第6話:私が世界を敵に回す日(前編)
森での生活は、すでに六百年という途方もない歳月を迎えていた。
その日、俺──バロウは、昼食の材料となる獲物を求めて、不可侵の森の境界付近を歩いていた。フィアに、いつもよりも早めに朝食を頼んで「今日は大物を獲ってくるから」と大見得を切って出て来たのに、日はもうすっかり高くなってしまっている。
「手ぶらじゃ笑われちゃうなぁ……」
──カサッ
わずかな草の擦れる音を、俺は聞き逃さなかった。草陰から顔を出したのは、丸々と太った野ウサギだ。
音もなく弓を構える。シチューにするか、それとも香草焼きにするか。彼女が喜ぶ顔を想像しながら、今日初めて遭遇したご馳走に矢の狙いを定めた、その瞬間。
ズズン……、と。
微かな地響きが足元を揺らし、驚いたウサギが脱兎のごとく逃げ出してしまった。
「……くそっ、一体なんだってんだ?」
俺は弓を下ろし、怪訝に眉をひそめた。落胆と同時に湧き上がる緊張感。
地響きは、森の外から一定のリズムで近づいてくる。魔物の群れにしては規則正しすぎる。軍隊の行軍のような重い足音と、金属が擦れ合う無機質な喧騒。
ただ事ではない気配を感じ、俺は足音を殺しつつ、森の入り口の方へと向かった。
鬱蒼とした木々の隙間から外の平野を見下ろした俺は、我が目を疑った。
「悪魔の器を逃すな! この森ごと焼き尽くし、飢饉の元凶たる元勇者を殺せ!」
「神聖なる教義の下に、世界を飢えから救うのだ!」
「オオオーッ!!」
白銀の鎧に身を包み、教会の十字紋章を掲げた、数百人にも及ぶ狂信的な騎士の軍勢。彼らは血走った目で叫び、松明や武器を掲げて、俺たちの不可侵の森のすぐそこまで迫っていた。
その狂気に満ちた怒号を聞き、俺は背筋が凍りつくのを感じた。
……狙いは、俺だ。
俺の中に眠る魔王の呪いを恐れ、人間たちは六百年の時を経て、ついに俺を殺しに来たのだ。
どうする。……森の奥へ逃げるか?
いや、ダメだ。ここで俺が逃げ隠れれば、彼らは俺を炙り出すために必ずこの森を焼き払う。そうなれば、森の奥で待つ最愛のフィアが巻き込まれてしまう。俺のような化け物のせいで、彼女の穏やかな生活が、命が、理不尽に奪われる。
──それだけは、絶対に許されない
不老不死の俺は、自ら命を絶ってこの呪いを終わらせることすらできないのだ。
ならば。
「……やるしかない」
先頭を馬に乗って悠々と近づいてくる男に、弓の狙いを定める。
パシュッ!
放たれた矢が先頭の男の首筋に深く突き刺さり、男は声もなく落馬した。
それを合図に、俺は腰の短剣を抜き放ち、迷うことなく森の外へと姿を現した。
フィアのいる森へは、一歩たりとも踏み入らせない!
「なっ!? ……いたぞ! あそこだっ! 化け物だ!」
「殺せぇぇぇッ!!」
俺の姿を認めるなり、神聖騎士たちが狂乱して殺到してくる。
俺は元勇者としての身体能力を解放し、最初の一人の渾身の一撃を短剣で軽くあしらってねじ伏せる。
首筋に一閃。とどめを刺すと、男から大剣を奪い取り、群がる神聖騎士の先陣をそのまま真っ二つになぎ払った。
続く騎士は、恐怖でガチガチと鎧を鳴らしながら俺に槍を向けた。その頬は飢えでひどくこけ、目には狂気じみた涙が浮かんでいる。
「くそぉぉぉ!……化け物め! お前が死ななければ、俺の村が、俺の娘が泥水をすすって死ぬんだよぉ!」
俺という得体の知れない強者に立ち向かう恐怖が、震える穂先から痛いほど伝わってくる。それでも、やせ細っていく我が子を救うためなら、こいつらは喜んで人を殺す悪魔にでもなるのだろう。
「頼む、死んでくれ……! 悪魔の器よ、俺たちの世界のために、その身を犠牲にしてくれぇっ!」
狂信ではない。それは、弱すぎる人間たちがすがりついた、あまりにも身勝手で切実な、ただの生存本能だった。
一瞬の迷いが剣を鈍らせる。本来なら目を瞑ってもかわせるような単調な槍さばきが、わずかに腹をかすめて鮮血が飛ぶ。
俺は彼らを守るべき勇者だ……
──だが、今の俺にはそれよりもっと大事なものがある
どれくらい時間が経っただろう……。
ふと空を見上げると、太陽はもう頭上高くまで登り切っている。
「怯むな! 相手はたった一人だぞ。陣形を崩さずに一斉に取り囲めっ!!」
人類の敵、魔王を打ち破った元勇者とはいえ、相手は数百の軍勢。
じわじわと四方八方を囲まれ、号令と同時に無数の槍と魔法が俺の身体に殺到する。
「……ッ!! が、はっ……!」
腹を槍が貫き、炎の魔法が肩の肉をジュッと灼き焦がす。
常人であれば、すでに何十回も死んでいる致死性のダメージ。
だが、俺は死ねない。
強引に引き抜かれた槍の傷口から大量の血が噴き出すが、不老不死の呪われた肉体は、次の瞬間には肉を蠢かせ、細胞を強制的に修復してしまう。
痛覚は、常人と同じようにある。殺されるほどの激痛に何度も意識が飛びそうになりながらも、俺は血反吐を吐き、獣のように剣を振るい続けた。
──痛い
──苦しい
だが、倒れるわけにはいかない。
フィア……俺の愛しい妻……。
君にだけは、こんな醜い泥まみれの戦いを見せたくない。
「ぐ、ああああああっ……!」
ついに、限界だった。
体力ではない。何十本もの光の鎖による『神聖封印縛鎖』の魔法を何重にも掛けられ、十数人がかりで物理的に押さえ込まれたのだ。
俺は血まみれのまま、冷たい大地に這いつくばるように縫い付けられた。
「俺の村も半分が飢え死にしたんだ、恨むなら悪魔の器となった自分の運命を恨め!」
神聖騎士団の隊長とみられる男が、見下すように冷酷な目を向け、大剣を高く振り上げた。
ここまでか。
さすがに首を落とされたら死んでしまうのだろうか……
もし俺の死で世界の人々が救われるのならそれもいいのかもな……
ごめん、フィア。ウサギ、獲って帰れなくなるかもしれない
君の穏やかな生活を、俺なんかのせいで台無しにして、本当にごめん
俺は自身の死よりも、たった一人残されるフィアのことを思って、静かに目を閉じた。










