手形と刀
長持を荷車へ載せられる前に、鉄之助は手代の喉まで三歩と測った。
六月十七日の朝だった。
本所の長屋の路地に、赤い石の前掛けが三つ見えた。二人が小夜の長持を両側から抱え、残る一人が戸口で紙を読んでいる。布団は縄で巻かれ、火鉢には細い札が結ばれていた。札には「預り」とだけある。官の印も、東京警視本署の名もない。
「下ろせ」
鉄之助が言うと、長持の片側を持った男が足を止めた。だが手代は紙から目を上げただけだった。
「小宮小夜さんの借りです。相良鉄之助さんにも、お立ち会いいただいたことになっております」
差し出されたのは三枚だった。
借用三十円。七分利百円の原証書を預かる。払いが滞れば家財を店で預かる。末尾には小宮小夜、証人には相良鉄之助と書かれている。
小夜の名は、弁蔵の七日帳にある字へ似せてあった。だが小宮の「宮」の最後が細く伸びている。小夜はそこまで一息で書けず、必ず筆を置き直す。鉄之助の名は達者すぎた。自分なら「鉄」の右をこんなに狭くは書けない。
「俺は見ていない。小夜も借りていない」
「そういうお話は、紙を戻してからゆっくり伺います」
手代は争う声を作らなかった。路地へ出てきた長屋の者たちへ聞かせるため、むしろ低く話した。
「こちらも家財が欲しいわけではありません。原証書一枚をお預けくだされば、布団も火鉢もすぐ戻します」
長屋の女房が手代の札を裏返した。
「お上の御用かい」
「店と借主の話です」
「だったら、うちの敷居で勝手をするんじゃないよ」
「家賃まで滞れば、困るのはこちらでしょう」
女房の手が止まった。小夜の家賃は療養立替から七日ごとに払われている。今朝の更新が止まれば、次を誰が出すかは決まっていない。
部屋の中で小夜が咳をした。
「相良さま。入ってください」
鉄之助は手代から目を外さず、敷居を越えた。
畳には、長持を引きずった跡が二筋ついていた。小夜は壁へ背を預け、膝に弁蔵の帳面を置いている。今朝届くはずの薬包はなかった。代わりに薬問屋の小僧が戸の脇へ座り、受渡しの札を両手で持っていた。
「帳場で、名に争いがあるうちは渡すなと言われました」
小僧は小夜へ詫び、鉄之助へは詫びなかった。
「前の分まで取り上げるわけじゃありません。今日の包みだけ、店へ戻します」
一つの偽りが、もう薬問屋まで歩いていた。
鉄之助は竹筒へ右手を掛けた。
戸口の手代。荷車の男が二人。路地には長屋の女房と子ども。薬問屋の小僧。最初の一人を斬ったあと、残る二人は長持を荷車ごと運べる。鉄之助が連れていかれれば、小夜は紙の嘘を自分一人で争う。
それでも、手を離せなかった。
「相良さま」
小夜が呼んだ。
「その人を斬れば、証書は私へ戻りますか」
「戻す」
「誰が」
鉄之助は答えられなかった。
長持はもう戸外にある。中には原証書だけでなく、戦死通知、帰京手紙、未投函の下書き、野添市助と片岡弥吉の名控え、一月十七日の手紙の上下がある。刃を抜けば、赤石屋の男は長持ごと争いの品だと言うだろう。黒田が来ても、原物を官の封へ入れるだけかもしれない。
小夜は薬問屋の小僧へ向いた。
「今日の包みを、あなたが持ち帰ったと帳面へ書いてください。私が断ったことにしないでください」
「はい」
「昨日までの受取は、消さないでください」
小僧は札の余白へ、六月十七日、問屋へ持ち帰り、と書いた。小夜は字を読み、自分では署名しなかった。
次に手代へ言った。
「長持を開けましたか」
「まだです」
「鍵は私が持っています。壊せば、そのことも残ります」
「紙があれば、ほかは戻せます」
「借りていません。ですから、返す物もありません」
小夜は短く息をついた。
「ただ、兄の原証書が長持にあることは認めます」
鉄之助が小夜を見る。
隠せば、男たちは長持の中身を探す。小夜は手紙まで荒らされる前に、相手が欲しい物を自分で名指したのだ。
手代が荷車へ顎を向けた。
「では、お預かりします」
鉄之助は竹筒から手を離した。
長持の片側が路地の石へ落ちかける。鉄之助は男を押しのけ、取手を持った。
「相良さんのお手を借りる筋では」
「落とすな。中の紙の折り目まで、俺が覚えている」
荷車まで七歩だった。戦場なら、負傷兵を載せる距離にもならない。長持の重さは、持ち主の手から離れる七歩だけで変わった。鉄之助は荷台へ置き、縄が蓋の蝶番を潰さない位置まで直した。
手代は三枚のうち一枚を小夜の敷居へ置いた。
「異存は、この紙をお持ちになって店へ」
「あなたの店へ行けば、借りを認めたことにしますか」
小夜が問う。
手代は初めて、答えるまで間を置いた。
「お話を聞くだけです」
「では行きません」
荷車が路地を出た。
鉄之助は二歩だけ追った。車は大通りへ出ず、南の細道へ曲がった。赤石屋の蔵へ真っ直ぐ行く道ではない。あとを追えば、長持の置き場所まで見られるかもしれない。
「何人でしたか」
部屋から小夜が聞いた。
「手代一人、運ぶ男二人。車は南へ曲がった」
「顔は」
「覚えた」
「では、いまは戻ってください」
追うか残るかまで、小夜は鉄之助に代わって決めなかった。必要な物を聞き終えてから、自分の側へ戻るよう頼んだ。
布団と火鉢は戸外へ残された。住めなくはない。眠る物も、炭を入れる物も、原証書もない。人を殺さずに家を奪うには、それで足りた。
長屋の女房が火鉢の「預り」を引きちぎった。
「昨日までの家賃は受け取ってる。今日、この部屋を出ろとは言わせないよ」
布団の縄も小刀で切り、自分で部屋へ押し込んだ。赤石屋へ逆らう大きな言葉は使わず、すでに受け取った一日ぶんだけを守った。
弁蔵が七日帳を抱えて来たのは、車輪の音が消えたあとだった。
事情を聞くと、偽の三枚を一度だけ読み、畳へ伏せた。
「これを持って赤石屋へ殴り込んでも、向こうの紙が増えるだけだな」
「周防さまへ届けてください」
小夜は筆を求めた。
鉄之助は顔を上げた。
「なぜ周防だ」
「兄の証書番号と、私の薬の受渡しを、聞く前から知っていた方です。知らないと言えない所まで、知っています」
「信用するのか」
「助けを求めます。信用するとは書きません」
小夜は弁蔵の帳面から新しい紙を一枚受けた。一行書くごとに筆を置き、呼吸を戻した。
——小宮小夜は、赤石屋から三十円を借りていません。
——原証書は、私の手へ返してください。
——代わりに、周防さまにも、黒田さまにも預けません。
最後に、返す場へ弁蔵を立ち会わせること、新しい受取や預りの紙へ署名しないことを足した。
小夜は自分の名を書き終え、紙を弁蔵へ渡した。
「もう一行、要るんじゃないか」
弁蔵が言った。
小夜は筆を取り直した。
——助けてください。
そのひと言だけは、一度も筆を置かずに書いた。




