父の一行
父の無実を証明するために開いた旧帳を、志乃は二月十二日の頁で閉じられなくなった。
六月十五日の夕方。辰五郎の納屋には志乃一人しかいなかった。鉄之助とりんは別の道で来る。二人が一緒に歩かなくなって三日経つ。
父・辰野源吾の旧帳は、四月二十九日で終わっていた。
表向きは筆写の仕事控えである。頼んだ店、紙の枚数、受け取った銭、舟賃。父は家でも主語を省かなかった。誰から受け、誰へ返すかを一行の中に書く。その父が、赤石屋の仕事だけは店名を「赤」、場所を「新堀四」、品を「薄」と縮めていた。
志乃は以前、その短さを急ぎのせいだと思った。
今は、赤石屋の内控「い七十四」を知っている。名を空けた預り証の紙幅も、戸田孝作の持ち主控を本人の許しを得て測った。周防が注文の文を直した四日と、そのたび先置きされた洋銀も知っている。
知ったあとで読むと、父の短い字は、急いだ字ではなかった。読まれた時に仕事の中身だけが残らないよう、意識して削った字だった。
二月十二日の頁に、志乃自身の「二」がある。
その下へ父が書いていた。
赤、い七十四。代理三名、薄へ移す。新堀四。受領、辰野源吾。
父の署名は、いつものように「源」の最後を一度止めていた。誰かが似せた字ではない。
志乃は二月に、日付の位置がずれたから数字だけ直してほしいと頼まれた。借主も番号も伏せた紙だった。自分が清書した「二月十二日」は、小宮佐一が死んだあとの借用日になった。
父は、その数字を何へ入れるか知っていた。
外で鍵が鳴った。
りんが入ってきた。鉄之助はいない。
「遅れた。紙問屋の荷札を見てきた。新堀へ行く荷車、まだ出てない」
りんは油布を一枚、志乃の隣へ置いた。
「雨が来る。帳面を包んで」
「私の肩ではなく、帳面ですか」
「志乃さんは濡れても字を読める。紙は読めなくなる」
りんは旧帳の中を覗かなかった。志乃が読み上げるまで待った。
署名の一行を聞くと、りんは父が脅された可能性を口にしなかった。
「行く?」
「行きます」
「鉄さんも呼ぶ?」
志乃は一瞬迷い、うなずいた。
りんは納屋を出た。鉄之助を呼びに行く道は、三日前まで二人で歩いた道だった。
新堀河岸へ薄紙を運ぶ荷車は、日が落ちる前に小網町を出た。
鉄之助は荷の後ろを歩かず、二本先の橋へ回った。りんは川側の細道を行く。志乃は旧帳に記された舟賃と倉番号を確かめながら、見失わない距離を保った。
新堀四番の紙蔵は、表から見れば貸倉だった。軒へ店名はない。薄紙の束、糊の樽、使い古した帳面箱が出入りする。戸口には赤い石の前掛けが一人いた。
「父は、中です」
志乃が言うと、鉄之助は戸口の人数を数えた。
「見えたのか」
「いいえ。この納め方は父です」
荷車から下ろされた薄紙には、束ごとに紙紐が掛かっている。上から一、二、三ではなく、使う日が早い束から紐の端を短く切る。源吾は、積んだ順を崩しても戻せるよう、家でも同じことをした。
赤い前掛けは短い端から先に蔵へ入れた。
救い出すなら、戸が開いている今だった。
鉄之助の腰に竹筒はある。りんは裏の水路から回れる。志乃が父の名を呼べば、父も戸口へ来るかもしれない。
ただし、薄紙と一緒に、綴じた原稿が二箱入った。父だけを連れ出せば箱は別の蔵へ動く。箱を取れば、父が奥へ移される。
「黒田へ知らせますか」
志乃が聞く。
鉄之助はすぐに答えなかった。
「黒田の文箱には、周防の一枚がある。知らせればここへ来る。その前に周防へ届くかもしれん」
「では、私たちで入る?」
りんの手は戸でなく、志乃の旧帳を包んだ油布にあった。
蔵の裏は、水路へ杭を出していた。三人は空の荷足舟を一艘挟み、隣の薪置き場へ回った。板壁の下に、水を逃がす隙間がある。中の足元だけが見えた。
赤い前掛けが二人。草履が一足。踵を外へすり減らし、右の鼻緒だけ新しい。
志乃は、その草履を知っていた。父は右足へ力を掛けて筆を擦る癖があり、鼻緒も右から切れた。
紙を数える声がした。
「代理名は、あと何人だ」
「七人です」
父の声だった。
四月二十九日から、志乃は何度も夢で聞いた。夢の父は、たいてい「心配するな」と言った。壁の向こうの父は、紙の枚数だけを答えた。
「修正文は誰へ返す」
「主計さまへ」
短い沈黙があった。
「周防さまへ、です」
自分で言い直した。
志乃は壁へ手をついた。木の向こうまで、腕一本の厚さもない。父の名を呼べば届く。
鉄之助が止めたのではなかった。
志乃は自分で口を閉じた。
中の男が、明朝には次の束を別の場所へ出すと言った。今入れば、父と二箱のどちらかを失う。父の無実を信じるだけなら、父を先に取ればよかった。
旧帳には、父自身の署名がある。いま父は、秘密買付の代理名を数えている。閉じ込められているとしても、書いた一行まで誰かの手にはできない。
小雨が落ちてきた。
りんは油布を志乃の旧帳へ掛けた。自分の髪は濡れたままにした。
「父を置いていくのですか」
志乃が聞いた。誰へ向けた問いか、自分でもわからなかった。
「場所を見失わない」
鉄之助は人数と出入口だけを言った。
りんは何も言わなかった。
志乃は油布の下で帳面を開いた。六月十五日、新堀四番倉。薄紙二箱。出入口二。赤石屋の前掛け二人。辰野源吾の声。
最後に、聞いた通りを書く。
「主計さまへ」と言い、「周防さまへ」と訂正。
その下へ、辰野志乃と署名した。
その行の上には、火事場で要点写しを取った周防の修正文日が四つある。今津の原帳で洋銀の動きと重なった日だけ、余白へ短い印を置いた。金額と受取人名の欄は空けた。
雨で墨が流れないよう、りんが油布を閉じた。中では志乃の署名がまだ乾いていない。
志乃は蔵の位置をもう一度確かめ、父を呼ばずに水路を離れた。




