海運橋の底
小宮佐一は、いつ死んだ。
鉄之助がそれだけを三度問うと、黒田半蔵は文箱の蓋を閉じた。
六月六日の早朝、東京警視本署の裏口には、夜番を終えた官吏が二人いた。黒田は鉄之助を中へ入れず、軒下に立たせたまま一枚の控えを読んだ。
一月十八日、明け方。海運橋から下った所で、荷足舟が男の身体を揚げた。三十前後。左腿に古い傷。懐の借間札に小宮佐一。銭なし。前夜、橋で足を滑らせたものと思われる。
「名は」
「借間札に、その名があった」
鉄之助の右手が黒田の襟へ伸びた。黒田は避けず、手首を見た。
「ここで殴れば、お前を中へ入れる。昼まで出せない」
「小夜には知らせたのか」
「知らせていない」
「なぜだ」
「軍の名簿では、すでに死んだ男だった。生還を公にすれば、同じ名簿で交付された証書まで一度止まる。止まる家の数を、私はその時は数えられなかった」
「だから二度殺したのか」
黒田は答えなかった。
控えを渡せと言うと、首を振った。原物は見せない。読んだ行も、ここで覚えろと言う。
「足を滑らせたと、誰が見た」
「見た者はいない」
「なら、それは事実ではない」
「私の残した扱いだ」
黒田は懐中時計を見た。
「上げ潮まで二刻ない。川底を見るなら今だ。相良、一人で森巳代次へ行くな」
命令の形で、自分の控えに書かなかった名を出した。
海運橋の北詰では、りんが砂を詰めた魚籠を二つ用意していた。荷縄場の親方は眠そうな目で川面を睨み、縄の端を歯で引いた。
「正月の話を六月に蒸し返して、こっちの駄賃は誰が出す」
「私が出す。縄を切ったら、その分も」
りんが銭を一枚、先に渡した。親方は指で弾いて音を聞き、帯へ入れた。
一月十八日の朝、遺体を揚げるため荷縄場から男手が呼ばれた。親方も橋脚の下へ降りたという。腰から左の脇へ回った縄を解いたのは、親方だった。
「黒田の控えには、縄がない」
鉄之助が言うと、親方は鼻を鳴らした。
「役人の紙は知らねえ。こっちは縄一本、戻らなきゃ銭が減る」
親方は砂を詰めた魚籠を量った。二つで四貫余り。川浚いで石を引く時の重さへ合わせ、長い縄の先へ括った。
「死んだ男には、こう回ってた」
縄を鉄之助の腰の右から入れ、背を通し、左の脇へ二度掛ける。端を逆へくぐらせると、引かれるほど輪が狭まった。
りんがしゃがみ、結び目を見た。
「さよりが、私の草履にしたのと同じ」
「荷縄場なら誰でも知ってるんじゃなかったのか」
鉄之助が返すと、りんは縄の毛羽を撫でた。
「二巻きまではね。濡れた縄の端を逆へ返すのは、さよりがよくやる。ほどく時に爪が入るから、父ちゃんは嫌ってた」
それでも、巳代次だけの結びではない。りんはそこを曲げなかった。
鉄之助は縄を掛けたまま石段を下りた。水際へ片足を入れる。親方が魚籠を落とすと、左脇が締まり、身体が川へ引かれた。膝の古傷が踏ん張りに遅れる。
りんと親方が縄を押さえた。
「離すな」
鉄之助は言った。
「離したら、調べにならない」
「沈んだら調べ代を返しな」
りんは両手を緩めなかった。
足を滑らせただけなら、橋の石か、繋ぎ舟の縁へ手が届く。だが脇へ重さが掛かれば、左腕は上がらない。水を吸った着物が脚へまとわりつく。泳げない小宮なら、声を出す前に川水を飲む。
「縄を切れば助かったか」
親方は腰の小刀を抜き、張った所へ刃を当てた。
「落ちたすぐならな」
刃が入ると、魚籠は川底へ沈み、鉄之助の身体だけが石段へ戻った。
小宮の縄は切られなかった。
親方は濡れた縄を引き上げながら、もう一つ思い出した。
「あの朝、さよりが仕事を休んだ。右の掌を裂いたとかで、三日来なかった」
鉄之助は、巳代次の手を思い出した。日に焼けた指の節。掌から小指の付け根へ残る、古い裂け傷。りんの草履を直した手だった。
「一月十七日の夜、橋で争う声は」
「橋番は聞いたらしい。九つの鐘を聞いたあとだと。役人へも言った」
黒田が読んだ控えには、時刻も争いもなかった。
荷縄場へ戻ると、巳代次が柱へ縄を掛けていた。右手で輪を作り、左手で端を引く。掌の古傷が白く伸びた。
鉄之助には、三歩で届いた。
一歩目で襟を取る。二歩目で柱へ押す。三歩目で竹筒の刃を喉へ入れる。そこまでが、立ったまま見えた。
りんが鉄之助の前へ魚籠を置いた。
「同じ結びを見た。休んだ話を聞いた。それだけ」
「小宮は、あの縄で死んだ」
「それを、さよりが掛けたところは見てない」
巳代次はこちらを見た。問いかけられてもいないのに、返事を半拍待つ顔をした。それから親方に呼ばれ、濡れた縄を担いで奥へ行った。
鉄之助は追わなかった。追えば、確かめる前に殺せる。それがわかったからだった。
本所へ戻ると、小夜は七日分の受取書を日付順に並べていた。今朝の咳で乱れた布団は畳み直され、薬包の空は小皿へ一つだけ置かれている。
鉄之助は黒田の控えと、海運橋で確かめたことを話した。縄の巻き方も、巳代次の傷も、殺そうと思ったことも省かなかった。
小夜は受取書の端を揃えた。
「兄は、死ぬ前に手紙を出しています」
鉄之助は顔を上げた。
「いつ届いた」
「一月十八日の朝です」
小夜は長持へ手を置いた。
「持っているのは、私です」




