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第47話 『あの剣は、お前のような商人風情が触れていいものではない』

 ロウグは走っていた。


 上等な靴が泥を踏み、裾が濡れる。

 息も乱れている。


 そんなことはどうでもいい。


 今は逃げる。

 荷は後でいい。盾も剣も、生き延びてから回収すればいい。

 聖女も継承者も、後でどうとでもなる。


 生きていれば巻き返せる。


 金がある。

 貸しもある。

 教会への融資があり、貴族とのつながりも、大司教への伝手もある。


 自分はただの盗人ではない。

 ロウグ商会長だ。

 王都の血管に金を流している男なのだ。


 だから、逃げ切ればいい。


 ロウグの隣を、黒い外套の護衛が走っている。

 背には大剣。

 荒くれどもとは違い、息も乱さず静かな足取りを保っていた。


 金で雇える中では最上の暴力。

 ロウグの切り札だ。


「急ぎますよ。表には出ません。地下通路から南の廃屋へ。そこから馬車を――」


 ロウグの足が止まった。


 地下通路の先。

 薄暗い松明の下に、白狼が立っている。


 グラント=ヴァイスハルト。

 聖王国騎士団長。


 鎧姿ではない。

 簡素な騎士服に、剣を一本帯びているだけだ。


 それだけで、通路が塞がって見えた。


「そこまでだ」


 低い声だった。


 ロウグは息を呑む。


「……グラント卿」

「ロウグ商会長」


 グラントは静かに名を呼んだ。


「随分と急いでいるな」

「誤解です。私はただ、混乱を避けるために――」

「盗品を移していた洞窟から、護衛を連れて逃げてきてか」


 ロウグの言葉が止まる。


 だが、すぐに笑みを作った。


「盗品とは心外ですな。あれは保護です。危険な品を、危険な者の手から守るための――」

「聖女と継承者を捕らえろと言った」


 笑みが固まった。


「ほかの二人は殺せ、とも言った」

「……誰が、そのような」

「洞窟は声が響く」


 グラントは一歩も動かない。


「お前の声もな」


 ロウグは喉を鳴らした。


 それでも、まだ笑顔を崩さない。


「グラント卿。冷静になりましょう。私は商人です。争いを望んでいるわけではない」

「望んでいない者は、聖女を商品とは言わない」

「言葉のあやです」

「そうか」


 グラントの声は平坦だった。


「それも調べる」

「調べる?」


 グラントが淡々と続ける。


「鍛冶屋への襲撃。騎士団の古い備品を使った偽装。盗品の移送。それに、寄付金を使った偽装、孤児院での人身売買、故意に引き起こした鉱山事故、法外な高利貸し」


 ロウグの顔から、少しずつ余裕が消えていく。


「待ちなさい。どれも証拠が――」

「証拠は探す」

「つまり、今はないということではありませんか!」

「時間をかける」

「時間?」


 グラントは変わらず淡々としていた。


「お前の商会も、倉庫も、帳簿も、隠し場所も、すべて調べる」


 ロウグの額に汗が浮かぶ。


「馬鹿な……そのようなこと、許されるはずがない。正式な手続きが必要です。私には正式な場で弁明する権利がある!」

「弁明したければ、すればいい」

「なら――」

「だが、貴様の罪は必ず明らかにする」


 グラントの声が、わずかに低くなった。


 ロウグは奥歯を噛む。


「証拠もなしに、私を罪人扱いするのですか」

「証拠は探すと言った」

「その前に私を拘束する気でしょう!」

「いや、しない」

「……何?」

「逃げ道を塞ぐ。それだけだ」

「それだけ、ですと?」

「ああ」


 グラントは静かに言った。


「モブ殿に託されたからな」


 ロウグの顔が歪んだ。


「あの雑兵が……」

「雑兵ではない」


 グラントの声は揺れない。


「モブ殿だ」


 ロウグの笑みが、今度こそ消えた。


 そうだ。

 奴は騎士団の名誉騎士だった。

 騎士団長から信頼され、この隠れ家を探し当て、さらに逃走経路まで読んでいた。


 あの妙な男。

 最初はただの護衛だと思っていた。

 名もない雑兵だと思っていた。


 その男に、ここまで先を読まれていた。

 それが何より気に食わなかった。


「モブ……モブ……!」


 ロウグは吐き捨てる。


「ふざけた名だ。ふざけた存在だ。なぜ、あのような者が――」

「ロウグ商会長」


 グラントの声が言葉を切った。


「貴様の話をしている」


 ロウグの肩が震える。


「教会への支援も、孤児院への寄付も、すべて善意からです。私は王都のために金を回してきた。私がいなければ、困る者がどれだけいるか――」

「調べる」

