信用を守る男
小夜の薬包を日暮れまでに戻すには、長持だけを取り返しても足りなかった。
六月十七日の昼、鉄之助は弁蔵と薬問屋の帳場にいた。
赤石屋の偽借用証は、小夜の名より先に魚河岸の名を汚していた。七日ごとの立替帳にも偽の借りが混じっているのではないか。そう問う紙が米屋と炭屋へ回り、薬問屋の主人は朝の包みを棚へ戻した。魚河岸へ品を掛けで出していた店も、今日の分から現金にすると言い始めた。
弁蔵の帳面には小夜のほかにも、日払いが一日遅れれば米を買えない家が並んでいる。朝に魚を運び、夕方に銭を受ける男。夫を亡くし、干魚を売った分だけ米を量ってもらう女。どの欄にも、使った物と受取の印があった。
「小宮の紙が嘘なら、この帳面も嘘かもしれない」
薬問屋の主人は棚を背にして言った。
「店の者へ、そうでないと説明できる物が要る」
「受取書がある」
弁蔵が七日帳を開く。
「昨日までの品は、あんたの店が出した」
「昨日までが正しくても、今日の借主が二重なら、誰へ請求する」
主人は小夜だけを困らせたいのではなかった。包みを作る女、小僧、運ぶ人足へ払う銭がある。間違った名へ品を渡し続ければ、その三人の銭も遅れる。
黒田半蔵は、帳場の外で話を最後まで聞いた。
いつ来たのか、鉄之助は気づかなかった。黒田は主人へ名乗り、懐中時計を開いた。
「止まっている受渡しは何件だ」
「薬包一件。次の往診一件です」
「魚河岸の週次口は」
「小宮さんを含めて七件」
「七件すべてに赤石屋の借用証があるのか」
「ありません」
「なら分けろ」
黒田は弁蔵の帳面を自分へ引かなかった。主人に、昨日までの受取書と今日の偽借用証を一枚ずつ読ませた。
薬包、往診、米、炭、家賃。店名と日付が続き、小夜の署名は一画ごとに筆を置いた跡がある。赤石屋の紙にある名は、一息で流れていた。証人欄の鉄之助も本人が否定している。赤石屋の紙を正しいと認めた者は、まだ赤石屋以外にいない。
「これは官が家財を取り上げた紙ではない」
黒田は偽借用証を指した。
「赤石屋が借りを主張している。それだけを、今日の受渡しと別の欄へ置け。七件を一つに括れば、米屋も炭屋も止まる。止まった分は明日、店の損になる」
「東京警視本署が払うのですか」
主人が問う。
「払わない。品を渡すかは店が決めろ。私は、争いのない六件まで止めた時刻と理由を書かせる」
主人は店の三人を見た。包みを作る女は、朝から同じ薄紙を折り直している。小僧は持ち帰った小夜の札を帯へ挟んだままだった。
「小宮さんの分だけ、今日の受取を本人に書いてもらう。ほかの六件は今までどおり出す」
主人が決めた。
「赤石屋の紙が正しいと決まったら」
「その時、別に話す」
弁蔵が答えた。
小僧は棚から朝の包みを下ろした。薬の中身が良くなったわけではない。咳と熱を軽くし、眠れる時間を作る包みである。それでも今日の一包が、紙の騒ぎとは別の欄へ戻った。
黒田は次に魚河岸へ行った。
鉄之助がついていくと、米屋の手代が弁蔵の支払所の前で帳面を閉じかけていた。黒田は開けろとも貸せとも命じず、どの受取へ疑いがあるかを聞いた。手代は答えられなかった。赤石屋の使いが「魚河岸の名は危ない」と言っただけだった。
「今朝届いた米は、誰が受けた」
「弁蔵さんです」
「その印は」
「あります」
「では、その米の話をしろ」
手代は帳面を開いた。
夕刻、荷運びの男たちはその日の銭を受け取った。一人は銭を二つに分け、片方を米屋へ置いた。干魚を売る女の枡にも、いつもの量が入った。銭を受け取る者は、今日の仕事の代だと思って帰った。
