表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/32

書けない記事

鉄之助は、周防の名を刷らせたかった。


六月八日の夕方、仮名垣迅平は、その名を活字へ拾わなかった。


京橋の小新聞屋には、刷る前の紙が縄から下がっていた。昨日の火事、迷い犬、役者の喧嘩。町の出来事は同じ大きさの枠へ押し込まれ、売れそうな順に上へ移される。


迅平は鉄之助の前で、記事の行を指で数えた。


「周防主計。大蔵の実務官。薬問屋で病人の猶予を作った。五月に四度、書付を直した」


「その四日に洋銀が動いた」


「原帳を見たのは」


「今津の貸席で、俺とりんと志乃だ」


「紙は」


「今津が持っている」


「周防の名がある注文指示は」


「黒田の文箱だ」


「写しは」


「志乃が要点だけ取った」


迅平は筆を置いた。


「新聞屋が一番嫌う並びだ。大きな名ほど原物が遠い」


「お前が書けば、遠くなくなる」


「字は舟じゃない。原物を運んではくれない」


迅平の机には締切までの刻を測る線香が立っていた。灰が半分落ちている。隣では植字工が「主」の活字を見つけ、別の欄へ置いた。


鉄之助は今津の送金控で見た四日を言った。五月九日、十四日、二十一日、二十八日。横浜では届かない時刻。魚水のない荷札。赤石屋が東京へ先に置いた洋銀。受取符号「主」。


迅平は最後の一字だけ、何度も聞き返した。


「主は、周防の主計の主か」


「決められん」


「見出しなら一字で足りる」


「足りないと、いま言った」


志乃が迅平の紙へ指を置いた。


「洋銀を受け取った人は、誰ですか」


「周防、と書きたい」


「書けません。原帳は『主』の一字です」


迅平は人名を置くはずだった所へ、受取符号と書き直した。


「青柳工房から出た注文指示は、官の封にありますか」


「黒田の文箱だ」


「では、官封三綴りへ入ったように書かないでください。受取書にもありません」


迅平は文を二つに割った。官封三綴り。別に、受取書へない注文指示一枚。直した紙の端へ自分の名を書く。


「これでは周防の名を出せない」


「出せない物を、出せるように書くのが新聞ではないのですか」


志乃の問いへ、迅平は首を振った。


「出せない物を出したように見せるのは、売文だ。おれは売文もする。だが今夜、どちらを刷ったかは明朝わかる」


りんが吊られた刷り紙を一枚嗅いだ。


「偉そうなこと言って、犬の次の欄だよ」


「犬は見つかると売れる。官吏は見つかると止められる」


迅平はまた行を数え始めた。


机の隅に、役所内の聞き書きが一枚あった。


戦死名簿を写し違え、勘定場を移された者。倉田徳次。五月、主計の下へ四度出入り。


「その男を疑っているのか」


鉄之助が聞くと、迅平は紙を裏返した。


「疑う根拠はない。だが、主計の下で帳面を扱った者と書けば、役所ではこの名を読む者がいる」


「なら、その文を外せ」


「外せば、洋銀が勝手に動いた記事になる」


「倉田の名は出すな」


「名は出さない」


迅平は聞き書きを机の下へ入れ、見出しの活字を先に拾わせた。線香の灰が、締切の線を越えた。


鉄之助は止めなかった。海運橋で小宮を沈めた縄を思い出していた。黒田の控えは二筋の痕を消した。小夜は手紙の下半分を見せない。原物を待っていれば、書いた者も運んだ者もまた消える。


