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第3話 モブ、犬を無視する

 黒門の先には、地下へ続く長い階段があった。


 湿った石の匂い。

 腐った水の匂い。

 そして、獣の体臭。


 懐かしい。

 いや、現実で嗅ぎたい匂いではまったくないが、マップとしては懐かしい。


 聖堂地下巡礼路。

 〈終蝕のレガリア〉序盤の殺意が、これでもかと詰め込まれた初見殺しエリアである。


 通称、犬と弓兵と落下死の見本市。


 ゲームなら、ここで慎重なプレイヤーほど死ぬ。

 敵を1体ずつ釣ろうとして、横から犬に噛まれる。

 盾を構えて進んだら、上から矢で撃たれる。

 回復しようと下がったら、床が抜ける。


 そういう場所だ。


「モブ」


 背後からソウゴの声がした。


「本当に、この先へ行くのか?」

「ああ」

「敵の気配がする」

「いるな」

「なら、隊列を整えた方がいい。俺が前に出る。ユーフェリア様は中央に。君は――」

「走るぞ」

「……何?」


 俺は階段を降りながら言った。


「戦わない。全部走り抜ける」


 ソウゴが一瞬、言葉を失った。

 ユーフェリアも同じだった。


「走り抜ける、とは……敵を無視するということですか?」

「そうだ」

「ですが、背後から襲われたら」

「追いつかれなければいい」

「追いつかれたら?」

「死ぬ」

「死ぬのですか!?」


 ユーフェリアが声を上げた。


 驚くのも無理はない。

 普通に考えたら、敵がいるなら倒す。

 危険があるなら排除する。

 背後を取られないように進む。


 当然だ。


 だが、死にゲーにおいて、その常識はしばしば罠になる。


「雑魚戦は事故死が多い」


 俺は言った。


「事故死?」

「本来なら勝てる敵に、ちょっとしたミスで殺されることだ。操作ミス。カメラ事故。段差。ロックオン暴発。欲張り攻撃。回復狩り。あと犬」

「犬……?」

「犬は最悪だ」


 この世の悪意を煮詰めた存在。

 それが死にゲーの犬である。


 小さいうえに速い。

 数がいるうえに、だいたい弓兵や槍兵とセットで配置されている。


 ボスより犬で死んだ回数の方が多いプレイヤーもいる。

 俺もその1人だ。


「だから、相手にしない」

「しかし、戦わなければ経験も得られないのでは?」


 ユーフェリアが当然の疑問を口にした。


「不要だ」


 レベル1縛りだからだ。


 だが、ソウゴとユーフェリアのレベル上げは必要か。

 死なれては困る。

 進行に必要だからだ。


「経験値は稼ぎ場で稼ぐ」

「稼ぎ場……?」

「止まれ」


 俺は階段の終わりで足を止めた。


 その先は、低い天井の石通路。

 壁には朽ちた燭台。

 床には黒い水たまり。

 左側には、崩れた巡礼者の死体。

 右上には、半壊した見張り台。


 そして、曲がり角の影。


 来る。


「いいか。俺の後ろを走れ。止まるな。戦おうとするな。あと聖女は祈るな」

「わ、私ですか?」

「聖女の祈りはタゲが狂う」

「タゲ……?」

「かなり重要だ」


 ソウゴが剣を握り直した。


「俺は?」

「お前は壁を壊す係だ」

「壁?」

「そう、壁だ」

「説明が足りないって?!」

「簡単な作業だ。走りながら理解しろ」


 俺は息を吸った。


 身体は重い。

 生命力3。

 持久力4。

 筋力2。

 敏捷2。


 相変わらず、何もかも足りていない。

 だが、足りないまま動けるようにしてある。

 1120万ポイントを、ただそのためだけに使った。

 初期ステ縛りは継続中。


 では、行こう。


「スタート」


 俺は走り出した。


 最初の10歩。

 まだ何も起きない。


 11歩目。


 左の影から、黒い獣犬が飛び出した。


 皮膚がただれ、肋骨が浮き出ている。

 口は耳元まで裂け、牙には黒い涎。


 初見プレイヤーの半分をここで噛み殺す、地下巡礼路の歓迎係だ。


