第7話:私が世界を敵に回す日(後編)
六百年。エルフである私にとっては長い中盤戦に過ぎないその時間は、人間たちの世界を致命的に変容させるには十分すぎる年月だった。
『伝説の勇者とエルフは、魔王を討伐した』
かつて私たちが血を流して守ったその真実は、世代が代わるごとに少しずつ歪み、やがて恐ろしい形に姿を変えて伝わっていた。
曰く、『勇者は魔王の器である』と。
『彼が絶望すれば魔王が復活する』という最も重要な発動条件は、時の彼方へ忘れ去られていた。今や人間の教会派の中では、近年の麦の不作が魔王の復活が近づいているためだと信じ、「世界を救うために、悪魔の器となった元勇者を殺せ」という狂信的な教義が蔓延しているという。
人間たちはいつだってそうだ。自分たちの都合の良いように歴史を捻じ曲げ、あまつさえ他人にその責任を押し付ける。
「……愚かな人間たち。勝手に言わせておけばいいわ」
その日の午後。バロウが猟に出かけている留守中、私は地下室で『魂の種子』の禁忌の術式を刻みながら、森の鳥たちから聞いた外の噂を鼻で笑った。
彼らがどれだけ狂信しようと、ここは私とバロウの聖域だ。何人たりとも、私の愛しい夫を傷つけることは許さない。
──その時だった。
普段は穏やかに漂っている森の精霊たちが、突如、慌ただしく地下室に雪崩れ込んできた。
その尋常ではない様子に、背筋に張り付くような悪寒が走る。
(バロウに何かあったのかもしれない……)
手からペンが滑り落ちた。
私は、パニックを起こしたように周囲を飛び回る森の精霊たちに必死に嘆願した。
「お願い、彼のところに案内して!」
私は思考を弾き飛ばし、椅子を蹴り倒して地下の室を飛び出した。
精霊たちの後を追い、エルフの身体能力と魔力を限界まで引き上げ、木々を蹴り立てて森の入り口へと一直線に飛ぶように駆け抜ける。
(バロウ、バロウ、バロウ……っ!)
心臓が破裂しそうだった。彼に何があったのかは分からない。けれど、ただ事ではないことだけは確信できた。
森を抜け、視界が開けた先。
傾きはじめた太陽の逆光と、そこに広がっていた凄惨な光景に、私は一瞬、呼吸を忘れた。
無数の騎士たちに鎖で繋がれ、地面に這いつくばらされている血まみれのバロウ。そして、彼の首元に今まさに振り下ろされようとしている騎士の大剣。
ブチッ、と。
私の中で、何かが決定的に切れる音がした。
「……私の夫に、何をしてるの」
寿命? 五感? 理?
そんなのもう、どうでもいい。
私は『種子』のために限界まで温存していた自身の生命力を乱暴に前借りし、莫大な破壊の魔力へと変換した。
空間が歪むほどの魔力を纏い、私は上空から流星のごとく、騎士団のど真ん中へと墜落した。
ドオォォォォォンッ!!
凄まじい轟音と共に爆発的なエルフの魔力が炸裂し、バロウを縛っていた光の鎖を粉々に打ち砕き、そこに群がっていた数十人の騎士たちを、悲鳴を上げる間もなく木の葉のように吹き飛ばした。
舞い上がる土煙の中。
私は血まみれで倒れるバロウを背にかばい、地を這うような低く冷たい声で、残る数百の騎士達を睨みつけた。
「……これ以上一歩でも近づくなら、お前たちを塵ひとつ残さず消し去ってやる」
私の地獄の底から響くような声を受けた直後、硬直していた数百の神聖騎士たちが、恐怖を振り払うように一斉に殺意を剥き出しにした。
「悪魔の器を庇う気か! そいつのせいで麦が育たず、村が飢えているんだ! エルフといえど許さん、森ごと灰にしろ!」
四方八方から放たれる無数の矢と炎の魔法。
私は血まみれのバロウを背で庇いながら、一切の詠唱を破棄して右手を振るった。
「世界が飢えようが知ったことじゃないわ。彼の心を守れるのは、私だけなのよ」
大地が爆発的な音を立てて隆起し、太古の木の根が巨大な大蛇のように地中から飛び出して騎士たちの陣形を粉砕する。迫り来る炎は不可視の防壁に阻まれて霧散し、私が紡ぐ暴風の魔法が、重武装の騎士たちを次々と軽々と宙へ弾き飛ばした。
「彼を絶望させるのがお前たちなら……私は喜んでこの世界を敵に回してやる!」
私は聖女ではない。世界平和など、とうの昔にどうでもよくなった。不器用な夫を愛し、夫のためなら喜んで修羅になる、ただの一人の女だ。
圧倒的なエルフの魔力による蹂躙。多勢に無勢とはいえ、このまま彼らを恐怖で退かせられる──そう確信した、その時だった。
(……え?)
突如、私の視界がふつりと途切れた。
土煙のせいではない。文字通り、目の前がインクをぶちまけたように真っ暗に『明滅』したのだ。
(しまった……!)
