第5話:紡がれる絆
森での隠遁生活が三百年を迎えた頃。
私の身体からまた一つ、彼と共有できる大切なものがこぼれ落ちた。
コトコトと煮える鍋の音だけが、静かな山小屋のキッチンに響いている。
私は木べらでシチューをかき混ぜながら、そっと小皿にスープを取り、唇に運んだ。
とろみのある温かな液体が舌の上を滑り落ちていく。
「少し薄いかな?」
物足りなさを感じ、塩と乾燥ハーブの粉末を加えて味を整える。
その右手の指先は、術式の影響で感覚が抜けてしまっているが、もう随分と慣れてきていた。
「フィア、いい匂いがするな。お腹が空いたよ」
背後から、薪割りから戻ってきたバロウの声がした。
私はハッとして表情を引き締め、振り返っていつもの「幸せな妻」の微笑みを顔に縫い付けた。
「もうすぐできるわよ。少し待って……」
──ジジジッ!
森の周囲に張り巡らせた私の結界が、ビリビリと不快な振動を伝えてきた。何者かが、強い魔力を持った魔物に追われ、私たちの不可侵の森に逃げ込んできたのだ。
「……バロウ」
「ああ、行こう。フードを深く被って、顔を隠せよ」
私たちは素早く身支度を整え、結界の縁へと走った。
鬱蒼と茂る木々の向こうで、悲鳴が上がっている。見ると、凶暴な四つ足の魔獣が、まだ十代後半ほどの若い人間の騎士たちを崖際に追い詰めていた。
「くそっ、ここまでか……!」
リーダー格の青年が絶望的な声を上げ、目を閉じた瞬間。
ガシーンッ
魔物が見えない壁に弾き返される。
私が後方から、若者たちを守るように防壁の魔法を展開したのだ。
さらに、バロウが疾風のように木々を蹴り、魔獣の頭上から重い一撃を叩き込んだ。
大剣の一閃。不老不死の勇者であるバロウの力は、三百年経っても全く衰えていない。魔獣は断末魔を上げる間もなく地に伏した。
「怪我はないかしら?」
フードを深く被ったまま、若者たちに声をかける。
へたり込んでいた青年は、震える足で立ち上がり、私たちに向かって深く頭を下げた。
「た、助かりました……! 見回りの途中で出くわして、ここまで追われてしまって。あなた方は、この森の住人ですか?」
「ええ。訳あって、外界との関わりを絶って暮らしているの」
私が静かに答えると、青年は顔を上げ、泥だらけの胸当てを叩いた。
そこには、三日月と剣を交差させた紋章が刻まれていた。
私は息を呑んだ。それは三百年前、私たちと共に魔王と戦い、寿命でこの世を去った人間の戦士──あの訃報の手紙を送ってくれた一族の、王家筆頭騎士の紋章だった。
「私たちは、王都の騎士団の者です。命を救っていただいた恩は、決して忘れません」
青年は、三百年前の彼にどこか面影を残す、真っ直ぐな瞳で言った。
そして、泥だらけの顔で誇らしげにこう続けた。
「今のこの平和な世界は、三百年前、偉大な勇者様とエルフの魔法使い様が魔王を討ち果たしてくれたからこそ存在しているのです。私たちの命も、先祖から受け継がれた平和も、すべてあの方々のおかげ。今となっては、勇者様たちに直接恩をお返しする事は叶わないのを、日頃から残念に思っておりました。お二人に受けたこの度の恩、これも何かの運命。我が家名に誓って、いずれ必ずお返しいたします!」
その言葉を聞いた瞬間、私の隣に立っていたバロウの肩が、ピクリと震えた。
世界から見放され、恐れられ、地下牢に繋がれそうになった彼。
不老不死という呪いを背負い、自分が生きていていいのかと暗闇で泣いていた彼。
その彼が己の人生を犠牲にして守った世界は、三百年という時を越えて、確かに新しい命と平和を紡いでいたのだ。
「……そうか」
バロウは、フードの奥でぽつりと、震える声で呟いた。
「俺たちの戦いは、無駄じゃなかったんだな……大げさでクソ真面目なところが、アイツそっくりじゃないか」
若者たちが森を去った後、帰り道を歩きながら、バロウは自身の大きな両手を見つめ、やがて、長年の憑き物が落ちたような、ひどく澄んだ笑顔を見せた。
「なぁ、フィア。俺、生きていてよかったよ。ずっとこの森にいて気がつかなかったが、外の世界は人も平和もしっかりと受け継がれてるんだな……」
心の底から救われたような、無邪気で温かい笑顔。
私はその横顔を見て、自身の胸の奥が、熱く、暗く、焼け焦げるように疼くのを感じた。
この人は、自分を迫害した残酷な世界を恨むこともなく。ただ純粋に、かつての仲間の末裔が生きていることを涙ぐんで喜べるのだ。
なんて痛々しくて、美しくて、救いようのないほど愛おしい人だろう。
(私は……この人のこういうところが、狂おしいほどに好きなのよ)
彼のためなら、何だってできる。
この尊い魂を絶望させないためなら、私の身がどうひび割れようと構わない。私の彼への愛は、三百年という時間を経て、さらに深く、重く、純化されていた。
小屋に戻り、遅めの昼食をとる。
バロウは、私が作ったシチューを美味しそうに頬張り、パッと花が咲いたように目を細めた。
「うん! やっぱりフィアの作るシチューは世界一だ。少し味付け変えた?いつもより濃いけど本当に美味しいよ!」
「……!」
味覚には自信がある。いつもと変わらない味のはずだった……
「ふふ、ありがとう。たくさん食べてね」
私は動揺を悟られないように、完璧な妻の微笑みを浮かべながらスプーンを口に運ぶ。そこにある肉の旨味も、野菜の甘みも、塩気も、私にはいつもとまったく同じに感じられた。
右手の指先の感覚に続いて、私は『味覚』を失いつつあるのだ。魂を無理やりこの世に繋ぎ止めるための『種子』の術式が、確実に私のエルフとしての機能を削り落としている証拠だった。
(……また、消えていくのね)
もう二度と、彼と同じ美味しさを共有することはできない。彼が「美味しい」と笑うこの料理の味を、私は一生、過去の記憶から引っ張り出して想像することしかできないのだ。
それでも。
心からの安心と幸福に満ちた彼の顔が見られるのなら、味覚の喪失なんて、安すぎる代償だわ。
私は世界で一番愛しい夫に決して悟られないよう、テーブルの下で感覚のない指先をきつく握り込みながら……
彼にとっては「少し濃い」、私にとっては「いつもと同じ」にしか感じられない、狂い始めたシチューを笑顔で飲み込んだ。










