一件の帳尻
今津清兵衛は、戸田孝作が帰るまで、誰にも父親の話をさせなかった。
七月二日の午後、鎧橋近くの貸席には五人がいた。
戸田は六月一日に受け取った三枚の控えを自分で持ってきた。三十円の借用証。七分利百円の原証書を赤石屋へ渡した預り証。本人の名だけがあり、日付と代理人を空けた委任の紙。
「私の一件だけを読んでください」
戸田は言った。
「ほかの困窮した家を、同じ話へ勝手に入れないでください。それから、私は空欄を見て指を押しました」
「愚かな被害者とは書かせない」
迅平は来ていない。鉄之助がそう答えると、戸田は三枚を畳へ置いた。
今津の口銭控と送金控は今津の膝から動かなかった。りんは赤石屋の銭包みと、六月十二日に鉄之助から渡された辰五郎の二つ折り荷札を持ち、志乃は小宮の手紙全文の写しと、自分が火事場で取った注文指示の要点を持っている。
六月十九日から、三人は同じ机に座っていない。
志乃は小夜の許しがある箇所だけを読んだ。りんは必要な時だけ銀貨を出した。鉄之助は二人の間へ言葉を渡そうとせず、戸田の三枚を見た。
戦場の荷なら、出た所、途中で持った者、着く所を順に置く。途中の一人を犯人と決めても、空になった兵の椀は埋まらない。
鉄之助は畳を五つに分けた。
最初へ、戸田が借用証を置いた。
「娘の薬と家賃のため、三十円を受け取った。原証書と預り証、名と日付の空いた委任の紙を赤石屋へ渡した」
戸田がうなずく。
「そこは私の選択です」
次へ、今津が自分の口銭控を開いた。
「赤石屋は原証書を手に置き、禁止が解けたあと空欄を使えるようにした。私が口約束を取り次ぎ、口銭を得ました。官が守る契約とは告げていません」
三つ目へ、志乃が秘密買付表三行の写しを置いた。小宮家の番号は、現物を得る前から死者の名と結ばれている。
「周防主計の周辺から、九月九日と八十二円の見込、交付番号が赤石屋へ届いた可能性が高いです。四度の修正文日と四度の銀が重なります。ただし、受取符号『主』だけで周防本人の受領とは確定しません」
鉄之助はその限りを削らなかった。
四つ目へ、りんが二つ折りの荷札を置いた。魚油のある内側には、鯛三箱、海運橋北詰、赤石屋裏蔵、辰五郎。外側には、小宮家の番号、死後の借用日、野添市助の名がある。
りんが銀貨五枚をその横へ並べた。
「父ちゃんは三度運んだと自分で言った。この札で、一度は鯛箱を海運橋から赤石屋の裏蔵へ運んだと分かる。銭も受け取った。志乃さんの父ちゃんは行を整えた。志乃さんは日付を一つ直した。青柳さんは書式を写した」
志乃が、小宮の全文写しを開いた。
「小宮佐一さんは、野添市助さんと片岡弥吉さんの情報を売りました」
鉄之助は二人の名を聞いた。六月十九日には、そこを写すなと言った。今日は、荷札の外側にある野添の名を自分の指で隠さなかった。
最後の場所に、今津が算盤を置いた。三十と八十二の間を空ける。
「見込どおり九月九日以後に売れるようになり、政府が百円券を八十二円で買えば、赤石屋は三十円との差を得ようとする。ですが今は七月二日です。五十二円は、まだ一文も生まれていません」
「では、誰を捕まえれば戻りますか」
戸田が問うた。
以前の鉄之助なら、周防か赤石屋の名を一つ出した。
「お前の証書は、赤石屋から取り返す必要がある」
鉄之助は借用証を戸田へ戻した。
「今津は取次を自分の名で出す。辰五郎と源吾は、運んだ物と書いた行を本人に言わせる。小宮の二人も残す。周防の漏らした物と銀は、原物と証言を重ねる」
「あなたは」
戸田は聞いた。
「迅平へ出せと言った。倉田が家を出た。そこも書かせる」
戸田は三枚の端を揃えた。空欄の紙だけが、古い折り目から指一本ぶん外れた。
「名前を押した晩、娘は久しぶりに眠れました」
紙のずれを直し、三枚を重ねる。
「私の三十円を、取り消さないでください。証書を返させる時も、あの晩に私が選んだことは残してください」
「わかった」
鉄之助が答えると、戸田は今津にも同じ返事を求めた。今津は自分の口銭控へ、戸田本人の求め、と書き足した。
戸田が帰ったあと、手をつけなかった茶が一つ残った。湯呑みの縁には、指で拭った墨が細くついていた。
今津は二冊の控えを閉じた。
「これで皆さまが仲直りしたとは、私は帳面へ書きませんよ」
りんは銀貨を包み直した。
「してない」
「同意します」
志乃の声も硬い。
三人が同じ席へ戻ったのは、一件を読むためだけだった。
日が落ちると、別々に貸席を出て、新堀河岸で合流した。
六月十五日に源吾の声を聞いてから、紙蔵は毎晩一人ずつ見張っている。りんは水路、志乃は紙問屋から来る荷車、鉄之助は表戸を受け持った。必要なことは弁蔵の帳面の余白へ時刻だけ書き、顔を合わせず回した。
今夜は、いつもと荷の数が違った。
薄紙の束が表に六つ。綴じた原稿箱が二つ。水路には空の荷足舟が一艘ついている。赤い石の前掛けは、表に二人、裏に二人いた。
「移す気だ」
鉄之助が言うと、志乃は主語を足した。
「赤石屋側が、父と原稿箱を移します」
りんは二人から離れ、水逃がしの隙間へ腹ばいになった。
中で男が誰かを責めていた。
「三度運んだと、自分で認めたな」
返事は聞こえない。
「今さら娘へ善い父の顔をするな。四度目も受けていれば、ここへ来ずに済んだ」
鈍い木の音がした。椅子か箱が壁へ当たったらしい。
りんの指が板の隙間へ掛かった。
「見えた」
声が細い。
鉄之助も身を低くした。灯の下を、太い手が横切った。親指の付け根に、魚箱の縄で固くなった皮がある。男が顔を上げる。片方の眉に古い傷。頬は痩せていたが、りんが納屋に残していた煙管の癖と同じように、口の右だけを噛んでいた。
辰五郎は生きていた。
蔵の奥から源吾の声もした。
「この束は、まだ名が入りません」
「舟へ先に積め」
「誰へ渡しますか」
「明晩、着いてから聞け」
原稿箱と源吾は裏の舟。辰五郎は表の小部屋。四人の見張り。二つの出入口。
鉄之助は、入ればどちらへ届くかを測った。表戸を破れば辰五郎へ行ける。裏へ回れば源吾と箱を押さえられる。その間に、もう一方は動く。
「今夜は入らん」
鉄之助は二人へ言い切らず、続けた。
「俺はそう思う。明晩の積替えなら、戸も舟も同時に開く。二人は」
「待ちます」
志乃が先に答えた。
「父の声と箱の数を、今夜は残します」
りんは板から指を外さなかった。
「父ちゃんがまた消えたら、今度は鉄さんのせいにする」
「それでいい」
「よくない。だから、消さないで」
りんは自分で立った。
紙蔵の中で、辰五郎が初めて声を出した。
「三度は運んだ。四度目は断った。それ以上、娘の名をお前らの口で言うな」
りんは返事をしなかった。
明晩まで、父に自分がいると知らせないことを選んだ。




