小夜の朝
六月七日の朝、小夜は兄の手紙を全部は見せないと決めていた。
鉄之助は夜明けより早く来た。海運橋で濡らした裾には、乾いた川泥の筋が残っている。畳へ座っても右の拳を開かず、森巳代次の名を一度だけ言った。
一度で足りた。兄を死なせたかもしれない男の名を、口の中で何度も噛んできた顔だった。
「手紙を見せてくれ」
頼む声だった。だからこそ、小夜はすぐには長持を開けなかった。
先に朝の薬包を使った。白湯は冷めていた。咳が収まるのを待って、昨日までの受取書へ目を通す。薬包、医師の往き来、米、炭、家賃。弁蔵へ返す七日分の写しは、昼までに自分の署名を入れなければならない。
鉄之助が苛立っている時ほど、小夜は普段の順を変えなかった。兄も、急ぐ時に順を飛ばした。そして人の名を二人ぶん売った。
りんと志乃が来ると、小夜は障子を閉めさせた。
「三人とも、ここで聞いてください」
長持の底から、帰京手紙と未投函の下書きを出す。その下に、別の封があった。
表には小宮小夜へ、とある。右上がりの小さな字。裏へ押された日の印は一月十七日だった。
「十八日の朝に届きました」
りんが封の切り口を見た。
「一度、開けてる」
「何度も読みました」
「なぜ今まで黙っていた」
鉄之助の声が低くなる。
小夜は答える前に、封から上半分だけを出した。紙は途中で真っ直ぐ切れている。鋏を入れたのは自分だった。
「先に読んでください」
志乃へ渡した。
兄の文は、冗談から始まっていた。
——小夜へ。雨戸は直していない。酒を飲んだ分では足りず、今度は紙のせいにする。
その次の行から、字が小さくなる。
——薬代が要った。野添市助と片岡弥吉の名を渡した。死んだ者の名なら、残る家を困らせないと思った。違った。あいつらは、死んだ名を使って、生きた家から証書を取る。
——俺は自分の証書番号を、買付の一行へ混ぜた。現物はお前が持っている。二つが同時にあるなら、どちらかが嘘だ。俺が戻らなければ、鉄にも知らせろ。
そこで紙は切れていた。
志乃は勝手に続きを推測せず、小夜へ上半分を返した。
鉄之助が聞いた。
「下は」
「あります」
「どこだ」
「私の長持です」
「見せてくれ」
「今日は見せません」
鉄之助の拳が畳へついた。
「巳代次の先に、命じた者がいる。兄は書いたのか」
小夜は答えなかった。それが答えの一部になることはわかっていた。
「相良さまは昨日、巳代次さんを殺そうとしましたか」
「思った」
「会っていたら」
鉄之助は、すぐには言わなかった。
「斬っていたかもしれん」
「では、下半分は渡せません」
「名前があるのか」
「質問を変えても、答えは同じです」
息の終わりに咳が入った。りんが水を取ろうとしたが、小夜は手を上げて待たせた。自分で息を戻してから続ける。
「新吉さんを連れていかせた朝、相良さまは一つの字で人を決めました。今日は一つの結びと傷です。兄が書いた名前を見れば、今度はその人へ行くでしょう」
「兄を殺した者を放っておけと言うのか」
「生きて話させてください」
「小宮は話せない」
「だから、残った人まで話せなくしないでください」
りんは鉄之助を止めず、小夜の前へ水だけを置いた。志乃は紙の切り口を見ている。
「小夜さんが切ったのですか」
「届いた日に」
「なぜです」
「兄の罪だけを鉄之助さまへ見せて、その先の名は私が持つためです」
小夜は長持から、小さな銭包みも出した。封は切っていない。表へ周防主計からの見舞いと書かれている。
「兄が消えた後に届きました。使っていません」
鉄之助が封へ手を伸ばしかけ、止めた。
「いくら入っている」
「開けていないので、知りません」
「なぜ、それも黙っていた」
小夜は自分の膝を見た。
「兄が人の名を売ったのは、私の薬代でした。周防さまが薬問屋へ猶予をつけた時、兄のしたことまで知られると思いました。そうなれば、療養を借りる資格がなくなると思ったのです」
弁蔵はそんな条件を一度も言っていない。小夜が自分で決めて、自分で恐れた。
「兄のせいにして、手紙を隠しました」
りんが銭包みを嗅いだ。
「魚油はない。薬問屋の紙とも違う」
「開けますか」
小夜が問うと、りんは首を振った。
「私のじゃない」
志乃も筆を出さなかった。
小夜は封を切らず、銭包みを長持へ戻した。
鉄之助だけが、長い間、切れた手紙を見ていた。
「いつなら、下を見せる」
「私が決めます」
「それでは遅いかもしれん」
「急いだために遅くなった人を、私は一人知っています」
新吉の名を言わなくても通じた。
鉄之助は立ち上がらなかった。拳を開き、川泥の筋が残る裾を膝の横へ置く。
「上を、もう一度読ませてくれ」
小夜は紙を渡した。
兄を善い人へ戻さないでください、と以前に頼んだ。手紙には、兄自身の字で同じことが書かれていた。薬代が要った。二人の名を売った。間違いを知ってから、自分の番号を混ぜた。遅すぎても、何もしなかったことにはならない。
昼前、弁蔵の帳面が届いた。
小夜は七日分を読み、続ける欄へ自分の名を書いた。兄が得た前金とも、周防の見舞いとも別の借りだった。
鉄之助たちが帰ったあと、上半分は帰京手紙と一緒に長持の底へ戻した。
下半分は、畳んだ兄の古着の下にある。
小夜はそこへ手を入れ、紙が残っていることだけを指で確かめた。




