
辰五郎は濡れ布の下で息を継いだ。
「俺の水だけは、毎朝、戸の前へ置いた」
「書いたのは、父です」
志乃は言った。
「その範囲も確かめます」
紙蔵の屋根から火の粉が落ちた。近所の者が辰五郎を離れた土間へ座らせ、掌へ濡れ布を巻いた。煙を吸った咳は続いたが、言葉を出せないほどではない。
鉄之助は燃える物を見た。
薄紙。糊。名の入っていない作業紙。空の魚箱。風に持ち上がった紙にも、まだ署名はなかった。原稿箱二つは、源吾と一緒に水路へ消えた。
赤石屋の男が一人、消火の人に混じって裏へ抜けようとした。
鉄之助は襟を取らず、行く先を見た。男は空の荷車へ飛び乗り、舟とは逆の道へ走らせる。追えば、まだ別の紙へ届くかもしれない。
辰五郎の咳が深くなった。
鉄之助は男を追わなかった。
車輪の音が橋の方へ遠ざかる。鉄之助は刀の柄から手を離し、その手で辰五郎の肩が前へ倒れないよう支えた。
「父ちゃん」
りんが辰五郎の前にしゃがんだ。
「あいつらに、何をさせられたの」
辰五郎は濡れ布を口から外した。
「させられた、で済ますな」
声は煙で擦れていた。
「俺が三度、運んだ。銭も取った」
りんの手が、水桶の縁で止まる。
「三度とも、自分で?」
「自分の足で行った」
「何を運んだ」
辰五郎は答えかけ、咳をした。りんは背をさすらなかった。水を一口ぶんだけ柄杓へ入れ、父の手が届く所へ置いた。
「ここで急いで言わなくていい」
声は優しくならなかった。
「でも家には帰さない。最初から、一つずつ聞く」
辰五郎は柄杓を両手で持った。右の掌の濡れ布へ水が染み、顔をしかめる。
「わかった」
りんは立ち上がった。
抱き起こす代わりに、辰五郎が歩ける側へ空の魚箱を置いた。腰掛けに使えという置き方だった。
紙蔵の火は、渡り廊下を落とした所で勢いを失った。
志乃は濡れた地面へ油布を広げ、七月三日、荷足舟一艘、船頭一人、赤石屋の男二人、原稿箱二つと書いた。父の名の次に、下流へ二つ目の角まで確認、と続ける。行き先の欄は埋めなかった。
水路にはもう、源吾を載せた舟の波も残っていなかった。




