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君が遺した種子は、森には還らなかった。──世界を滅ぼす不老不死の夫へ、余命1000年のエルフが最期の奇跡を遺すまで──  作者: あとりえむ


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第4話:命を削る嘘と、不器用な贈り物

森での隠遁生活が二百年を迎えた頃。

私の身体には、ごまかしのきかない明確な異変が起き始めていた。



深夜、バロウが寝静まったのを見計らい、私は地下の冷たい土室でひとり、魔法陣と向き合っていた。


本来なら光となって霧散するはずの魂を、物質としてこの世に繋ぎ止める『種子』の術式。それは、神代から続くエルフの美しい理を泥で汚すような、あまりにも無謀で傲慢な反逆だ。

血で描くように術式を一行組み上げるごとに、私の内側からごっそりと生命力の塊が削り取られていくのが分かる。見えない刃で、己の寿命を切り売りしているような悪寒。


だが、恐ろしいのは寿命が縮むことではない。

もっと直接的で、残酷な代償が私の身体を確実に蝕み始めていた。


「……また、感覚が薄くなっている」


ペンを握る右手の指先を、顔のすぐ近くまで持ち上げて見つめる。

見た目は昨日までと何も変わらない、エルフ特有の透き通るような白い肌だ。しかし、左手でその指先を強くつねってみても、分厚い皮手袋越しに触れているような、ひどく鈍い感覚しか返ってこなかった。

五感の喪失。それが、魂の在り方を無理やり弄る禁忌の代償だった。



「フィア? 下にいるのか?」


突然、頭上の扉の向こうから、寝ぼけた彼の声が降ってきた。

ビクリと肩が跳ねる。私は血の気の引いた頬を両手で強く叩き、慌てて研究用の羊皮紙を幻影魔法で覆い隠すと、いつもの「穏やかな妻」の微笑みを顔に貼り付けて階段を上った。


「ごめんなさい、少し探し物をしていて……」


居間に戻り、目をこする彼のために温かいお茶を淹れようとした時だった。

距離感がうまく掴めず手元が狂い、赤く焼けた鉄瓶の表面に、感覚の鈍った右手の指がもろに触れてしまったのだ。

ジュ、という肉の焦げる嫌な音がして、白かった皮膚が醜く赤く爛れていく。


「フィア! 何をしているんだ、火傷しているじゃないか!」


「……え?」


血相を変えて駆け寄ってきたバロウに乱暴に手を取られ、私は初めて、自分がひどい火傷を負ったことに気がついた。



──何も、感じなかった。

熱くもない。痛くもない。ただ、自分の肉体が壊れていく様を、他人の体のように見下ろしているだけ。


背筋にぞくりと、本能的な悪寒が走った。

私の指の感覚は、昨日よりもずっと早く、そして確実に死につつある。

しかし、そんな恐怖を顔に出すわけにはいかなかった。バロウは痛々しく赤く腫れ上がった私の指先に必死で冷水をかけながら、今にも泣き出しそうなほど顔を歪めている。


(ダメっ、絶対に悟らせてはいけない)


もし、私が彼のために「五感と命を削るほどの苦痛」を味わっていると知れたら。

自分の存在が私を壊しているのだと知れば、優しすぎる彼は絶対に自分自身を許せず、凄まじい絶望に飲み込まれてしまう。

彼が絶望すれば、魔王が復活する。世界が終わる。でもそれ以上に、彼が彼でなくなる、私はそのことが怖い。


この『痛みを感じない指先』は、絶対に彼にバレてはならない時限爆弾なのだ。


「……ごめんなさい、ぼんやりしていたわ。少し熱かったけれど、治癒魔法ですぐに治るから心配しないでね」


私は痛みを耐えるような芝居を打ちながら、小首を傾げて明るく笑いかけた。


私の嘘の笑顔を見て、バロウはほっとしたように強張らせていた広い肩の力を抜き、「気をつけてくれよ、俺の心臓が止まるかと思った」と情けない声を出した。


──不老不死のくせに。

そう軽口を叩いてやりたかったけれど、喉の奥が引きつって声にならなかった。

私を心配する彼の純粋な優しさが、今はただ、鋭い刃のように私の胸を切り裂いていた。



数日後。

そんなギリギリの均衡を保ちながら生活していたある日、バロウがひどく泥だらけの姿で森の外から帰ってきた。



「バロウ!? その服、どうしたの……それに、酷い血の匂いが……」


彼のチュニックは獣の爪で裂かれたようにボロボロで、黒い泥と赤黒い血がこびりついていた。不老不死である彼の身体には傷ひとつ残っていないが、それが尋常ではない死線を潜り抜けてきた証拠であることはすぐに分かった。


