プロローグ 「闇を描く筆」
その部屋には、
甘い秋草の香りに混じって、
わずかに獣の脂のような匂いが
漂っていた。
日本画の顔料を固めるために用いる、
膠の匂いである。
「……見事だ。
実に、見事な出来栄えではないか」
豪奢な小袖を纏った太った男――
出羽国・黒髪藩の財政を握る大問屋、
海国屋徳兵衛は、
うっとりとため息をついた。
目の前には、
新築したばかりの離れの壁一面を飾る、
燦然たる金碧障壁画。
金箔が敷き詰められた背景に、
今にも飛び立たんばかりの雄渾な鷹が
描かれている。
「お気に召しましたなら、
絵師冥利に尽きるというものに
ございます」
静かに頭を下げたのは、
幕府お抱えの狩野派の一人の忍、
狩野信斎であった。
五十を前にしたその佇まいは気品に満ち、
どこからどう見ても、
江戸城の奥御殿に出入りを許された
最高峰の芸術家そのものである。
「いやあ、さすがは
将軍家に仕えるお江戸の大家。
この徳兵衛、冥土の土産に
良いものを見せてもらった」
「……冥土、でございますか」
「ははは! 言葉の綾というやつよ。
わしはまだまだ死ぬ気はないでの」
徳兵衛は下品な笑い声を上げ、
分厚い手で信斎の肩を叩いた。
この男にとって、
藩主すら借金の担保に巻き込み、
城下を金の力で支配することなど
造作もないことだった。
幕府の役人すら金で抱き込み、
密貿易で肥やした腹を揺らす。
彼にとってこの襖絵は、
己の権力を象徴する
誇らしきコレクションに過ぎない。
「信斎殿、今夜はこの部屋で、
自慢の絵を眺めながら
酒を飲もうと思う。
宴の準備をさせる」
「ハッ。
どうぞ、心ゆくまでご堪能くだされ。
……この部屋は密閉性が高く、
風が通りませぬ。
絵具がじっくりと、馴染むことでしょう」
信斎は恭しく一礼し、
弟子たちを引き連れて部屋を辞した。
敷地の外へ出ると、
夜の冷たい風が頬を撫でた。
手下として同行していた弟子の源次が、
信斎の横顔を盗み見る。
「……師匠。下地の雌黄(ヒ素)と鉛白、
仕上げの辰砂(水銀)。
配合は完璧です。
火鉢に炭を焚き、
酒を飲んで呼吸が荒くなれば、
あの狭い密閉空間で気化した毒を、
嫌でも吸い込み続けることになる」
「うむ」
信斎の表情には、
昼間の穏やかな画人の面影は
微塵もなかった。
その瞳は、凍てついた刃のように冷たい。
「一週間で手足が痺れ、
一ヶ月で激しい腹痛に悶え、
三ヶ月後には
『風邪をこじらせた衰弱死』として
終わる。
奉行所の検死が入ろうと、
遺体に傷一つなく、
毒殺を疑う者は一人もおらん」
信斎は懐から、小さく折りたたまれた
幕府老中の密書を取り出した。
そこには、将軍家の血を引く
親藩・譜代を裏から侵食し、
幕府の統制を揺るがす
「三人の悪徳豪商」の名が連なっていた。
刀で斬れば、お家騒動となり藩は改易、
幕府の威信は地に落ちる。
だからこそ、絵筆が必要なのだ。
アトリエに堂々と保管された有毒の鉱物。
それを極上の芸術へと変え、
標的の自慢の屋敷に据え置く。
ターゲット自身が、
その美しさに酔いしれながら、
自ら毒を吸い込んで死んでいく――。
「さあ、発つぞ。次は越後の雪の中だ」
信斎は密書を指先で捻り潰すと、
闇の中に静かに消えた。
その背後、海国屋の屋敷からは、
己の破滅の部屋で高らかに笑う、
愚かな豪商の歌声が響いていた。
絵師のシゴトに刃は要らぬ。
狩野派の隠密画師――
その poison(毒)の描く舞台が、
今、幕を開ける。
この後 11:10 に投稿します。




