第11話:世界を終わらせる絶望
「ダメだ……。お願いだ、フィア。俺を、置いていかないでくれ……っ」
千年の時が満ちた、終わりの日の朝。
俺の血を吐くような必死の懇願も虚しく、すがるように握りしめていたフィアの皺だらけの指先から、ふつりと、最後の生命の糸が切れるのが分かった。
「……フィア?」
返事はない。
いつもなら「大丈夫よ」と痛ましいほど優しく微笑んでくれるはずの彼女が、静かに目を閉じた、その直後。
フィアの身体の輪郭が、ふっと淡い光を放ち──音もなく、弾け飛んだ。
「え……?」
たった一粒の『黄金の種子』だけが、ぽつりと、俺の掌の上に取り残された。
たった今まで俺の腕の中にあった、愛しい人の確かな重みと、かすかな体温。それが、一瞬にして完全に消え失せたのだ。
命の灯火が消え、彼女がこの世界から永遠に失われた。その絶対的な事実が、極太の氷の刃となって俺の心臓を深々と貫いた。
「嘘だろ……約束したじゃないか、ずっと一緒にいるって。俺を置いていかないって……!」
声が震える。視界がひどく滲む。
千年間、俺の世界のすべてだった彼女が、今、俺の手のひらから永遠にこぼれ落ちた。
その途方もない喪失感が脳髄を焼き切ったのと同時に。俺の奥底で、千年間重い鎖で縛り付けていた『アレ』が、けたたましい歓喜の産声を上げた。
──魔王の呪いが、完全にリミッターを外したのだ。
ドクン、と。
空間そのものが、巨大な臓器のように異様な音を立てて脈打った。俺の胸の奥から、氷のように冷たく、泥のように黒い絶望のエネルギーが、強烈な吐き気と共にせり上がってくる。
(ダメだ……俺が呑まれたら、フィアが全ての時間をかけて守ってきたこの世界が終わる……!)
俺は奥歯が砕けるほど噛み締め、全身の血を沸騰させるようにして、内側から決壊しようとする漆黒の瘴気に必死に抗った。
絶望なんて、してたまるか
俺の心を繋ぎ止める光は、俺の中にはっきりとある
この千年間、彼女と一緒に過ごした、穏やかで愛おしい生活の記憶。
俺という世界を滅ぼす時限爆弾を抱えながら、その膨大な時間の全てを俺だけに費やし、ただひたすらに笑顔で呪いを抑え続けてくれた、フィアの狂気的なまでの献身。
これだけの愛をもらっておいて、俺が絶望に負けるわけにはいかない。
俺は勇者だ。彼女が必死に守ってくれたこの世界を、二人の愛の証であるこの小さな小屋を、絶対に壊させやしない。
「うぉぉぉぉぉぉっ!! 引っ込んでろ、化け物が……っ!!」
俺は血反吐を吐くような思いで、這い上がってくる魔王の闇を、魂の底へと力ずくで押し返そうとした。
──だが。
千年の間、ただ俺が『愛する者を失う瞬間』だけを待ち続けていた魔王の呪いの力は、人間のちっぽけな意志の力で抑え込めるほど甘くはなかった。
『無駄だ、勇者よ。貴様を繋ぎ止めていた光は、たった今、永遠に失われたのだから』
脳内に直接響く、おぞましい怨念の声と共に。
俺の必死の抵抗を嘲笑うかのように、圧倒的で絶対的な闇の奔流が、俺の精神の防壁を濡れた紙屑のように粉砕した。
「が、あ……っ! あ、あああああっ……!」
抗えない
千年の想いが、記憶が、温もりが、漆黒の泥流に無惨に飲み込まれていく。
フィアのいない世界。フィアが永遠に失われたという、どうしようもない絶対的な事実がここにある。
そして……
漆黒の闇が、ついに俺の魂の隅々まで完全に侵食し尽くした。
意識が、光の届かない暗い底へと沈みゆく中。
俺は最期に、世界で一番愛しい妻の名前を叫んだ。
「フィアアアアアアッ!!」
直後。
俺の肉体を完全に突き破り、極大の絶望エネルギーが、漆黒の間欠泉となって天高く噴き上がった。
それは、光を喰らい、命を否定し、あらゆる希望を無に帰す、純度百パーセントの破壊の波動。
終わりの日の朝を照らしていた温かい太陽は、一瞬にして真っ黒に掻き消され。
世界は、一切の救いのない、絶対的な漆黒へと染め上げられていった。










