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君が遺した種子は、森には還らなかった。──世界を滅ぼす不老不死の夫へ、余命1000年のエルフが最期の奇跡を遺すまで──  作者: あとりえむ


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第8話:残酷で愛おしい時間

王国騎士団長の庇護の下、私たちがこの絶対の聖域『原始の森』に移り住んでから、さらに百年以上の月日が流れた。


ある朝、太古の巨大な木々に囲まれた小さな湖のほとり。澄みわたった水鏡に映る自分たちの姿を見て、私はふと、諦めのような溜息を漏らした。


水面に並んで映る二人の姿。私は、バロウと出会った頃のまだ少し幼さを残した少女の姿から、息を呑むような大人のエルフの女性へと、その容姿を成熟させていた。

対して、私の肩を優しく抱き寄せるバロウは、千年前からわずかにも変わらない、精悍な青年のままだった。


「どうしたんだ、フィア? そんなに湖を見つめて」


「ううん……なんでもないわ」


私だけが、確実に終わりに近づいている。

エルフとしての寿命の限界と、生命力を前借りした禁忌の魔法の代償。それが私の肉体の時間を急速に進めていることを、水鏡は残酷なまでにはっきりと映し出していた。


最近のバロウは、この森の奥深くを頻繁に探索し、「君の瞳と同じ色の花が咲いていたよ」「珍しい光る石を見つけたんだ」と、無邪気な顔でプレゼントを持ち帰ってくれるようになった。その姿は、かつて初めて彼と出会い、泣いて、怒って、笑い合いながら冒険していたあの頃を思い出させる。


それが『種子』を完成させるための極上の触媒になるとは夢にも思っていない彼の優しさに、私は幾度となく救われていた。


しかし、代償は確実に私を蝕んでいた。

私の視力は、今やすりガラスを通したように白くぼやけ、色彩すら徐々に失いつつある。普段はエルフ特有の並外れた『聴力』と、空気中の『マナの流れ』を読むことで周囲の空間を把握し、目が見えているのとまったく同じように完璧に偽装していた。


「フィア、今日はちょっと遠出しよう!」


「え、急にどうしたの? ──あっ」


有無を言わさずに、彼は私を背負って駆け出した。とっさのことに驚いたが、その大きくて温かい背中の心地よさに、私も思わずはしゃいでしがみつく。

あの頃に戻ったようだった。まだ、魔王の存在すら知らず、ただただ新しい毎日の発見に驚きながら冒険を楽しんでいたあの頃に。


「この歳になって、まさかおんぶされる日が来るなんて思わなかったわ」


「最近は昼間からしょっちゅう地下室にこもってただろ。たまにはこうやって息抜きしないとな──っと、しっかりつかまれよ!」


言うなり、バロウはスピードを上げる。

周りの木々が次々と後ろに流れていく。彼はふざけて遊ぶ時だって、いつだって全力なのだ。


「ちょっと、バロウ。速いってば──キャァッ」


「ほら、もっとしっかりつかまって!」


古木に囲まれた世界の静寂を、二人の笑い声が弾いていく。どこまでも、どこまでも空を突き抜けて響くようだった。


しかし、気付けば随分と深くまで来ていたようだった。私のぼやけた視界でもうっすらと認識できていた陽光が、今では完全な闇に沈んでいる。心なしか、空気もひどく重くなっていた。彼の確かな体温だけが、唯一の現実を繋ぐ錨のような心地だった。



──ッ!


「バロウ! だめっ! 止まって」


「どうしたんだ!?」


わからない。けれど、肌を刺すような重圧が急にのしかかってきた。空気だけでなく、マナの流れまでもが泥のように重い。首筋に何かがまとわりつくような、圧倒的な気配。エルフとしての本能が『これ以上は近づくな』と激しい警鐘を鳴らしていた。


「バロウ、この先はだめ……そろそろ帰りましょう」


「そうだな。もう日の光も届かないくらい深い場所まで来ちゃったし、今日の冒険はここまでにしようか」


彼にしがみつく腕に自然と力が入る。バロウは何も感じていないようだったが、一体何だろう。ただ恐ろしいだけではない、どこか命の根源に触れるような、ひどく懐かしい不思議な感覚だった。


(あの森の奥に、何かがある……?)



