第12話:君が遺した一粒の種子
バロウの絶望を喰らい、完全に覚醒した魔王の瘴気は、絶対的な聖域であった『原始の森』の太古の木々を一瞬にして黒く腐らせ、灰へと変えた。
地獄の底から噴き出したような漆黒の霧は、瞬く間に太陽を呑み込み、世界中へと『終わりの波』となって広がっていく。
王都の白昼は、不気味な夜の闇に塗り潰された。
突然の終焉を前に、人間の本性が街のあちこちで剥き出しになっていた。
「どけ! 俺が先だ!」
恰幅の良い商人が、すがりつく老婆を蹴り飛ばす。つい昨日まで、彼は孤児院に多額の寄付をする、温厚で誰からも慕われる善良な男だった。だが、目の前に迫る『絶対的な死の恐怖』が、彼から理性を、道徳を、人間の尊厳をいとも容易く剥ぎ取ってしまった。
パニックに陥った群衆は互いを突き飛ばし、踏みつけ合い、我先にと逃げ惑う。その姿には、もはや善人も悪人もない。ただ、死を恐れて醜く這いずる、生物としての本能の末路があった。
荘厳な教会の奥深くでは、司祭たちがステンドグラスを突き破って侵入してきた漆黒の瘴気を前に、床にすがりついていた。
「おお神よ、我らを見捨てたもうたか!我らを……、いや、私を助けてくれぇ!」
かつての真実を忘れ、「悪魔の器を殺せ」と、世界の不都合を勇者に押し付けて威厳を保ち続けていた彼らもまた、ただ恐怖に涙と鼻水を流し、普段は聖職者の仮面で覆い隠していたエゴをむき出しにして神に命乞いを叫び続けていた。
だが、絶望に呑まれる世界の中で、光り輝く人間の美しさも確かにそこにあった。
混乱を極める裏路地の片隅。
「大丈夫よ、お母さんがここにいるからね。何も怖くないわ」
死の冷気に自身の身体をガタガタと震わせながらも、母親は泣きじゃくる幼い子供を強く抱きしめ、その耳を塞ぎ、最期の瞬間まで子供の世界を平穏に保とうと優しい子守唄を口ずさんでいた。
王都の城門前。
「押し合うな! 女と子供を先に避難させろ!」
押し寄せるパニック状態の群衆と、迫り来る黒い霧を前に、名もなき若い衛兵たちは決して逃げ出さなかった。恐怖で顔を引きつらせながらも、彼らは互いの盾を固く結び合わせ、見ず知らずの誰かを守るために、その身を挺して強大な絶望の波に立ち向かっていた。
そして、片田舎の村。
「千年の平和も、ここまでじゃったな」
迫り来る闇を前に逃げることを諦めた老夫婦は、縁側で静かに並んで座り、長年連れ添った互いの皺だらけの手を固く握り締め、穏やかに死を受け入れようとしている。
世界中が、終わりを予感する恐怖とエゴ、そしてそれに抗う無償の愛の狭間で激しく揺れ動いていた。
かつてフィアとバロウを庇護した王国騎士団長の子孫。二人と共に魔王を討伐した仲間の末裔でもある初老の男は、屋敷のバルコニーから真っ黒に染まった空を静かに見上げていた。
彼の一族に代々語り継がれてきた、『世界の真実』
「……伝承の勇者様が、ついに魔王の呪いに負けてしまったのか」
彼は拳を固く握りしめ、かつて先祖の命を救い、この世界を誰よりも不器用に守り続けてくれた偉大な恩人たちの悲劇的な結末に、痛ましげに目を伏せた。
*
一方、バロウは魔王に完全に呑み込まれる寸前の状態で、その精神はどこともしれない闇の中を漂っていた。
そこは、音も光も存在しない、絶対的な暗闇と氷のような冷気に満ちた深い深い泥の底だった。
(……ごめん、フィア。俺は、君の世界を守れなかった)
意識を手放しかけ、絶望の沼の底へと沈んでいくバロウ。
だが、彼の意識が完全に闇に溶けようとした、その瞬間だった。
トクン……ッ。
真っ暗な泥の底で、彼が固く握りしめていた右の掌に、ふと小さな、けれど確かな「熱」が灯った。
(なんだ……? 温かい……)
それは、フィアが最期の瞬間に彼の手の中に遺した『黄金の種子』だった。
世界を終わらせるほどの、絶望という魔王の強烈な負の波動に真っ向から反応し、種子が自らの殻を破るように強烈な黄金の光を放ち始めたのだ。
『──バロウ』
掌の光から、世界で一番愛しい人の声がした。
その瞬間、種子に込められていた膨大な想いの奔流が、直接バロウの魂へと怒涛のように流れ込んできた。
『泣かないで、バロウ。私はちゃんと、貴方の手の中にいるわ』
それは、ただの記憶の断片ではなかった。フィアの魂からの、優しく、そして狂気的なほどに重い、衝撃的な告白だった。
『私ね、ずっと貴方に嘘をついていたの。エルフの理に従って、私だけが森に還って、貴方を独りぼっちにするなんて、絶対に嫌だった』
『だから……私の残りの命と、五感のすべてを代償にして、この種子を創っていたのよ。貴方に遺す、絶対的な愛の結晶を』
流れ込んでくる真実。それは、彼女の見た、あまりにも残酷で美しい千年の愛の軌跡だった。
『初めて出会った日の、貴方の不器用な笑顔が大好きだった』
『迫害された王宮で、絶望しかけたあなたを見て、私はあなたを必ず守り抜くと決めたの』
『二人で小屋を建てて、美味しいシチューを頬張って……私の舌から味が分からなくなっても、貴方が美味しいと笑ってくれる、あの無数の穏やかな日々が、私にとっては何よりもかけがえのない幸せだったの』
痛くないと笑って隠したあの火傷
味がしないのに美味しいと微笑んで飲み込んだあのシチュー
ほとんど何も見えていないのに俺を愛おしそうに見つめていたあの白濁した瞳
俺に心配をかけまいと、彼女が一人でどれほどの苦痛と恐怖に耐え、己を削り落としていたのか。その事実が、バロウの魂を激しく打ち据える。
そして、彼女が感覚のない手で必死に書き残した、あの最後の想いが、温かい声となってバロウの魂を強く抱きしめた。
『エルフの私は、貴方との間に子供を遺すことはできなかった。でも……千年の間、貴方にもらった愛をすべて凝縮したこの種子が、私の生きた証であり、二人の愛の結晶よ』
『愛してるわ、バロウ。……出会ったあの日から、ずっと』
「ああ……あああ……っ!」
流れ込んでくる彼女の痛いほどの愛の質量と、明かされた優しすぎる秘密に、バロウの魂が激しく震え、大粒の涙が溢れ出した。
俺は、一人じゃなかった
彼女は俺を置いていってなどいなかった
彼女は、ちゃんと俺の手の中に、その命のすべてを懸けて残ってくれていたのだ
「うおおおおおおおおっ!!」
バロウの魂からの絶叫と共に、掌の種子が太陽のような黄金の光を爆発させた。
その光は、魔王の絶対的な暗闇を内側から凄まじい勢いで吹き飛ばしていく。
光が満ちた精神世界に、柔らかな風が吹き抜けた。
目を開けたバロウの前に広がっていたのは、黒い泥の底などではない。
それは、かつて千年前の星空の下で、彼が「いつか見せたい」と語った約束の景色。
見渡す限りの黄金色の麦畑が、温かい陽だまりの中で、優しく揺れていた。