「ひっ――」


 ユーフェリアが小さく悲鳴を漏らした。


 俺は半歩だけ右にずれる。


 獣犬の牙が、俺の左肩の横を通り過ぎた。


 噛みつき判定は前方に強い。

 だが、横には弱い。


 知っていれば避けられる。

 知らなければ死ぬ。


「止まるな!」


 俺は叫んだ。


 ソウゴが反射的に剣を振ろうとした。


「斬るな!」

「しかし!」

「硬直に矢が刺さる!」


 言った瞬間、右上の見張り台から矢が飛んだ。


 矢は、ソウゴが剣を振っていたなら頭があった場所を通過した。

 ソウゴの顔色が変わる。


「今のは……」

「2本目、左肩」

「何――」


 俺はすかさず、ローリングする。

 矢が俺を通り抜ける。


「い、今のは?!」


 説明が面倒だ。


「錯覚だ」

「錯覚……?」


 だがそうか、ソウゴにはローリングがない。

 無敵回避ができない。

 これは厄介だ。


 だが今は保留だ。


 正面の床で、3体の巡礼者が起き上がった。


 皮膚は黒く腐り、胸には錆びた聖印が埋まっている。

 かつては祈る者だったのだろう。


 今はただ、通路を塞ぐための配置敵だ。


 1体目は右から掴み。

 2体目は少し遅れて突き。

 3体目は、何もせず立っているように見せかけて、通過時に足首を狙ってくる。


 性格が悪い。


 だが、知っている。


「右、左、跳べ」

「何の指示だ!?」

「今わかる!」


 俺は1体目の右腕をくぐった。

 2体目の突きを左へ避ける。

 3体目の足払いに合わせて、小さく跳ぶ。


 靴の裏を、腐った指先がかすめた。


 後ろでソウゴが同じように動く。

 少しぎこちないが、ついてきた。


 さすが主人公。


 ユーフェリアも遅れずについてきている。

 法衣は走るには向いていない。

 だが、指示に対する反応は早い。


 悲鳴を上げても、足は止めていない。


 いい。

 これなら抜けられる。


 ――そう思った瞬間、右の横穴から2匹目の獣犬が飛び出した。


「死に配置かよ!」


 最悪だ。


 この場所では、ごくまれに2匹目が飛び出てくる。

 油断してだいたい死ぬので、死に配置と呼ばれている。


 俺ならいい。

 でも狙いは俺じゃない。


 ユーフェリアだ。


「きゃあっ!」

「ユーフェリア様!」


 ソウゴが戻ろうとする。


「戻るな!」

「でも――!」

「お前が戻ると全員死ぬ!」


 ユーフェリアは普通に走れていた。

 動きが遅れたわけじゃない。

 判断を間違えたわけでもない。


 ただ、犬の出現位置が悪い。


 死にゲーでは、それだけで死ぬ。

 そういうものだ。


「伏せろ」

「え?」

「伏せろ!」


 ユーフェリアの肩を掴み、強引に押し倒す。


 ほぼ同時に、獣犬が彼女の頭上を飛び越えた。

 牙が、金の髪を数本持っていく。


 ユーフェリアの瞳が見開かれた。


 俺は獣犬の着地位置へ蹴りを繰り出す。

 蹴ったところでダメージはない。

 だが吹き飛ぶ。


 この角度で蹴れば、下階に落とせる。

 獣犬は悲鳴を上げて落ちていった。


「立て」


 俺はユーフェリアの腕を引いた。


「走れ」

「あ、ありが――」

「礼はあとでいい。今すると死ぬ」


 ユーフェリアは何か言いかけたが、すぐに唇を結んだ。

 判断が早い。


 いいNPCだ。

 いや、人間か。


 どちらにせよ、悪いのは犬だ。


 ソウゴが俺たちの前に出ようとした。


「今度は俺が――」

「前に出るな。お前は壁」

「壁扱いなのか!?」

「違う。壁を壊す係だ」

「さっきからそれは何なんだ!」

「もうすぐだ」


 通路の奥で、鐘が鳴った。

 同時に、地下巡礼路のあちこちで、死体が起き上がる音がした。


 さて、ここからが難所だ。

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