そんな得体の知れない予感を抱えたまま……

翌日。アクシデントは不意に訪れた。


私は地下室で、バロウが見つけてきてくれた『千年樹の琥珀』に魔力を込め、種子の安定性を確認する実験を行っていた。

微弱な魔力を流し込んだ、その瞬間。


キイイィィィンッ!!


「……っ!?」


琥珀から凄まじい魔力共鳴が起き、脳髄を直接突き刺すような強烈な高周波音が弾けた。

私は両耳を塞いでうずくまった。激しい耳鳴りが頭の中を支配し、頼りの綱だった『聴力』と『マナの感知能力』が、一瞬にして完全に麻痺してしまったのだ。


「フィア!? 今の音はなんだ、大丈夫か!」


血相を変えたバロウが、地下室へ駆け込んでくる。

私は激しい耳鳴りに耐えながら、慌てて研究の痕跡を幻影魔法で隠し、無理やり笑顔を作って立ち上がった。


「な、何でもないの! ちょっと古い魔石の力を弾いちゃっただけ。怪我はないわ」


「本当か……? 顔色が悪いぞ」


「本当に平気よ。……それより、もうこんな時間! お昼ご飯にしましょう。バロウは食後の果物を採ってきてくれないかしら?」


彼にこれ以上不審に思われないよう、私は背中を押して、半ば強引に彼を小屋の外へと追い出した。


彼が外に出ている間、私は急いで昼食のスープ作りに取り掛かった。

味覚はとうの昔に失われている。だから私は、これまでの経験を詳細に書き留めた『レシピ本』を頼りに、調味料を魔法で一粒単位で正確に測って作らなければならない。


だが、先ほどの共鳴の影響で今の私には音もほとんど聞こえず、マナの波長も読めない。頼れるのは、すりガラスのようにぼやけた視力だけだった。


「ええと……乾燥ハーブは、ふたつまみ……」


私は鍋から離れ、テーブルに広げたレシピ本に顔がくっつくほどの至近距離まで近づき、白くかすれる文字に食い入るようにしてレシピを確認した。


     *


「フィア、採ってきたよ。裏の林に甘そうな木の実が──」


果物を抱えて小屋に戻った俺は、言葉を失って立ち尽くした。

キッチンに立つフィアが、テーブルに広げた紙に、異常なほど顔を近づけていた。ほとんど鼻先が触れるほどの距離で、文字を追うようにゆっくりと首を動かしている。

俺が声をかけても、近づいても、彼女は全く気づく素振りを見せなかった。普段なら、俺が小屋の三十歩手前に来ただけで「おかえりなさい」と笑ってくれる彼女が。


「フィア」


俺は手から果物を落とし、背後から彼女の肩をそっと掴んだ。


「ひっ……!?」


ビクンッ、と。

フィアはまるで背後に死神が現れたかのように激しく肩を跳ね上げ、恐怖に目を丸くして振り返った。その過剰な反応に、俺の心臓が嫌な音を立てる。


「バロウ……? い、いつの間に……」


「ただいま、ついさっきだよ……フィア、ずっと俺に何か隠しているだろう?」


何か理由があるのだろうと、ずっとうやむやにしてきたが、思わず問いただしてしまった。俺は彼女の細い両肩を、絶対に逃がさないようにしっかりと掴んだ。

さっきから様子がおかしい。それに、いくらなんでもあの紙との距離は異常だ。


「足音にも声にも全く気づいていなかった。それに、その本……なんであんなに顔を近づけて見ていたんだ?」


「そ、それは……」


フィアの顔から、さぁっと血の気が引いていくのが分かった。

彼女はひどく怯えたように白濁しつつある瞳を泳がせ、やがて諦めたように小さく息を吐いた。


「……ごめんなさい。最近、少しだけ目が見えにくくなっているの」


「目が……見えない?」


「でも、心配しないで。今のはさっきの音で一時的に耳が聞こえにくくなって、びっくりしちゃっただけだから!」


必死に弁解するフィアの声が、ひどく遠く聞こえた。

