書けない記事
鉄之助は、周防の名を刷らせたかった。
六月八日の夕方、仮名垣迅平は、その名を活字へ拾わなかった。
京橋の小新聞屋には、刷る前の紙が縄から下がっていた。昨日の火事、迷い犬、役者の喧嘩。町の出来事は同じ大きさの枠へ押し込まれ、売れそうな順に上へ移される。
迅平は鉄之助の前で、記事の行を指で数えた。
「周防主計。大蔵の実務官。薬問屋で病人の猶予を作った。五月に四度、書付を直した」
「その四日に洋銀が動いた」
「原帳を見たのは」
「今津の貸席で、俺とりんと志乃だ」
「紙は」
「今津が持っている」
「周防の名がある注文指示は」
「黒田の文箱だ」
「写しは」
「志乃が要点だけ取った」
迅平は筆を置いた。
「新聞屋が一番嫌う並びだ。大きな名ほど原物が遠い」
「お前が書けば、遠くなくなる」
「字は舟じゃない。原物を運んではくれない」
迅平の机には締切までの刻を測る線香が立っていた。灰が半分落ちている。隣では植字工が「主」の活字を見つけ、別の欄へ置いた。
鉄之助は今津の送金控で見た四日を言った。五月九日、十四日、二十一日、二十八日。横浜では届かない時刻。魚水のない荷札。赤石屋が東京へ先に置いた洋銀。受取符号「主」。
迅平は最後の一字だけ、何度も聞き返した。
「主は、周防の主計の主か」
「決められん」
「見出しなら一字で足りる」
「足りないと、いま言った」
志乃が迅平の紙へ指を置いた。
「洋銀を受け取った人は、誰ですか」
「周防、と書きたい」
「書けません。原帳は『主』の一字です」
迅平は人名を置くはずだった所へ、受取符号と書き直した。
「青柳工房から出た注文指示は、官の封にありますか」
「黒田の文箱だ」
「では、官封三綴りへ入ったように書かないでください。受取書にもありません」
迅平は文を二つに割った。官封三綴り。別に、受取書へない注文指示一枚。直した紙の端へ自分の名を書く。
「これでは周防の名を出せない」
「出せない物を、出せるように書くのが新聞ではないのですか」
志乃の問いへ、迅平は首を振った。
「出せない物を出したように見せるのは、売文だ。おれは売文もする。だが今夜、どちらを刷ったかは明朝わかる」
りんが吊られた刷り紙を一枚嗅いだ。
「偉そうなこと言って、犬の次の欄だよ」
「犬は見つかると売れる。官吏は見つかると止められる」
迅平はまた行を数え始めた。
机の隅に、役所内の聞き書きが一枚あった。
戦死名簿を写し違え、勘定場を移された者。倉田徳次。五月、主計の下へ四度出入り。
「その男を疑っているのか」
鉄之助が聞くと、迅平は紙を裏返した。
「疑う根拠はない。だが、主計の下で帳面を扱った者と書けば、役所ではこの名を読む者がいる」
「なら、その文を外せ」
「外せば、洋銀が勝手に動いた記事になる」
「倉田の名は出すな」
「名は出さない」
迅平は聞き書きを机の下へ入れ、見出しの活字を先に拾わせた。線香の灰が、締切の線を越えた。
鉄之助は止めなかった。海運橋で小宮を沈めた縄を思い出していた。黒田の控えは二筋の痕を消した。小夜は手紙の下半分を見せない。原物を待っていれば、書いた者も運んだ者もまた消える。
「出せ」
鉄之助は言った。
「出せる所までだ」
翌朝、迅平の小新聞は、犬より上の欄で売られた。
見出しは「死者の名で洋銀動く」。
周防の名はない。「大蔵のある主計の下で帳面を扱った者」「五月の四度」「横浜洋銀」と書かれていた。受取符号は字にせず、官封三綴りと非記載の一枚も分けてある。
周防の名も倉田の名もない。それでも、役所の中で誰を指すかは一人に絞られた。
倉田徳次。去年、戦死名簿の数字を一度写し違えて勘定場を移された下級の帳簿係。五月に四度、周防の下へ紙を運んだことがあった。
昼前、倉田の借間へ行くと、戸は開いたままだった。
畳には荷造りの藁が散り、子どもの草履が片方だけ残っている。家主は敷居を雑巾でこすりながら、今朝、黒い前掛けの男が二人来たと言った。役所の者より先だった。
「倉田さんは」
「女房と子を親類へ行かせて、自分は川向こうだよ。次の月まで置く約束だったのに、今日出た。新聞屋から残りを取っておくれ」
迅平が記事を畳んだ。
「何行で人は町を出る」
「数えるな」
鉄之助は、子どもの草履を拾った。踵に倉田の字で右と書いてある。家主へ渡すと、親類へ届ける荷へ入れられた。
迅平は家主に一月分を先に払った。善行に見せるには銭が足りず、迷惑料と呼ぶには少なかった。家主は受け取り、足りない分を指で示した。迅平はもう一枚出した。
「訂正を刷れば戻るか」
「住み着いた噂を、紙一枚で追い出せるなら家主はいらないよ」
家主は戸を閉めた。
倉田が川向こうへ渡るなら、深川へ抜ける渡しは三つある。鉄之助は人を探す時も、荷の時間へ置き換えた。妻子を先に出し、役所へ戻らず、黒い前掛けを避ける。大きい橋は使わない。手荷物を持って一人で渡れる舟場へ向かう。
夕方、倉田は小網町の渡し口にいた。
風呂敷一つと、帳面箱。舟へ乗る銭を手の中で握り、後ろを何度も見ている。
鉄之助が名を呼ぶと、倉田は帳面箱を川へ投げようとした。
「新聞屋を連れてきたのか」
迅平が自分から前へ出た。
「書いたのはおれだ」
「私が銀を受け取ったと書いた」
「そこまでは書いていない」
「役所では、そこまで読んだ」
倉田は迅平の新聞を懐から出した。何度も握った紙は、見出しの所だけ汗で薄くなっている。
「私は四度、紙を運びました。封は開けていません。前の写し違いを理由に、断ればまた職を移すと言われた」
「誰に」
鉄之助が問うと、倉田は後ろへ下がった。
「その質問のせいで、ここまで来た」
迅平が地面へ座った。
「訂正を出す。倉田徳次の名は出さない。記事のどこが違うか、おれへ言え」
「全部だ」
「それでは紙面が白くなる」
倉田は怒鳴りかけ、舟を待つ者たちを見て声を落とした。
「主計の下で紙を扱った者が、銀を動かしたように読める。紙を運んだだけの者と、文を直した者と、受け取った者を分けて書け」
迅平は懐から折った紙を出した。立ったまま、倉田の言葉をその順に書いた。
鉄之助は急かさなかった。自分が迅平へ出せと言った。倉田を追ったのは、見出しだけではない。
書き終えると、倉田は帳面箱を抱え直した。
「一月十七日の夜、海運橋にいました」
鉄之助の足が止まる。
「名簿の古い写しを返した帰りです。赤石屋の男が、魚河岸の荷運びと争っていた」
「顔を見たのか」
「辰五郎と呼ばれていました。三度は運んだだろう、四度目も運べ、と」
倉田は舟へ目をやった。
「辰五郎は断りました。次の控えに娘の名を使うなら運ばない、と」
りんの父は、去年の暮に消えたはずだった。
「時刻は」
「九つの鐘より前です。訂正には私の名を出さないでください。妻子のいる所も」
迅平は今書いた紙を裏返し、倉田の名のない文へ直し始めた。
倉田は舟へ乗らず、書き終わるまで渡し口に残った。




