第14話【 最後の金箔 】
障壁画の制作は、
いよいよ最終工程を迎えていた。
離れの客殿全体を埋め尽くす巨幅の壁面。
そこに描かれたのは、
荒波の寄せる断崖に根を張り、
天を衝くように枝を伸ばす巨松と、
その頂に翼を休める一羽の蒼鷹であった。
「師匠……! ついに、ここまで来ました!」
小太郎の手は、微かに震えていた。
弱冠十八歳の少年が描いたとは思えぬ
重厚な筆致。
巨松の皮の割れ目、蒼鷹の風切羽の
一本一本にまで命が宿り、まるで
部屋そのものが巨大な野生の息吹に
包まれているかのようであった。
「……見事だ、小太郎」
信斎は心から言葉を贈った。
その称賛に偽りはない。
小太郎の純粋な芸術への情熱が、
この絵を単なる暗殺の道具から、
見る者を圧倒する至高の芸術へと
昇華させていたのだ。
「だが、最後の『仕上げ』はわしが行う。
金箔の留め塗りと、仕上げの刷毛払いだ。
小太郎、
源次とともに用具を洗い、休むがいい」
「はい! ありがとうございます、師匠!」
達成感に顔を輝かせた小太郎は、
源次に促されて
離れの奥へと下がっていった。
部屋に一人残された信斎は、
静かに畳の上に座した。
目の前には、
未だ金箔の押し残しがある壁面の数箇所
――蒼鷹の胸元と、
巨松の幹の影になる部分。
そここそが、
この毒画の「心臓部」であった。
信斎は懐から、
竹の筒に取り分けられた特製の金箔と、
漆黒の漆の小鉢を取り出した。
「……いくぞ」
信斎は細筆に漆を含ませ、
金箔の裏側に僅かな「隙間」を
意図的に残しながら、
壁面へと貼り付けていく。
下地に大量に塗り込められた
「雌黄(ヒ素)」と「鉛白(鉛)」、
そして「辰砂(水銀)」。
信斎が施す
この特殊な金箔の押し技法により、
目に見えぬ微小な通気孔(目穴)が
無数に形成される。
部屋の温度が上がり、空気が流れるたび、
下地の有毒鉱物が微粒子となり、
あるいは気化して、
この金箔の隙間から部屋全体へ向けて
絶え間なく散布される構造だ。
さらに、信斎は最後の仕上げとして、
蒼鷹の「瞳」に
一滴の特製顔料を落とした。
一見すると
漆黒の瞳に濡れたような光沢を与える
「膠漆」に見えるが、
それには高濃度の辰砂が
限界まで練り込まれている。
室内で火鉢が焚かれ、
熱気がこの「瞳」に達した時、
最も強い水銀蒸気が発生し、
絵を正面から鑑賞する者の目と鼻孔を
直撃する仕組みであった。
――サッ……サッ……。
刷毛で余分な金粉を払い落とすと、
金碧障壁画は夕陽の光を受けて、
妖しく、眩いばかりの輝きを放ち始めた。
完璧なる美。
そして、完璧なる死の罠。
「……出来上がりましたか」
背後から、滑らかな足音が響いた。
着替えを済ませ、
影のように現れたのは源次とお蓮であった。
「仕掛けに狂いはないな、源次」
「はい。部屋の欄間は塞がれ、
障子は二重。火鉢を二基持ち込めば、
一時間で室内の空気は
毒の粉塵と水銀蒸気で満たされます。
衰弱しきった徳兵衛の体なら……
一夜で致命傷に達します」
「お蓮、外の段取りは」
「奉行所の密偵(公儀の手先)へ、
海国屋の密貿易の隠し港の位置と、
裏帳簿の控えを匿名で届け出ました。
徳兵衛が倒れ次第、
奉行所が家宅捜索に踏み込む手はずと
なっております」
「……良し」
信斎は静かに立ち上がり、
完成した名画を見上げた。
この絵画が放つ
圧倒的な黄金の輝きに魅せられ、
豪商・海国屋徳兵衛は
自らこの部屋に籠もり、酒をあおぎ、
火鉢を焚き、
自らの死のスイッチを入れるだろう。
刀で斬るのではない。
毒を盛るのでもない。
標的自身が、己の強欲と虚栄心によって、
死の罠を吸い込み続けて倒れるのだ。
「明日、徳兵衛に完成を告げる。
……宴の準備をさせよ」
信斎の冷ややかな声が、
夕闇の迫る離れ客殿に静かに響き渡った。
明日 20:10 に投稿します。