「出せ」


鉄之助は言った。


「出せる所までだ」


翌朝、迅平の小新聞は、犬より上の欄で売られた。


見出しは「死者の名で洋銀動く」。


周防の名はない。「大蔵のある主計の下で帳面を扱った者」「五月の四度」「横浜洋銀」と書かれていた。受取符号は字にせず、官封三綴りと非記載の一枚も分けてある。


周防の名も倉田の名もない。それでも、役所の中で誰を指すかは一人に絞られた。


倉田徳次。去年、戦死名簿の数字を一度写し違えて勘定場を移された下級の帳簿係。五月に四度、周防の下へ紙を運んだことがあった。


昼前、倉田の借間へ行くと、戸は開いたままだった。


畳には荷造りの藁が散り、子どもの草履が片方だけ残っている。家主は敷居を雑巾でこすりながら、今朝、黒い前掛けの男が二人来たと言った。役所の者より先だった。


「倉田さんは」


「女房と子を親類へ行かせて、自分は川向こうだよ。次の月まで置く約束だったのに、今日出た。新聞屋から残りを取っておくれ」


迅平が記事を畳んだ。


「何行で人は町を出る」


「数えるな」


鉄之助は、子どもの草履を拾った。踵に倉田の字で右と書いてある。家主へ渡すと、親類へ届ける荷へ入れられた。


迅平は家主に一月分を先に払った。善行に見せるには銭が足りず、迷惑料と呼ぶには少なかった。家主は受け取り、足りない分を指で示した。迅平はもう一枚出した。


「訂正を刷れば戻るか」


「住み着いた噂を、紙一枚で追い出せるなら家主はいらないよ」


家主は戸を閉めた。


倉田が川向こうへ渡るなら、深川へ抜ける渡しは三つある。鉄之助は人を探す時も、荷の時間へ置き換えた。妻子を先に出し、役所へ戻らず、黒い前掛けを避ける。大きい橋は使わない。手荷物を持って一人で渡れる舟場へ向かう。


夕方、倉田は小網町の渡し口にいた。


風呂敷一つと、帳面箱。舟へ乗る銭を手の中で握り、後ろを何度も見ている。


鉄之助が名を呼ぶと、倉田は帳面箱を川へ投げようとした。


「新聞屋を連れてきたのか」


迅平が自分から前へ出た。


「書いたのはおれだ」


「私が銀を受け取ったと書いた」


「そこまでは書いていない」


「役所では、そこまで読んだ」


倉田は迅平の新聞を懐から出した。何度も握った紙は、見出しの所だけ汗で薄くなっている。


「私は四度、紙を運びました。封は開けていません。前の写し違いを理由に、断ればまた職を移すと言われた」


「誰に」


鉄之助が問うと、倉田は後ろへ下がった。


「その質問のせいで、ここまで来た」


迅平が地面へ座った。


「訂正を出す。倉田徳次の名は出さない。記事のどこが違うか、おれへ言え」


「全部だ」


「それでは紙面が白くなる」


倉田は怒鳴りかけ、舟を待つ者たちを見て声を落とした。


「主計の下で紙を扱った者が、銀を動かしたように読める。紙を運んだだけの者と、文を直した者と、受け取った者を分けて書け」


迅平は懐から折った紙を出した。立ったまま、倉田の言葉をその順に書いた。


鉄之助は急かさなかった。自分が迅平へ出せと言った。倉田を追ったのは、見出しだけではない。


書き終えると、倉田は帳面箱を抱え直した。


「一月十七日の夜、海運橋にいました」


鉄之助の足が止まる。


「名簿の古い写しを返した帰りです。赤石屋の男が、魚河岸の荷運びと争っていた」


「顔を見たのか」


「辰五郎と呼ばれていました。三度は運んだだろう、四度目も運べ、と」


倉田は舟へ目をやった。


「辰五郎は断りました。次の控えに娘の名を使うなら運ばない、と」


りんの父は、去年の暮に消えたはずだった。


「時刻は」


「九つの鐘より前です。訂正には私の名を出さないでください。妻子のいる所も」


迅平は今書いた紙を裏返し、倉田の名のない文へ直し始めた。


倉田は舟へ乗らず、書き終わるまで渡し口に残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