目が、見えない。

その事実が脳髄を直接殴りつけ、俺の奥底からドロドロとした黒い感情が這い上がってくるのを感じた。


「私、もう千七百歳くらいでしょう? エルフの寿命はだいたい二千年。ただの歳のせいよ。貴方より少しだけ早く、お婆ちゃんに近づいているだけなの」


彼女は俺を安心させるように、ひどく無理をして、痛ましいほどに優しく微笑んだ。


──寿命。老い。

俺が何百年も恐れ続けてきた、絶対的な時の宣告。

最愛の彼女が老い、やがて消え去り、俺だけが永遠の暗闇の中に一人取り残される。その恐怖と絶望が、俺の心臓を鷲掴みにした。


息が詰まる。視界が黒く染まりかける。魔王の力が、俺の絶望を喰らって暴走しようと脈打つのを感じた。


(ダメだ……っ!)


俺は奥歯が砕けるほど噛み締め、湧き上がる漆黒の感情を奥底にねじ伏せた。

ここで俺が絶望に呑まれれば、魔王が暴走し、世界を──何より、目の前で強がっている彼女を傷つけてしまう。


老いや死に直面して、一番不安で怖いはずなのはフィアの方だ。それなのに俺が怯えて絶望してしまえば、彼女をどれだけ不安にさせることになるだろう。


俺は、千年前から心の底で何度も反芻してきた「たった一つの希望」に、血を吐くような思いで強くすがり付いた。


──そうだ、忘れるな


エルフであるフィアと最後まで添い遂げるなんて、短い寿命しか持たない普通の人間には、そもそも絶対に叶わないことだ。

もし俺が普通の人間だったなら、とうの昔に彼女を一人残して死んでいた。

彼女の、この長く美しい一生を最期の瞬間まで見届けることなど誰にもできはしない。


この呪われた不老不死の体があるからこそ。

俺は、フィアの生涯のすべてに寄り添い続けることができる、世界で唯一の男でいられるのだ。


俺だけが置いていかれるんじゃない。

俺が、彼女のすべてを見守るんだ。

これは決して、呪いなんかじゃない。

愛する妻と最後まで生きるために与えられた、俺への究極の祝福なんだと──


そうやって己の心に狂気的なまでの暗示をかけ、確かな覚悟と共に絶望を反転させた俺は、震える腕でフィアを強く、壊れそうなほどきつく抱きしめた。


「バロウ……?」


「……もし君の目が見えなくなっても、俺が君の目の代わりになってやる。足が動かなくなったら、俺がどこへでも背負って連れて行ってやる。手が動かなくなったら、料理も洗濯も、全部俺がやってやる」


俺の言葉に、腕の中のフィアの身体が大きく震えた。


「だから……お願いだ。隠さないで、何でも俺に言ってくれ。俺は、君のすべてを背負うために生きているんだから」


     *


「あ……ああっ……」


彼の不器用で、必死の強がりと、痛いほどの無償の愛の言葉に。

私の目から、堰を切ったようにボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


ああ、この人は、本当に。

自分が世界で一番恐ろしいはずなのに、いつだって私のことを一番に考えてくれる。


(これからの彼はきっと、私の視力を回復させるような薬草や素材を、今まで以上に必死で探し回ってくれるのだろう)


そのどうしようもない優しさが、今はただ刃のように私の胸を抉った。

けれど、真実だけは──彼に遺す愛の種子を創るために、わざと命を削っていることだけは、絶対に明かすわけにはいかない。


「……ありがとう、バロウ。愛してるわ」


私は彼の温かい胸の中で、声を殺して泣きながら、ただそれだけを返した。

ただ二人きりの閉ざされた森の中で。愛に満ちた、どこまでも残酷な時間が静かに過ぎていく。

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