『種子』を完成させるために限界まで温存し、少しずつ切り売りしていた私の生命力。それを、バロウを助けるためにあまりにも乱暴に前借りし、莫大な魔力へと変換しすぎたのだ。
その急激なツケが、『視覚の喪失』という最悪の形で、ほんの一瞬だけ私を暗闇に突き落とした。
「──死ねぇぇッ!!」
視界を失った一瞬の死角。
そこから踏み込んできた騎士の鋭い刃が、私の魔法防壁の綻びを抜け、振り上げていた私の左腕を深く切り裂いた。
「ああっ……!」
鮮血が宙を舞い、私はよろめいて膝をついた。直後、明滅していた視界が嘘のようにパッと元に戻る。だが、遅かった。
私の腕から滴り落ちる赤い血を見た瞬間。
背後に倒れていたバロウの口から、この世のものとは思えないほど悲痛で、絶望に満ちた叫びが上がった。
「フィアアアアアアッ!!」
ドクン、ドクン、ドクン……ッ!
空間が、いや、世界そのものが不気味に脈動し始めた。
バロウの身体から、先ほどまでの血の匂いとは全く違う、純粋な『死』と『絶望』の漆黒の冷気が間欠泉のように噴き出し始める。
「やめろ……俺のせいで、俺のせいでフィアが……!」
「バロウ、だめっ! 私は平気よ、ただのかすり傷だから!」
私が叫んでも、もはや彼の耳には届いていなかった。
目の前で最愛の妻が傷つけられ、血を流した。
「彼女を失ってしまうかもしれない」という極限の恐怖と絶望が、ついに彼の中の時限爆弾の信管を完全に引き抜いてしまったのだ。
「いやだ、フィアが死んでしまう……いやだっ、いやだっ、いやだ……ッ!」
溢れ出した黒い瘴気が空を覆い隠し、すでに地平線を見下ろす位置にある太陽も真っ黒に染まっていく。
魔王の覚醒。世界が終わる。
神聖騎士たちも、その禍々しい絶望の奔流を前に、完全に戦意を喪失して後ずさった。
──その時だった。
『プオォォォォォォォォッ!!』
黒く染まりかけた平野に、けたたましい角笛の音が響き渡った。
地響きを立てて丘の向こうから現れたのは、教会の神聖騎士団を遥かに凌駕する数の、重厚な騎馬隊だった。
多数の王国の旗が風にたなびいている。
その先頭には、三日月と剣を交差させた紋章の旗を持った騎士の隣で、三百年前、私たちが命を救い、「家名に誓って必ず恩を返す」と泣いて誓ったあの若き騎士にそっくりな男が剣をかざしている──神聖騎士団の所属する教会派とは、互いの喉元に刃を突きつけ合ったまま並び立つ、王国騎士団の軍勢だった。
「神聖騎士団に告ぐ! 貴殿らの独断専行は我が国への明確な侵略行為である! 直ちに武装を解除し、撤退せよ!」
先頭を駆ける大柄な男──現在の王国騎士団長が、掲げた大剣を振り下ろし怒号を飛ばす。
「我が家名に記された恩義、今こそ果たす! 勇者殿とエルフ殿に剣を向ける者は、この王国騎士団が容赦せんッ!」
教会と王国の全面戦争。
それを引き起こす権限を持たない神聖騎士団の隊長は、舌打ちをして撤退の合図を出した。狂信者たちが、潮を引くように平野から去っていく。
「バロウ! バロウ、私を見て! どこも痛くないわ、ちゃんと生きてる!」
私は傷ついた腕のままバロウの顔を強く抱きしめ、真っ黒な瞳に何度も何度も口付けを落とした。私の体温と魔力に触れ、彼を飲み込もうとしていた黒い霧が、ゆっくりと、未練がましく彼の体内へと戻っていく。
「あ……、あ……」
赤く色づく太陽に染められた平野で、バロウは私の肩に顔を埋め、声にならない声を上げて泣き崩れた。
その後、私たちは王国騎士団長の庇護の下、彼の領地にある『原始の森』へと移住することになった。王国騎士団長の直属の領地ともなると、教会の人間も立ち入ることはできない。
そこは太古の木々がそびえ立つ聖域であり、凶悪な魔物も領内の人間も決して近づけない深い森だった。結果として、それは私が誰にも邪魔されず『種子』の研究を完成させるための、これ以上ないうってつけの土地となったのだ。
引っ越しの荷作りをしていると、バロウが私の包帯を巻かれた左腕をチラチラ見ながらうな垂れていた。それに気づいた私は、彼の胸をぽかぽかと力の入らない拳で叩いた。
「……バカッ。あなたがいなくなったら、私は生きていけないのよ! なんで一人で無茶をしたの! 二人で逃げればよかったじゃない!」
「ごめん……ごめん、フィア」
涙声で責め立てる私を、バロウは壊れ物に触れるような優しい手つきで、そっと抱きしめた。
「俺も同じだ。君がいなくなったら生きていけない……。不死の肉体とはいえ、軽率だった。でも、どうしてもフィアを守りたくて、君の日常を壊させたくなくて……身体が勝手に動いてしまったんだ」
ひどく弱り切った、情けない声。
本当に、この人はどうしようもない。
不老不死で、世界を滅ぼす魔王の器で、誰よりも腕の立つ伝説の勇者なのに。私の前ではいつだって、雨に濡れた捨て犬のように不器用で、どうしようもなく優しいのだ。
「……何百年経っても、バカなんだから」
「ああ、バカな夫でごめん」
私は涙声で彼の胸に顔を埋め、彼の背中に腕を回した。
世界を滅ぼしかけた絶望は去った。
だが、私だけは知っている。
戦闘中に一瞬だけ真っ暗に途切れた私の視界が。
今もほんの少しだけ、薄いモヤがかかったようにぼやけていることに。
(急がなきゃ……)
世界で一番愛しい彼に抱きしめられながら、私は冷たい覚悟を研ぎ澄ましていた。










