第13話【 消えた用心棒 】
鬼頭厳十郎と二人の刺客が
忽然と姿を消したという報せは、
海国屋の屋敷全体に
凄まじい疑心暗鬼と動揺をもたらしていた。
「鬼頭の奴め……! わしを置いて、
裏帳簿と密貿易の分け前を持って
逃げおったかッ! 恩知らずの野良犬めが!」
母屋の奥で、
激しい腹痛に顔を歪めた海国屋徳兵衛が、
枕を何度も叩いて怒号を上げていた。
手足の痺れは日増しに酷くなり、
皮膚には謎の湿疹が広がっている。
医師たちから
「深刻な内臓の病」と告げられた
徳兵衛は、
死への恐怖と、最も頼りにしていた
用心棒の裏切りによって、
精神の均衡を崩し始めていた。
だが、屋敷の用心棒や番頭たちの中で、
鬼頭の失踪を
「逃亡」と素直に信じ込めない者もいた。
「おい……本当にか?
あの鬼頭様が、いくら金のためとはいえ、
何の予告もなく逃げるか?」
「だが見ろ、鬼頭様の部屋にあった
大事な刀のサヤと、
海国屋の裏金の一部が消えているんだぞ。
それに、
あの男はもともと落ちぶれた侍だ。
いつ藩を裏切っても
おかしくなかったのさ」
用心棒たちの間で交わされる囁き合い。
それこそが、お蓮の施した完璧な
偽装工作の成果であった。
お蓮は深夜のうちに
鬼頭の自室へ忍び込み、
他国へ高飛びしたように見せかける
偽りの手紙と、使いかけの路用金を
部屋の隅に残しておいたのだ。
鬼頭の遺体は、すでに
北前船の船乗りすら近づかぬ
隠し港の深海へと沈められ、
永遠に浮かび上がることはない。
午後。
離れ客殿には、静寂が戻っていた。
用心棒の見張りが激減した室内で、
小太郎は最後の仕上げとなる
「金箔の定着作業」に没頭していた。
馬の毛で作られた柔らかい刷毛を使い、
金箔の上を優しく撫でていく。
そのたびに、壁面は太陽の光を受けて
眩いばかりの黄金色の輝きを放った。
「……師匠。鬼頭さんたち、
本当に逃げてしまったのでしょうか?」
小太郎が作業の手を止め、
ぽつりと呟いた。
「あんなに威張り散らしていたのに、
旦那様が病気になった途端に
いなくなるなんて……
なんだか、悲しいですね」
純粋な目を向けてくる弟子に対し、
信斎は穏やかに微笑んで見せた。
「世の中には、
金の切れ目が縁の切れ目
という言葉がある。あの男たちもまた、
金という不確かなものに縛られた
哀しい者たちだったのだろう」
「はい……。でも、私はよかったです。
あの人たちがいなくなって、静かに絵を完成させることができますから」
小太郎は満足そうに頷き、再び障壁画へと向き直った。
その横で、源次が信斎に視線を送った。
(……見事な手際ですな、師匠)
源次の目雄弁に語っていた。
鬼頭という最大の障壁を「失踪」という形で処理したことで、検死や奉行所の捜査が信斎たちに向けられる危険は完全に排除された。海国屋側は「鬼頭の裏切り」と「当主の突然の重病」に追われ、絵師たちの手元を疑う余裕など微塵も残されていない。
「小太郎」
信斎が呼びかけた。
「は、はい!」
「よくぞここまで描き切った。松の枝の陰影、鷹の爪の切れ味……まさに狩野派の大家に恥じぬ名画だ。今夜、最後の『火入れ』を行い、絵具を壁面に完全に固着させる」
「火入れ……ですか?」
「うむ。寒さで絵具が冷え固まるのを防ぐため、部屋を締め切り、火鉢の熱でじっくりと乾かすのだ。明日には、徳兵衛様に完成した姿をお見せできるだろう」
「はい! 旦那様、きっと喜んでくださいますね!」
小太郎の弾んだ声が、静かな離れに響いた。
何も知らぬ少年の歓喜。
だが、信斎が口にした「最後の火入れ」とは、完成した障壁画の下地に眠る猛毒――辰砂(水銀)と雌黄(ヒ素)を、熱によって一気に気化・散布させるための、完璧なる死の点火装置であった。
標的・海国屋徳兵衛の命を刈り取る準備は、すべて整った。
明日 20:10 に投稿します。




