第一話 「江戸の秘命」
江戸城、奥対面所。
静寂が支配する広間の上座に、
幕府老中・水野越前守が座していた。
その視線の先で、
一人の男が深く頭を下げている。
「面を上げよ、信斎」
「ハッ」
狩野信斎は
静かに顔を上げた。
今年で四十八。
極めて端正な顔立ちと、
使い込まれた筆のような
しなやかな佇まい。
江戸狩野派の筆頭、
鍛冶橋狩野の門下でも
一目を置かれる大家であり、
将軍家の「奥絵師」として
城内に出入りを許された
数少ない絵師の一人である。
しかし、
水野老中と信斎の間に漂う空気は、
主君と芸術家のそれではない。
水野は手元の文箱から、
極秘の印が押された
薄い奉書紙を取り出し、
畳の上を滑らせた。
「出羽・黒髪藩の首領、
海国屋徳兵衛のことだ」
信斎は視線だけで老中の言葉を促す。
「黒髪藩は、
先代の将軍家より賜りし譜代の名門。
……だが、近年の大飢饉と
港の修繕費が重なり、
藩財政は完全に破綻した。
そこに付け込んだのが海国屋だ。
藩主・黒髪公に多額の貸し付けを行い、
その担保として藩の米蔵と、
あろうことか
税の徴収権まで手中に収めた」
水野の声音が一段と低くなる。
「今や黒髪藩の公儀への上納米は滞り、
城下では藩札すら紙くず同然。
海国屋の一声で藩の役人が動き、
抜け荷(密貿易)の噂まで絶えん。
将軍家の威信は、
地方の一商人によって
泥を塗られておるのだ」
「……上様のご意向は
『処分』でございますか?」
「公に上士を遣わして討ち払えば、
譜代の名門が商人に屈していたという
醜聞が天下に知れ渡る。
さりとて、
刺客を送り込んで刃で刺せば、
お家騒動として藩の改易は免れん。
改易となれば、路頭に迷う藩士と
領民が溢れ、東北の地が荒れる」
水野老中は信斎の目をじっと見つめた。
「刃を使わず、傷を残さず、
海国屋を『病死』させよ。
黒髪藩が自力で財政を立て直す
猶予を与えるのだ」
「承知いたしました。……
相手の喉元に届く『絵』を、
一幅したためて参りましょう」
信斎は深く一礼し、
老中の前から姿を消した。
神田鍛冶町にある信斎の画工房。
表向きは
門下生たちが忙しく絵具をすり潰し、
下絵を描く活気に満ちた空間だが、
その奥にある離れの一室は、
限られた者しか足を踏み入れられない
「薬房」となっていた。
「師匠、戻られましたか?」
出迎えたのは、
第一の弟子である源次だ。
無口で手際が良い源次は、
金箔貼りや背景の下塗りを
完璧にこなす職人だが、
裏の顔は薬物と鉱物に熟知した
「薬師」であった。
部屋の棚には、薬種屋でも見かけない
怪しげな鉱石や壺がズラリと並んでいる。
「出羽・黒髪藩だ。標的は海国屋徳兵衛。
……公儀の威信を傷つけず、
病死に見せかける」
「出羽ですか。寒冷の地ですね」
源次は静かに頷き、
棚から二つの小壺を取り出した。
「ならば、下地に『雌黄』と『鉛白』を
強く練り込みましょう。
熱を逃がさぬ密閉された部屋で
これを用いれば、
微量なヒ素と鉛が空気を満たします。
標的が酒を嗜み、
その部屋で夜を過ごす男なら
……三ヶ月と持ちません」
「うむ。仕込みの調合はお前に任せる。
お蓮の状況は?」
「すでに三日前、先発として
出羽に入っております。
海国屋の屋敷の間取り、警護の配置、
さらに徳兵衛の『好み』についての
調べを終えているはずです」
その時、パタパタと足音が響き、
離れの襖が開いた。
「師匠! お戻りでしたか!」
入ってきたのは、
弱冠十八歳の小太郎だった。
信斎が数年前に拾い上げた若き弟子で、
素直な性格と、
一度見た景色を寸分違わず描き出す
ズバ抜けた画才を持っている。
彼だけは、
信斎たちの「裏の顔」を一切知らない。
「小太郎か。騒々しいぞ」
「すみません! でも、
聞き捨てならない噂を聞いたんです!
師匠、次は東北へ
出張なさるって本当ですか!?」
小太郎の目を輝かせた問いに、
信斎は穏やかな「師匠の顔」に戻り、
小さく微笑んだ。
「ああ。出羽の海国屋という大問屋から、
新築する離れの障壁画を頼まれてな。
狩野派の名を東北に響かせる仕事だ。
小太郎、お前も連れて行く」
「本当ですか! ありがとうございます!
狩野派の最高峰の技、
現地でしっかり学びます!」
嬉しそうに頭を下げて
去っていく小太郎の背中を見送りながら、
源次がぽつりと呟いた。
「……あいつを連れて行っても、
大丈夫なのですか? 目ざとい奴です。
絵具の変調に気づかれかねません」
「小太郎の絵筆は本物だ。
海国屋のような
目が肥えた豪商を納得させるには、
あの者の
純粋な色彩感覚と構図が必要になる。
……それに、小太郎が
真剣に絵を描いている姿こそが、
我らの最大の『目晦まし』となる」
信斎は懐から筆を取り出し、
静かに硯で墨をすり始めた。
「準備を整えよ。
明日、出羽へ向けて発つ」
江戸を離れ、日本海側を北上する旅路。
それは、
絵筆という名の無音の刃を携えた、
隠密画師一行の暗殺の旅の始まりであった。
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