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第10話 何度も死んだ男

「DLCか」


 痩せ細った下級兵が、ぽつりと呟いた。


「でぃーえるしー……?」

「知らない追加敵だ」


 何を言っているのかは、わからない。

 だが、その男の目が変わったことだけはわかった。


 聖王国騎士団長グラント=ヴァイスハルトは、無意識に剣の柄を握り直した。


「ボス戦だ」


 その瞬間、空気が変わった。


 大聖堂のざわめきが、遠のく。

 周囲の騎士たちの気配が薄れる。

 ユーフェリア様の息を呑む声も、ソウゴ様が身じろぎする音も、遠くなる。


 目の前にいるのは、安物の鎧を着た下級兵。

 疲労で青ざめた顔。

 細い手足。

 手にしているのは、刃こぼれした錆びた長剣。


 どう見ても、歴戦の騎士ではない。

 どう見ても、強者ではない。


 それなのに、だ。


 その男が剣を抜いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 殺気ではない。

 敵意でもない。

 闘志でもない。


 そういうものなら、いくらでも浴びてきた。


 私は聖王国騎士団長である。

 剣を握って30年。


 戦場にも立った。

 魔物も斬った。

 盗賊も斬った。

 蝕に狂った同胞も斬った。


 命乞いをする敵も、死を覚悟した敵も、己の技を誇る剣士も、狂信に酔う異端者も見てきた。


 だから、相手が剣を構えた瞬間に、ある程度はわかる。

 どれほど強いか。

 どれほど怖いか。

 どれほど死線をくぐったか。


 だが、目の前の下級兵から感じるものは、そのどれとも違っていた。


 積み上げてきた年季。

 斬り結んできた数。

 殺し、殺されかけ、生き残った経験。


 そういうものが、人の立ち姿には滲む。

 だが、目の前の男から感じるものは、それではない。


 もっと異様なもの。

 人ひとりの人生では、到底積み切れない量の何か。


 何度も挑んだ。

 何度も失敗した。

 そして、何度も死んだ(・・・)。


(ありえん)


 だが、そうとしか思えないほど、深く、冷たい、底の見えない何か。


 私の首筋に、脂汗が浮いた。


 モブ殿は、こちらを見ていた。


 いや、見ている、というより、読んでいた。


 呼吸。

 重心。

 歩幅。

 剣の握り。

 肩の高さ。

 腰の位置。

 膝の沈み。

 鎧の重さ。

 足裏の向き。


 私という人間を見ているのではない。

 私という戦闘を、分解しようとしている。


 そう感じた。


「……始めるぞ」


 声が、わずかに低くなる。


 周囲の騎士たちは気づいていない。

 彼らは、騎士団長が下級兵に胸を貸すのだと思っている。

 無礼な下級兵に、騎士の格を教えてやるのだと。


 だが、違う。


 これは、手合わせではない。

 少なくとも、この下級兵の中では。


「ああ、準備はできてる」


 モブ殿が言った。


 剣先は下がったまま。

 隙だらけ。


 そのはずだった。


 一歩踏み込む。

 まずは軽く。

 相手の反応を見るための踏み込み。


 だが、モブ殿は受けない。

 避けない。

 ただ、下がった。


 数歩。

 十分に、届かない位置へ。


 剣先が、空を斬る。


 周囲の騎士たちがざわついた。


「あれは……逃げたのか?」

「やはり、団長を前にして怖じたか」


 違う。


 今のは、ただの退避ではない。

 こちらの踏み込み幅を測るための後退だ。

 連撃を、見越しての。


 私は続けて踏み込む。


 斬り下ろし。

 モブ殿はさらに下がる。

 横薙ぎ。

 さらに下がる。

 突き。

 背を向けて距離を取る。

 追撃の袈裟斬り。

 柱の影へ逃げる。


 一撃も返してこない。

 ただ逃げる。

 ひたすら逃げる。


「おい! 怖気づいたのか!」

「さっきの威勢はどうした!」


 騎士たちが罵声を浴びせている。


「鬼ごっこがしたいのか、モブ殿」


 挑発の意味もあった。

 確認の意味もあった。


 モブ殿は、息を切らしながら答える。


「最初はな」


 最初は。


 その言葉で、私の警戒が一段上がった。


 見られている。

 試されている。


 こちらの剣を。

 こちらの足を。

 こちらの間合いを。

 こちらの癖を。


 モブ殿は勝負を急いでいない。

 勝とうとしていない。


 まず、観察している。


(踏み込みを変える)


