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君が遺した種子は、森には還らなかった。──世界を滅ぼす不老不死の夫へ、余命1000年のエルフが最期の奇跡を遺すまで──  作者: あとりえむ


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第10話:遺すべきもの

翌日、まだ世界が深い闇に包まれた早朝。


俺──バロウは、隣で可愛らしい寝息を立てるフィアの横顔を見つめていた。

ぐっすりと眠っている。ずっと彼女が俺に隠れて、夜遅くまで地下室で何かをしていることは知っている。だが、いまさらそれを問い詰めるような気にはなれない。


千年という果てしない時間を、彼女はずっとこの呪われた運命を抱えた俺と一緒に歩んできてくれたのだ。彼女を疑う余地など、俺の心には微塵もなかった。


──きっとそれは、彼女にとって必要なことに違いない


俺は、彼女のためにできることがあるならすべてやる。ともに歩んだ千年の歴史が刻まれた深い皺の頬に優しく口付けを落とすと、書き置きを残し、干し肉を頬張りながら小屋を出た。


昨夜のフィアの様子に、俺は何か『終わりの予感』のようなものを感じずにはいられなかったのだ。



──数時間後。

俺は『原始の森』の深く、さらに奥深く、巨大な古木が立ち並ぶ日の光さえも全く届かない最深部を彷徨っていた。


そこは、肺が潰れそうなほど濃密なマナが空気中に満ち、重苦しくも神々しい、暴力的なまでの生命力に溢れた太古の世界だった。昨日フィアから聞いた『世界樹』が、もしかしたらこの奥にあるのではないか。そう思って茨を掻き分け、泥に塗れながら進んだが、何時間歩き回ってもそれらしきものは見つけられなかった。


「……やっぱり、そんな都合よく見つからないか」


見上げても先が見えないほどの巨木の根元に背を預け、俺はズルズルと腰を下ろして静かに息を吐いた。


もうすぐ、彼女の目が完全に見えなくなるだろう。白く枯れ、小さく縮んでしまった彼女の身体は、俺の目から見ても明らかに命の限界を迎えつつあった。

その事実が胸を激しく締め付ける。だが、不思議とそこに「絶望」はなかった。


目を閉じると、この千年間、フィアと共に過ごした優しく愛おしい記憶の波が、鮮やかな色彩を伴って脳裏に押し寄せてきた。


千年前、魔王を討ち果たした凱旋の日。化け物を見るような冷酷な目で囲まれた王宮で、絶望に沈みかけた俺の泥だらけの手を、両手で力強く握りしめてくれた彼女の小さな手。あの信じられないほどの熱さと、心強い声。


二人だけで建てた、森の小さな隠れ家。俺が不器用に持ち帰った花や石ころを、いつだって世界で一番美しい宝石をもらったかのように、花が咲くような笑顔で受け取ってくれたこと。


そして昨夜。暖炉の淡い光に照らされた、彼女の顔。

白くパサついた髪、深く刻まれた皺。目が見えなくとも、俺の輪郭を確かめるように、愛おしそうに俺の頬を撫でてくれた、あのひどく小さく、骨張った手。


ホクホクのじゃがいもと野菜の旨味が詰まったシチュー、豆の粉で作ったふわふわの香ばしい焼きたてパン。俺が手伝うと言ってもこれだけは譲れないと、毎日温かくて最高に美味しい食事を作ってくれた。

一日中何もせずに、ただただ二人でごろごろしていた日もあったな……。


……ありがとう、フィア。俺を見つけてくれて。俺を、愛してくれて


俺が永遠の時間をかけて見守ってきた、たった一人の愛しい妻。

出会った日の無防備な笑顔も、老いて皺だらけになった今の姿も、俺にとっては等しく尊く、胸が張り裂けそうなほど愛おしかった。


彼女が老いていくことが悲しいのではない。ただ純粋に、彼女と生きたこの千年間の軌跡が、あまりにも幸福で、奇跡のように温かくて──

言葉にならない想いが込み上げる。


限界まで膨れ上がった愛の質量が、一滴の熱い涙となって、俺の目から零れ落ちた。


──その瞬間、世界が絶対的な静寂に包まれた。



ポォン……、と。

森の最深部の空気が波打ち、波紋のような黄金の光が弾ける。

俺の涙に込められた、千年近くにもおよぶ、重く、純粋で、極大の『愛の想い』。

それに、この森に何万年も溜まっていた濃密なマナが強烈に共鳴したのだ。

光の粒が空中に舞い上がり、渦を巻き、やがて水晶のように透き通った一粒の美しい雫となって、ゆっくりと実を結び……。


そして、柔らかな苔の上へと転がり落ちた。


「なんだ、これ……」


そっと両手でひろい上げると、その雫は心臓のようにトクン、トクンと脈打ち、まるでフィアの体温のような、驚くほど優しく力強い温もりに満ちていた。


──綺麗だ


ただの感情ではない、漠然とした感嘆の声が自然とこぼれ落ちる。

それは、フィアの透き通るような、淡く、幻想的で、可憐な姿を初めて目にしたときと同じだった。



「……これを君に。少しでも、君の不安が和らぐなら」


俺はそれを落とさないよう大切にポケットにしまい、愛する妻の待つ小屋へと足早に帰路についた。


     *


一方、バロウが出かけた後。

私は地下室で、視界も、味覚も、右手の感覚もほとんどない中、己の魂の形だけを頼りに『黄金の種子』の術式の完成を急いでいた。


魔法陣の中心には、彼が気の遠くなる長い年月をかけて命懸けで贈り続けてくれた『星結晶』や『原始の森の琥珀』などのプレゼントが置かれている。


(貴方が不器用に集めてくれた愛が、私をここまで導いてくれたのよ……)