「あ、ああ、ちょっと散歩の途中で崖から落ちてな」


あからさまな下手くそな嘘をついて誤魔化すバロウに私は詰め寄った。


「……バロウ。貴方、嘘をつく時はいつも眉が少し上がるわ。崖から落ちただけで、魔竜の焦げた臭いが服に染み付くはずがないでしょう?」


バロウは一瞬言葉に詰まって、照れくさそうに笑う。


「……やっぱり、フィアには敵わないな。でもさ、これを見てほしかったんだ」


バロウは、照れくさそうに泥だらけの大きな手を差し出した。

その掌に乗っていたのは、星空をそのまま切り取って閉じ込めたような、深く澄んだ蒼色の宝石だった。


「最近の君は、時々……俺の手が届かない、すごく遠い場所を見ている気がして怖かったんだ。だから、俺がここにいるって、君の瞳の中に俺がちゃんと映ってるって、確認したかった。……この石、君の瞳の色によく似ているんだ。きっと喜んでくれると思って」


私は息を呑んだ。

ただの綺麗な石ではない。それは、エルフの知識を持つ私でさえ実物を見るのは初めての、最高純度の『星結晶』だった。


こんなものがその辺に落ちているわけがない。これは、大陸の最果てにある凶悪な魔竜の巣にしか存在しない、伝説級の魔石だ。

彼は、この森から何日も不眠不休でそこへ赴き、私に内緒で魔竜と殺し合いをしたのだ。絶対に死ねない不老不死の身体を盾にして、何度もその身を引き裂かれ、途方もない痛みに耐えながら。


……私にこの『綺麗な石』をプレゼントして、私の笑顔を見るためだけに。



「あっ……」


震える手でその石を受け取った瞬間、私の内側にある魔力が激しく、歓喜するように共鳴した。

この石が放つ清浄で膨大なエネルギーは、バロウの中に眠る『魔王の瘴気』を中和し、そして何より──私が難航し、命をすり減らしていた『魂の種子』の術式を完全に安定させるための、極上の触媒だったのだ。


「どうした? 気に入らなかったか……?」


不安そうに私の顔を覗き込むバロウ。

私は何度も首を横に振り、彼の泥だらけの身体に力いっぱい抱きついた。


「ううん……違うの。すごく綺麗。とっても嬉しいわ、バロウ……っ」


涙がボロボロと溢れて止まらなかった。

私の言葉を聞いた瞬間、バロウの顔からスッと不安の翳りが消え去り、まるで褒められた子供のようにパッと明るく輝いた。


「……本当か? ならよかった!」


バロウは、心の底から安堵したように長く息を吐き出した。

自身の服が引き裂かれていることや、死闘の疲労、味わったはずの激痛など全く気にしていない様子で目を細めて笑う。ただ『私が喜んでいる』という事実だけが、彼にとっての世界のすべてであり、最高の報酬であるかのように。


「君が笑ってくれるなら、泥だらけになった甲斐があったよ」


そう言って、彼は私を安心させるように、力強く抱きしめ返してくれた。

彼は不器用だ。自分が不老不死であることの負い目から、せめて私を笑顔にしようと、己の身体を犠牲にしてまでこんなものを集めてきてしまう。


でも、彼のその無自覚なまでの狂気的な愛情が、私の閉ざされた禁忌の研究を、確かな希望で照らし出してくれたのだ。


(ああ、私……本当に、貴方を愛しているわ)


彼の広い背中に回した私の右手の指先には、彼の身体の温もりはもう、微塵も伝わってこなかった。

感覚の喪失は、確実に私の腕を侵食し始めている。


──次に彼が私の手を強く握りしめてくれた時。私は、その大好きな温もりを、感じることができるのだろうか。

それでも、私は微笑まなければならない。

彼が命懸けでくれたこの蒼い石を胸に抱きながら、私はただ、声を出さずに泣き続けた。

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