「祈祷院の修繕費も私が出した!」

「調べる」

「鉱山事故の件は、法に従った取引です!」

「調べる」

「高利などとんでもない。相手が返済を怠っただけで――」

「調べる」


 何を言っても同じだった。

 ロウグの言葉が、グラントという壁にぶつかって落ちていく。


「貴方は、私を最初から罪人と決めつけている!」

「決めつけてはいない」

「ならば!」

「だから調べる」


 グラントは言った。


「貴様が無実なら、無実だと明らかになる」

「当然です!」

「だが、そうはならないだろう」


 ロウグの頬が引きつった。


「証拠は出る。帳簿も、人も、金の流れも。貴様が握り潰してきた声も、すべて拾う」

「……そんなもの、誰が信じると」

「私が信じる」


 グラントが一歩だけ進んだ。


「騎士団が調べる」


 ロウグは思わず後ずさり、背中を護衛にぶつけた。


 黒い外套の護衛が前へ出る。


「会長」


 初めて声を出した。

 低い声だった。


「下がってください」


 ロウグの顔に、わずかに余裕が戻った。


「グラント卿。貴方が強いことは知っています。しかし、彼もまた安くはない」

「そうか」

「千の戦場を生き抜き、百の将を討った強者です。街を守るだけの騎士団とはわけが違う」

「そうか」


 ロウグが歯噛みして叫ぶ。


「切り刻んで魔物の餌にしてやれッ!」


 護衛が踏み込んだ。


 大剣が抜かれる。

 速く、重い。


 通路を塞ぐような横薙ぎ。


 グラントは半歩だけ前へ出た。


 剣を抜く音がする。

 短い音。

 白い線。


 大剣が止まった。

 護衛の体も止まる。


 次の瞬間、大剣が地面へ落ちた。

 護衛は膝をつき、そのまま前へ崩れる。


 ロウグには、何が起きたのかわからなかった。


 一撃。


 自分が最も高い金を払って雇った暴力が、何もできずに沈んでいる。


 グラントは剣を払い、静かに鞘に戻した。


「ずいぶんと、ぬるい戦場だったようだ」


 ロウグの足が震え始めた。

 喉が乾き、もう笑みを作れない。


「ま、待ってください」

「待っている」

「金なら出します」

「いらぬ」

「教会への支援を止めますぞ」

「止めればいい」

「孤児院が困る!」

「困らせていたのは、お前だ」


 ロウグは壁に背をぶつけた。

 逃げ道はない。


 地下通路。

 逃走ルート。


 そこはもう、逃げ道ではなかった。


「大司教様が黙っていませんぞ!」


 ロウグは叫んだ。


「私は大司教様にも顔が利く。貴方が私に手を出せば――」

「その大司教様から、伝言を預かっている」


 ロウグの口が止まる。


「……伝言?」


 グラントの表情は変わらない。

 ただ、声だけが少し低くなった。


「『あの剣は、お前のような商人風情が触れていいものではない』」


 ロウグの背筋が凍った。


 錆びた長剣。


 古びた、ただの剣。

 結晶亀を倒した。

 だから、何か価値があるかもしれないと思っただけの品。


 だが、大司教がわざわざ伝言を寄越した。


 なら、あれはただの剣ではない。


 ロウグは今になって、それを理解した。


「ち、違う……私は価値があると思って……ただ、それだけで……」

「越えてはならぬ一線だったそうだ」

「待ってください。私は知らなかった。知らなかったのです。大司教様にお伝えを。私は、ただ商人として――」


 そのとき、ロウグの声が途切れた。


 胸元を押さえる。


「……え?」


 指先が震えている。


 首から下げた小さな護符が、黒く濁っていた。


 大司教から授かったもの。

 庇護の証だと信じていた護符。


「な、なぜ……」


 ロウグの膝が落ちる。


 グラントは、ただ静かにロウグを見ていた。


「大司教……様……」


 ロウグは助けを求めるように手を伸ばす。

 その手は何も掴めなかった。

 体が横へ倒れ、地下通路に重い音が響く。


 それきり、ロウグは動かなかった。


 グラントはしばらく沈黙していた。

 倒れたロウグを見下ろす。


「……殺す必要は、なかったのではありませんか」


 誰もいない通路に、グラントの声だけが落ちた。

 答えはない。


 やがて、地下通路の向こうから足音が近づいてきた。


 モブたちだ。


 グラントは倒れた護衛とロウグを見て、小さく息を吐く。


「モブ殿」


 近づいてくる気配へ向けて言った。


「こちらも終わった」


 その声は、勝利を告げるものではなかった。

 どこか重かった。

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