彼の愛のすべてが、種子を構築する完璧な触媒として機能していた。

しかし。


「……ダメっ、安定しない……!」


最後の最後で、術式の構築がピタリと止まってしまった。完成させるには、決定的な『何か』が足りないのだ。

このままでは、自身の残りの命をすべて注ぎ込んでも足りない。愛の結晶を完成させることも、彼に「さよなら」と「ありがとう」を告げることすらできずに死んでしまうかもしれない。


強烈な恐怖と焦燥感が、私の胸を激しく叩いた。

手が震える。呼吸が浅くなる。


「……落ち着きなさい、フィア」


私は、感覚のない右手をぎゅっと握り込み、自分に言い聞かせた。

焦っても結果は生み出せない。彼が帰ってくるまでに、少しでも魔力を回復させなければ。


「……そろそろバロウが帰ってくる頃ね。今日は、彼の大好きなミートボールを作ろう」


私はひび割れそうな心を必死に繋ぎ止め、キッチンへと向かった。



ウサギのひき肉に細かく刻んだ香草とスパイスをたっぷりと練り込み、丸めて熱したフライパンに落とす。ジュゥゥッ!という小気味よい音と共に、肉の焼ける暴力的なまでに香ばしい匂いが小屋いっぱいに広がる。

表面にこんがりと焼き色がついたところで、ぶどう果汁と、じっくり煮込んだ濃厚なトマトソースを流し込む。グツグツと煮立つソースの香りに、ニンニクの食欲をそそる匂いが混ざり合う。

私にはもう味覚はないけれど、彼が「うまい!」と頬張る顔は、完璧に想像できた。


「ただいま、フィア。うわぁ、すっごくいい匂いがする!」


ちょうどソースが煮詰まった頃、バロウが小屋に帰ってきた。


「おかえりなさい。もう少しでできるわよ」


「なぁ、フィア。これを見てくれないか」


バロウは少し興奮した様子で、私の手に小さな光る粒を握らせた。


「ここは古い大きな木がたくさんあるから、もしかしたらと思って、昨日聞いた世界樹を探しに行ってたんだ。やっぱり、そんな都合よくは見つからなかったけどね」


照れくさそうに笑う、愛しい彼の気配。


「でもこれ、森の奥で見つけたんだ。もしかしたら、フィアの目に効いたりしないかなって思って」


「これは……っ!?」


握らされたその雫から、私は途方もないマナの波動と、紛れもない『彼の魔力』を感じ取った。エルフの古い伝承にのみ記されている、純粋な愛とマナが結晶化した奇跡の物質──『世界樹の雫』


森で一体何があったのかはわからない。けれど、彼が、私への途方もない愛で、この奇跡を産み落としてくれたのだという事実だけは、痛いほどに伝わってきた。


「……ええ。すごく、目に効きそうよ。ありがとう、バロウ」


私は込み上げる熱い涙を必死に堪え、完璧な妻の微笑みを作った。



昼食の席で、バロウは大盛りのミートボールを「うまい! やっぱりフィアの料理は最高だ!」と子供のように平らげた。

そして食後。早朝から深い森を歩き回った疲労と、満腹感からくる安心感に包まれ、彼は暖炉の前の長椅子で、無防備にすやすやと眠りに落ちてしまった。


規則正しい彼の寝息を聞きながら、私は静かに立ち上がり、地下室へと降りた。



魔法陣の中心に、彼が愛で産み落としてくれた『世界樹の雫』をそっと置く。


消え入るような震える声、古代エルフ語のルーンに静かな共鳴が応える。

膨大なマナの奔流が魔法陣を駆け巡り、バロウの愛と、私の愛が完全に融合する。まばゆい黄金の光が収まった後、そこには、確かな熱を持って脈打つ一粒の『黄金の種子』が完成していた。


──ついに、終わったのだ


「エルフの私は、貴方との間に子供を遺すことはできなかった。でも……千年の間、貴方にもらった愛をすべて凝縮したこの『種子』が、私の生きた証であり、二人の愛の結晶よ」


私は、ほとんど見えない目で机に向かった。

感覚のない右手を、震える左手でしっかりと押さえ込みながら。日記の最後のページに、不器用に歪んだ文字で、彼へのありったけの感謝と愛を書き連ねていく。


『愛してるわ、バロウ。……出会ったあの日から、ずっと……これからも』


最期の文字を書き終え、静かにペンを置く。


(彼のそばで目を閉じたい……)


最後の力を振り絞って這うように階段を上り、暖炉の前で眠るバロウの隣にたどり着く。



温もりを求めて伸ばした右手が彼の手を握る──


途端に、私の身体をこの世界に繋ぎ止めていた最後の糸がプツリと切れ、意識が深い暗闇へと急速に沈み込んでいくのを感じた。




──時間が、繋がる


     *


「ダメだ……。お願いだ、フィア。俺を、置いていかないでくれ……っ」


千年の時が満ちた、終わりの日の朝。

私の手をすがるように握りしめ、ひどく掠れた声で泣きじゃくる愛しい夫の顔を。

私は、千年前から何も変わらない彼の美しい輪郭を、最後の光で見つめていた。

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