兄の全部
手紙を元の一枚へ戻すため、小夜は五か月ぶりに切り口を合わせた。
六月十九日の朝、障子から入る光は、上下二片の隙間だけを白くした。切ったのは一月十八日、兄の死を知らない朝だった。鋏を入れれば、書いてあることまで二つに分けられると思っていた。
手紙の脇には、十七日の夜に使った薬包の空があった。周防が赤石屋を退かせた日に戻った包みで、小夜はその夜、咳で起きるまでいつもより長く眠れた。上半と下半を合わせると、周防の名は切り口のすぐ下に来る。助けられた二日後に読むには、その字だけが濃すぎた。
鉄之助が最初に来た。川沿いの泥が草履についていた。
志乃は旧帳を油布へ包んで持ち、りんは魚河岸の前掛けのまま来た。二人は別々に敷居を越えた。鉄之助の隣だけが一人ぶん空いている。
小夜は三人が座るまで、手紙を伏せていた。
「今日は、私が止めるまで質問しないでください」
志乃が条件を言い直した。
「小夜さんが全文を読み、止めるまで、私たちは質問しません」
りんはうなずいた。鉄之助は、しばらく手紙を見てから同じようにした。
小夜は上半から読んだ。
雨戸を直す銭を酒にしたこと。薬代が要り、野添市助と片岡弥吉の名を渡したこと。死者の名なら、残る家を困らせないと思ったこと。その名が、生きている家から証書を取るために使われたと知ったこと。
自分の証書番号を秘密買付の一行へ混ぜた。現物は小夜が持っている。同じ番号の二つがあれば、どちらかが嘘になる。戻らなければ鉄之助にも知らせろ。
そこまでは、三人とも一度聞いている。
小夜は下半を上半の下へ置いた。兄の字は、切り口からさらに小さくなっていた。
——名簿を整える仕事は、周防主計から受けた。戦死したことになっている俺なら、戻っても帳場で数えられない。向こうに都合よく使われたと書けば楽だが、俺もその都合で銭を取ろうとした。
——野添と片岡の家、最後の便り、死んだ場所を渡した。赤石屋から二人分の前金を受けた。お前の薬へ使うつもりだった。まだ一文も使っていないと言えば、少しはましに聞こえるだろうか。聞こえないな。
兄らしくないほど、冗談のない行が続いた。
——周防主計は、俺が小宮の番号を混ぜたと知った。余計な一行を戻せと言われた。今夜、海運橋を越えて話をつける。俺が戻らなければ、事故と呼ぶな。
その下に、あと二行あった。
——鉄がこれを読んだら、先に刀を隠せ。周防は余計な一行を戻せと言っただけだ。今夜、橋へ来る相手が誰かは、俺も知らない。怖くなって大きく書いている所もある。
——漬物は塩を減らせ。これは罪とは別に頼む。
小夜は最後まで読み、紙を畳へ置いた。
志乃の筆は硯の脇にあり、りんの手は前掛けの隠しへ入ったままだった。鉄之助だけが、切り口の上へ指を置いていた。
一月十八日、小夜は「鉄にも知らせろ」の直後へ鋏を入れた。兄が二人を売った行を鉄之助へ先に読ませたかった。周防の名だけを渡せば、兄はまた守られる側へ戻り、鉄之助は刀を持って海運橋へ行く。そう考えた。五か月隠したことで何を守れたのかは、まだ数えられなかった。
長屋の外で、豆腐売りが一度呼んだ。兄は冬の借間で豆腐を半丁ずつ買っていた。酒を一合買った翌朝だけ、膏薬を一枚減らしていた。字を追うほど、銭があれば先に酒へ使い、雨戸を直さず、薬代のためなら死者はもう困らないと考えた兄の顔が戻った。
「ここまでです」
小夜が言うと、志乃は筆を取った。
「全文を写してよいですか」
「はい。ただし、原物は私が持ちます。写しの初めに、今日、私が開いたと書いてください」
「書きます」
鉄之助が手を出した。
「待て」
志乃の筆が止まる。
「周防が番号を知った行と、事故と呼ぶなの行を先に写せ。野添と片岡は、まだ出すな」
りんが鉄之助を見た。
「何で」
「二人の家がある。死んだ息子の名を小宮が売ったと急に聞かせれば、倉田の家と同じことになる」
迅平の記事で、倉田は妻子と借間を失った。鉄之助の理由は嘘ではなかった。
「なら、どこへ出すかを決めてから全部写します」
志乃は答えた。
「先に削れば、後で小宮さんが売った二人だけ戻せません」
「小宮の手紙は、周防を追うための物だ」
小夜は鉄之助へ聞いた。
「誰が決めましたか」
鉄之助の指が、二片の間で止まった。
「小宮は俺に知らせろと書いた」
「兄は、私へ送りました」
声を強くすると、次の息が短くなった。小夜は水を飲み、三人が先を言わないのを待った。
「相良さまは、兄の何を隠したいのですか。二人の家ですか。私ですか。兄ですか」
「全部だ」
鉄之助は答えた。
小夜には、その答えだけがいちばん正直に聞こえた。
りんが前掛けの隠しから、赤石屋の銭包みを出した。湿った紙に銀貨が五枚入っている。六月十二日から、りん本人が持っていた物だった。
「父ちゃんの銭は、何の代かわからなくても出せって言ったよね」
「辰五郎が三度運んだことは、隠せない」
「小宮さんが二人売ったことは、隠すの」
「同じ話にするな」
「同じにするんじゃない。どっちも、その人がやった分を残すの」
りんは抽象の言葉を探さず、銭を一枚ずつ畳へ置いた。五枚の音が止むまで、鉄之助は答えなかった。
志乃は父の旧帳を開いた。
二月十二日、志乃が清書した数字。その下の受領欄に、辰野源吾の署名がある。
「私は、父の署名も、自分の二月十二日も写します。小宮さんの二名だけを、父の紙へ押しつけることはできません」
「源吾は、まだ中で書かされている」
「書かされている範囲を確かめます。だから、本人が書いた範囲まで消しません」
志乃の敬語が硬くなっていた。
鉄之助は手紙から手を引いた。
「勝手にしろ」
「私が許しました」
小夜は言った。
「ですから、勝手ではありません」
鉄之助は立った。敷居で一度振り返ったが、手紙を見なかった。りんも立ち、鉄之助の後ろへは続かなかった。
「私は魚河岸へ戻る。父ちゃんが生きていたら、私が先に聞く」
「新堀の見張りは」
志乃が問う。
「夜は行く。鉄さんと同じ道は使わない」
りんは銀貨を包み直し、別の角へ曲がった。
志乃は畳に残った。小夜が読む速さに合わせ、手紙を最初から写した。野添市助。片岡弥吉。小宮佐一。周防主計。主語を一つも省かなかった。
最後に志乃が場所を空けた。
小夜は筆を持った。
——明治十一年六月十九日、全文の開示と写しを、小宮小夜が許しました。
自分の名の途中で咳が出た。墨が一滴、紙の外へ落ちた。小夜は名を書き直さず、その一滴だけを吸い紙へ移した。
鉄之助が座っていた畳には、膝の跡が二つ残っていた。
志乃はそこを避けて写しを乾かした。




