預けた家
戸田孝作は、新聞屋を家へ入れなかった。
六月十一日の昼、鉄之助だけが呼ばれた。
迅平が今津へ託した取材の書付に、戸田自身が場所と時刻を書いて返した。ただし仮名垣迅平は連れてくるな、愚かな士族の話にするな、と二行つけてあった。
鉄之助は、その条件を迅平へ読ませてから来た。
戸田の借間は神田橋の外れにあった。六月一日の貸席で一緒だった幼い娘が、土間で豆の傷んだ物を選り分けている。あの日、銀貨へ伸ばした手は、今は小さな豆を一つずつ脇へ出していた。
戸田は鉄之助を座らせる前に、空の長持を開けた。
「原証書は、ここにあった」
底へ敷いた紙に、四角い色の差だけが残っている。
「今は赤石屋です」
「知っている」
「取り返しに来たなら帰ってください。あなたに頼んでいません」
戸田はあの日の持ち主控えを出した。三十円の借用証。七分利百円の預り証。日付と代理人を空けた委任の紙。自分の名と指印がある。
「私は、空欄を見ました。今津さんにも読ませた。証書を預ければ、向こうが強いことも聞いた」
「八十二円の見込は」
「聞いていない」
娘が選り分けた豆を、小さな紙袋へ移す。袋は薬種屋の古い包みだった。
「あの子は五月の終わりから熱が続いた。家賃も二月遅れていた。道具を直さなければ、書付の仕事も受けられない」
戸田は壁際の文机を示した。割れていた脚へ新しい木が継いである。机の上には家主、米屋、薬種屋から受け取った紙が重なっていた。炭俵は半分。米櫃の底には、夜までに炊く分が残っている。
三十円は消えてはいなかった。娘の熱が下がった夜、追い出されずに済んだ月、戸田がまた一行を書いて銭を得た机へ形を変えていた。
「まだ銀貨も残っています」
戸田は銭箱を開けた。
「これが尽きるまでに仕事を戻す。戻らなければ、私は証書を失って家も失います」
「それでも借りたか」
「借りました」
戸田は鉄之助の顔を見た。
「三十円を断ったあなたが、私より娘を救ったとは言わせません」
鉄之助は返せなかった。小夜の原証書を持ち帰れたことは正しかった。それで戸田の娘へ薬が届いたわけではない。
戸口が二度鳴った。
入ってきた女は、麦の袋と干した菜を抱えていた。髪を後ろで一つに結び、古い小袖の上から男物の帯を締めている。後ろには近衛砲兵の上着を着た瀬川宗吉が、炭を半俵担いでいた。
「桐野さん」
戸田の娘が立ち上がった。
桐野千景は返事の代わりに、娘の額へ手を当てた。
「昨日よりは低い。豆はあとでやれ。先に横になれ」
「これは売る分」
「傷んだ豆を売ったら、次から良い豆まで値を下げられる」
桐野は袋を土間へ置き、そこで鉄之助を見た。
「誰だ」
「相良鉄之助。取引所で、私の前に三十円を断った方です」
戸田が紹介すると、桐野は鉄之助の膝と竹筒を見た。
「断れる者が、断れない家を見に来たか」
「話を聞きに来た」
「聞いたあと、誰へ売る」
「新聞屋へは渡さない約束だ」
桐野は戸田を見る。戸田がうなずくまで、麦袋から手を離さなかった。
瀬川が炭を下ろし、懐から折り紙の束を出した。十余名が自分の願いを書き足した束だった。鉄之助が五月に預かった瀬川一人の下書きだけは、まだ竹筒の中にある。読んで直すと言ったまま、事件を追って返していなかった。
「六日ぶんの給金。戦役の褒賞。俺のだけじゃない」
束には、同じ砲兵の名が十余りあった。
「返事は」
「ない。上へ出したかもわからん」
瀬川は紙を鉄之助の前へ置かなかった。先に戸田へ、炭代の受取を書いてもらう。
桐野が願いの束を取り上げた。
「兵営の内で読まれないなら、給金日に持って外へ出ろ」
「どこへ」
「兜町を通れ。取引所の前なら、腹の減った兵が何人いるか、相場を見る者にもわかる」
瀬川の顔が硬くなった。
「俺は給金を取り戻したい。商人を脅したいんじゃない」
「刀も銃も持つな。紙だけ持てばいい」
「四十人で歩けば、紙だけには見えん」
「一人で出して、今まで読まれたか」
桐野は声を荒らげなかった。娘へ麦を運んだ手で、兵の人数を数えていた。
鉄之助が口を挟む。
「人の怒りを値へ使うのか」
桐野はすぐには答えず、戸田の銭箱を見た。
「値が先にこの家を使った」
それ以上の言葉を重ねず、空になった干菜の包みを畳んだ。
戸田が委任の持ち主控を鉄之助へ向けた。
「もう一つ、聞いてください」
契約が終わったあと、今津が印を取りに席を外した。竹の衝立の向こうで、赤石屋の手代が別の男に言ったという。
「八十二まで待てば、この家で五十二」
戸田は、その時は何の数かわからなかった。自分が受け取った三十との差だとも、政府の買上げ見込だとも知らない。赤石屋の取り分かと聞き返す前に、手代は黙った。
「今ならわかります」
戸田は自分の指印へ指を置いた。
「私は三十を選んだ。向こうは、八十二を知って私に三十を選ばせた」
「手代の名は」
「知りません。赤い石の前掛けでした」
それだけでは周防へ届かない。だが契約の席まで、未公表の値が降りていた。
娘が土間へ戻り、桐野の麦袋を持ち上げようとした。重くて動かない。瀬川が片側を持ち、娘は反対を持った。二人で米櫃の脇へ運ぶ。
戸田は止めなかった。借りた物と、受け取った物を、紙へ一つずつ書いた。
鉄之助が持ち主控えを返すと、戸田は空の長持へ納めた。底には、原証書のあった四角だけが明るく残っている。
鉄之助は、指印を押したことを悔いるかとは聞かなかった。