 正面からの圧ではない。

 左足をわずかに外へ置き、相手の退路を潰す。


 騎士団の剣術では、基本中の基本。

 逃げる相手を角へ追い込む足運びだ。


 モブ殿の背後には、折れた長椅子。

 右には柱。

 左には騎士たちの壁。

 後ろには下がれない。


 剣を突き出す。

 逃げ場はない。


 少なくとも、普通の兵士なら。


 だが、次の瞬間。

 モブ殿は消えた。


「なっ――」


 背後。


 背中に、冷たい気配があった。


 振り返るより早く、声が聞こえる。


「それは知ってる」


 モブ殿は、私の背後にいた。

 ただ、立っている。


 殺せた。

 今、殺せたはずだ。


 喉を裂くこともできた。

 背中を刺すこともできた。

 膝裏を斬ることもできた。

 鎧の隙間に刃を滑り込ませることもできた。


 だが、しなかった。


 なぜか。


 まだ、見ているからだ。


 モブ殿は、勝つためではなく、観察のために生かした。


 背中を、ぞっとするような感覚が這い上がった。


 これほどの屈辱は、久しく味わっていない。

 だが、怒りより先に、戦慄が来た。


 この男は、強者の余裕で攻撃しなかったのではない。

 まだ情報が欲しいから、攻撃しなかったのだ。


「……なるほど」


 振り返り、剣を構え直す。


「ならば、見せよう」


 剣が、本来の速さを取り戻す。


 突き。

 払い。

 返し斬り。

 遅らせ突き。

 蹴り。

 踏み込み直し。

 柄打ち。

 体当たり。

 鎧の重さを利用した圧迫。


 聖王国騎士団が誇る実戦剣術。

 戦場で磨かれ、魔物の爪と牙の中で鍛えられ、何十人もの騎士に受け継がれてきた剣。


 グラント=ヴァイスハルトの人生そのもの。


 それを、惜しみなく使った。


 モブ殿は逃げる。

 避ける。

 潜る。

 下がる。

 転がる。


 剣が、少しずつ空回りしていく。


 当たるはずの間合いで、当たらない。

 届くはずの突きが、届かない。

 潰したはずの退路に、なぜか隙間がある。

 予備動作を消したはずの蹴りが、出る前に避けられている。


 速さで負けているのではない。

 力で押し返されているのでもない。


 読まれている。

 ただ、読まれている。


 それが一番恐ろしかった。


「どうした、モブ殿!」


 思わず叫んだ。


「逃げてばかりでは勝てぬぞ!」

「まだいい」

「何がだ!」

「まだ見てない技がある」


 その言葉に、喉が詰まった。


 まだ見ていない技。


 つまり、モブ殿は、こちらが技を出し尽くすのを待っている。


 自分の剣が、人生をかけて磨いた剣が。

 この下級兵の前で、順番に並べられている。


 ふざけるな。


 そう思った。

 同時に、もっと見せたいとも思った。


 この男は、どこまで見る。

 どこまで読める。

 どこまで、この剣を理解する。


 息を吸った。


 次は、騎士団でも数人しか知らない踏み込み。


 真正面の突きを見せ、体軸を半歩ずらし、相手の剣の外側から肩口を斬る。

 初見で対応できる者は少ない。


 魔物にも、人間にも、幾度となく通してきた技だ。


 踏み込む。

 突き。

 半歩ずらす。

 肩口へ。


 その瞬間、モブ殿の身体が沈んだ。


 剣が空を切る。

 視界から、下級兵の姿が消える。


 下。


 いや、内側。


 モブ殿は、懐に入っていた。


 錆びた長剣の切っ先が、私の喉元にあった。


 触れてはいない。

 だが、動けば刺さる位置。


 完全な一本。


 大聖堂の空気が止まった。

 誰も声を出さない。


 私は、動けなかった。


 喉元の錆びた刃を見る。

 それから、モブ殿を見る。


 モブ殿は、疲れた顔をしていた。

 息も荒い。

 足も震えている。


 勝者の顔ではない。

 余裕もない。


 だが、目だけは変わっていなかった。


 冷静。

 冷淡。

 観察を終えた目。


「だいたいわかった」


 モブ殿は言った。


 だいたい。


 その一言が、胸に深く刺さった。


 自分が人生をかけて築いてきた剣。

 戦場で磨き、血で洗い、仲間の死と共に研ぎ上げてきた剣。


 それが、たった数分で「だいたいわかった」と。


 だが、不思議と怒りはなかった。


 あるのは、底知れない寒気。

 そして、わずかな高揚だった。


 この男は、私の剣を理解した。


 ならば、まだ見せていないものを出せば、どうなる。


「……私の負けだ」


 静かに言った。

 周囲の騎士たちが息を呑む。


「団長が……」

「負けを認めた……?」


 ソウゴ殿が目を見開いていた。

 ユーフェリア様は、胸元で手を握りしめている。

 オルディス大司教は、細い目をさらに細めていた。


 モブ殿は、剣を下ろした。


「終わりか」

「ああ」


 私は頷いた。


「第一戦はな」


 モブ殿の目が、わずかに動いた。

 そして、素早く距離を取った。


 剣を構え直す。

 胸の奥から、聖気を呼び起こす。


 聖王国騎士団の中でも、選ばれた者のみが使える、対蝕戦闘術。

 肉体を強化し、剣に祈りを宿し、蝕の獣を断つための光。


 剣身に、白い燐光が走る。

 大聖堂の空気が震える。


 騎士たちが、一斉に姿勢を正した。


「グラント卿、それは――」


 ユーフェリア様が声を上げる。


 私は、笑っていた。

 久しく忘れていた、心の底からの笑みだった。


「再戦と行こうか、モブ殿」


 モブ殿は、私の剣に宿る白い光を見た。

 そして、ぽつりと言った。


「第二形態か」


 その顔に、恐怖はなかった。


 ただ、少しだけ楽しそうだった。

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