第14話 〈終蝕の剣〉
その夜。
聖王国大聖堂の奥、聖務室。
厚い石壁に囲まれた部屋には、外の喧騒は届かない。
机の上では、細い蝋燭の火が揺れていた。
オルディス大司教は、椅子に腰かけたまま、目の前の男を見ていた。
聖王国騎士団長。
グラント=ヴァイスハルト。
昼間、モブと呼ばれる下級兵に敗れた男。
そして、その下級兵を、聖王国騎士団名誉騎士に任じた男。
「グラント卿」
大司教は静かに口を開いた。
「あなたには、手合わせの前に伝えていたはずです」
「はい」
グラントは背筋を伸ばし、静かに答えた。
「彼が〈継承者〉の道を妨げる存在であるなら、聖王国のため、しかるべき処置を取るように、と」
「承っておりました」
「では、なぜそうしなかったのです」
大司教の声は穏やかだった。
だが、その奥には冷たいものがある。
グラントは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「できませんでした」
「あなたが?」
「はい」
オルディス大司教の眉が、わずかに動いた。
「聖王国騎士団長である、あなたが?」
「はい」
グラントは恥じなかった。
悔しさはある。
敗北の痛みもある。
だが、それを偽るつもりはなかった。
「私は本気で振りました。聖気も使った。聖断も放った。殺すつもりで斬った」
大司教の目が細くなる。
「ですが、私は彼を殺せなかった。いや、彼が、私を殺さなかった」
「情けをかけられた、と?」
「違います」
グラントは即答した。
「あれは、情けではない。侮りでもない。彼はただ、そうする必要がなかっただけです」
「必要がない?」
「彼は勝っていました。私を斬らずとも」
大司教は黙った。
グラントは続ける。
「そして、私は彼を斬るべきではないと判断しました」
「理由は?」
「有用だからです。実績も実力も十分。ソウゴ殿とユーフェリア様にも協力的です」
それに、彼との戦いは、楽しかった。
だが、それは口にしなかった。
肩入れしている。
だが、それを表に出すほど愚かではなかった。
「……それに、彼はレガリアに興味を示していない。少なくとも、今の時点で〈継承者〉の道を妨げる者ではありません」
「今の時点で、ですか」
「はい」
「では、いずれ妨げる可能性は?」
「あります」
グラントは、隠さずに言った。
オルディス大司教がわずかに笑う。
「ならば、やはり――」
「ですが、その時に斬れるかは別です」
グラントの声が、大司教の言葉を遮った。
「私は一度、彼に敗れました。次、勝てる保証はありません」
「……ずいぶんと、あの下級兵を買うのですね」
「下級兵として見れば、理解を誤ります」
グラントは、自分の腹に触れた。
柄頭で軽く叩かれた場所。
ただそれだけで、負けを認めるに足る一撃だった。
「あれは、戦場の強者とも違う。剣豪とも違う。怪物とも違う。もっと別のものです」
「別のもの」
「ええ」
グラントは、少しだけ笑った。
「本人の言葉を借りるなら、ボスを倒す者、でしょうか」
オルディス大司教は、その言葉を聞いても笑わなかった。
代わりに、机の上に置かれた古い書物へ視線を落とす。
黒い革表紙。
銀の金具。
ページの端は焼け焦げ、いくつもの古代語が書き込まれている。
「黒鉄の処刑騎士」
大司教が呟く。
「愚かなる司祭、ガルム」
そして。
「聖王国騎士団長、グラント=ヴァイスハルト」
グラントは苦笑した。
「私を同列に並べるのは、いささか恐れ多い」
「彼は並べたのでしょう?」
「ええ。ボスだと」
「そうですか」
大司教は静かに目を伏せた。
「ならば、やはり要注意です」
その声には、先ほどまでの柔らかさはなかった。
祈る者の声ではない。
何かを計る者の声だった。
「〈継承者〉を導く者か。あるいは、道をねじ曲げる異物か」
グラントは答えなかった。
大司教は、書物の一節を指でなぞる。
「あの剣」
大司教が言った。
「あなたの聖気を受けても折れなかった」
「ええ」
「ただの錆びた剣ではありませんな」
「私には、そう見えませんでした」
グラントは正直に言った。
「あれは、ただの古びた剣に見えた」
「ただの剣が、聖気を弾くと?」
「だからこそ、わからないのです」
オルディス大司教は、ゆっくりと息を吐いた。
「古い記録に、似た記述があります」
「記録?」
「蝕を終わらせるもの。あるいは、蝕を完成させるもの」
グラントの表情が変わった。
「大司教猊下」
「聖気を弾き、レガリアの運命を歪める錆びた剣」
大司教の声は、ほとんど囁きだった。
「〈終蝕の剣〉」
聖務室の燭火が、わずかに揺れた。
グラントは沈黙する。
そんな剣の名を、彼は知らない。
だが、大司教の表情だけで、それがただの伝承ではないことはわかった。
「まさか、本当に存在したとは」
「それが、モブ殿の剣だと?」
「断定はできません」
オルディス大司教は、そう言いながらも、口元に薄い笑みを浮かべた。
「ですが、継承者。聖女。そして、終蝕の剣を持つ男――モブ」
その言葉は、祈りにも聞こえた。
あるいは、呪いにも。
「我らの悲願は、また一歩近づいたのかもしれません」
グラントは、大司教を見た。
「悲願、ですか」
「ええ」
大司教は微笑んだ。
柔らかく。
敬虔に。
そして、どこか冷たく。
「この世界を、救うための悲願です」
グラントは、それ以上尋ねなかった。
ただ、胸の内で静かに思う。
モブ殿。
どうやら、あなたの道は、あなたが思うよりずっと面倒なものになりそうだ。
そして、オルディス大司教はもう一度だけ呟いた。
「終蝕の剣……」
その目には、確かな執着の光が宿っていた。