黒田はそれでよい顔をした。
「お前は小宮を助けたいのか」
鉄之助が聞くと、黒田は支払所の人数を数えた。
「今日止めれば、明日は十一軒だ。明後日は問屋が二つ止まる。小宮一人の話に狭めるな」
「小宮の縄痕は狭めた」
黒田の視線が鉄之助へ移った。
「その話は、今していない」
否定しなかった。官封三綴りへ入れなかった周防の一枚も、文箱にあるままだった。
本所へ戻ると、赤石屋の荷車が長屋の前にあった。
今度は長持だけでなく、布団と火鉢も積まれている。その横に周防主計が立っていた。鼠色の羽織に雨染み一つなく、赤石屋の手代へ小夜の書付を読ませている。
「無条件で戻してください」
周防は言った。
「こちらの借用証と引換えで」
「それでは小宮小夜さんが、借りを返して受け取る形になります」
「店にも紙が要ります」
「二月に買付済みとした番号の現物を、六月に初めてこの家から運んだ。その経緯を店の紙へ残しますか」
手代の口が閉じた。
周防は声を落とさなかった。長屋の者に聞かせたいのでも、隠したいのでもないらしい。
「赤石屋さんには二つあります。いま運び戻し、朝の三枚を店の誤りとして引く。あるいは、六月十七日に小宮家の原証書を初めて得たことを、番号入りで残す」
選べる道を二つだけ示した。
手代は荷車へ合図した。
「戻します」
小夜は戸口から出なかった。
「私が書いた条件を、先に読んでください」
周防が一字も変えずに読んだ。本人、弁蔵、長屋の女房の前で長持を開ける。原証書を本人が確認する。新しい受取や預りへ署名しない。周防にも黒田にも預け替えない。
赤石屋の男が長持を畳へ置いた。小夜は帯から鍵を出し、自分で錠を開けた。
上の古着を除き、原証書を取り出す。四六二八一。七分利、百円。端の折り目。油紙の紐。朝、鉄之助が荷車へ載せる前に見た物と同じだった。
小夜は戦死通知、帰京手紙、未投函の下書き、二片に切った手紙も順に確かめた。手代は急かさなかった。急かせば、また書く物が増える。
最後に手代が一枚出した。
「家財を返した受取だけでも」
「書きません」
「何を返したかが残りません」
「弁蔵さんと、こちらの女房が見ました。あなたが必要なら、ご自分の名で書いてください」
手代は自分で書いた。長持一棹、布団一組、火鉢一つ。小宮小夜は署名せず。末尾へ手代の名だけが残った。
小夜は薬包を受け取った時だけ、問屋の札へ自分の名を書いた。
「周防さま。助けていただきました」
「遅くなりました」
「見舞いの包みは、まだ開けません」
周防の目が長持へ一度だけ落ちた。
「それも、小宮小夜さんがお決めになることです」
「兄のことを、どこまで知っていますか」
「今日は、あなたの住まいと薬を戻しに来ました」
周防は答えを二つに分けず、その一つだけを残した。
去り際、鉄之助は周防へ聞いた。
「赤石屋が何を恐れるか、よく知っているな」
「偽の紙が一枚通れば、正しい百枚も疑われます。疑われた日に困るのは、明日まで待てない人です」
周防が実際に戻した物は、鉄之助の目の前にあった。だから、その言葉を嘘だけにはできなかった。
夕方、小夜は長持の中を入れ直した。
兄の手紙の上半を帰京手紙の下へ置く。下半は古着の奥から出し、上半と同じ封へ重ねた。
「明後日の朝、三人で来てください」
小夜は鉄之助へ言った。
「りんさんと、志乃さんにも、私から頼んだと伝えてください」




