第二話 「港町の覇王」
江戸を発って半月。
日光街道から奥州街道を経て、
羽州街道を北上する旅路は、
季節の変わり目特有の
冷え込みを帯び始めていた。
出羽国・黒髪藩の城下に入った
信斎一行を待っていたのは、
譜代の名門と呼ばれるに相応しい
重厚な城郭――ではなく、
異様なまでの「金の匂い」と、
領民たちの荒んだ空気であった。
「すごい……船が、あんなにたくさん」
城下の外れ、港を見下ろす丘の上で
小太郎が息をのんだ。
日本海の荒波が寄せる港には、
巨大な北前船が何隻も停泊し、
米俵や酒樽、綿花を積み込む
仲士たちの怒号が飛び交っている。
港の活気だけを見れば、
大藩の城下に引けを取らない。
だが、一歩街中に入れば景色は一変した。
通りを行き交う領民たちの着物は破れ、
顔色は暗い。
街のあちこちには
「無価値」となった藩札が
紙くずのように捨てられ、
店先では豪商の息がかかった両替商が、
領民から破格の値で
米や家財を買い叩いていた。
「……酷い有様ですね」
信斎の脇を歩く源次が、
声を潜めて呟いた。
「藩の米蔵は海国屋に押さえられ、
領民は今年の年貢すら納められずに
いるそうです。
これでは、名ばかりの十万石だ」
「口を慎め、源次。
我らは江戸から招かれた絵師だ。
世政に口を挟む筋合いはない」
信斎は表情一つ変えずに歩を進めたが、
その目は城下を包む不穏な空気の根源を
正確に捉えていた。
その日の刻限、一行は
港を一望できる
小高い丘の上に建てられた旅籠
「海風荘」へと入った。
通された奥の間で旅の汗を流していると、
音もなく廊下の気配が動いた。
「お待ちしておりました、信斎様」
滑り込んできたのは、
地元の町娘の身なりをした女――
お蓮であった。
お蓮は先発してこの地に潜入し、
海国屋の動向と屋敷の構造を
探っていたのだ。
旅子の顔をした小太郎が別の部屋で
長旅の疲れから爆睡しているのを確認し、
お蓮は懐から細かく書き込まれた
見取り図を取り出した。
「海国屋徳兵衛。
噂以上の増長ぶりにございます。
藩主・黒髪公への貸し付けは
既に十万両を超え、
城中の主要な役人はすべて
海国屋の金で動いております」
「抜け荷の証拠は出たか?」
「はい。夜陰に紛れ、
清や異国の船と直接、
銀や米を取引しております。
藩の密貿易用の
隠し港まで所有しており、
奉行所の役人も見て見ぬふりです」
信斎はお蓮が差し出した見取り図に
視線を落とした。
「屋敷の警備は?」
「雇われの用心棒が常時十数名。
中でも一番の脅威は、
元・黒髪藩の筆頭剣術指南役であった
『鬼頭厳十郎』という男です。
藩を放逐された後、
海国屋に高禄で雇われました。
鋭い勘を持った男です。
……それと、これが本題ですが」
お蓮は一枚の文を提示した。
「徳兵衛は、
自らの権力を象徴するために建てた
新築の『離れ客殿』に飾る絵として、
江戸狩野派の大家である信斎様を
指名して招待状を出させました。
自分が
幕府の奥絵師すら金で動かせるのだと、
周囲に知らしめるための誇示に
ございます」
「……飛んで火に入る夏の虫、か」
源次が薄く嘲笑を浮かべた。
「自ら死に場所を用意し、
我らを招き入れるとはな」
「油断は禁物だ」
信斎は静かに見取り図を指でなぞった。
「徳兵衛は単なる成り上がりではない。
警戒心は強いはずだ。
それに鬼頭という用心棒がいる。
わずかな不審な動きも、
即座に刃で裁かれると思え」
「ハッ」
「源次、明日から海国屋の屋敷へ向かう。
調合の準備は出来ているな?」
「いつでも。……
いつでも、極上の毒絵具を
練り上げることができます」
源次は懐の壺に触れながら、
冷たい笑みを返した。
翌朝。
信斎一行は、
整えられた着物と道具箱を携え、
海国屋の巨大な屋敷の門をくぐった。
高く聳え立つ白壁、
黒漆塗りの重厚な門扉。
藩主の居城をも凌ぐかのような
壮麗な邸宅の奥から、
豪奢な小袖を着た太った男――
海国屋徳兵衛が、
数人の用心棒を引き連れて姿を現した。
「ガハハハ!
よくぞ参られた、狩野信斎殿!
江戸城の将軍様を唸らせるその腕前、
この徳兵衛の屋敷で
存分に奮っていただきとう存ずる!」
高笑いする徳兵衛の背後で、
目つきの鋭い大男――鬼頭厳十郎が、
油断のない光を宿した瞳で
信斎たちを射抜いていた。
信斎は恭しく一礼しながら、
心の中で静かに筆を執った。
(海国屋徳兵衛。お前が
自慢するその金と権力の城こそが、
お前の墓場となるのだ)
幕府の威信をかけた、
最初の「毒画」の幕が切って落とされた。
この後 13:10 に投稿します。




