第12話【 毒花の咲く刻 】
庭の闇は、底知れぬ沈黙に満ちていた。
一月前の満月が嘘のように、黒雲が上空を覆い尽くしている。風が樹々を揺らし、濡れた葉が擦れ合う音がざわざわと響いていた。
庭園の小径、大きな灯籠の陰から、ぬっと巨躯が現れた。
元・黒髪藩筆頭剣術指南役、鬼頭厳十郎である。その手には、青白い光を放つ長刀が握られていた。
「刺客どもはしくじったか……。やはり、ただの絵師ではないな、狩野信斎」
鬼頭の声は、地底から響くように低かった。
信斎は手に墨鉢と太い画筆を持ったまま、数歩先で静かに立ち止まった。一切の構えをとらず、まるでアトリエで下絵を前に佇んでいるかのような自然体である。
「鬼頭殿。剣客の命たる刀を、そのような薄暗い庭で振り回すのは感心しませんな」
「黙れッ!」
鬼頭の一喝が風を割った。
「徳兵衛様はお前たちの絵を見始めてから、日毎に弱っておられる! 今夜も激しい吐血と手足の痺れで絶叫しておられるのだ! 証拠など要らん……お前たちを殺せば、あの怪異のような病も消える!」
「証拠がないゆえに刃を振るう……。それは剣術指南役の道ではなく、ただの野良犬の脅迫に過ぎん」
信斎の冷徹な一言が、鬼頭のプライドを完璧に打ち砕いた。
「ぬううっ! 死ねいッ!」
鬼頭が踏み込んだ。
長年鍛え上げられた「神道無念流」の必殺の唐竹割り。一瞬で頭骨を砕く重厚な刃が、信斎の頭上から一閃された!
――ドスッ!
鋭い風切り音が響いたが、刃が捉えたのは信斎の肉体ではなかった。
信斎は切っ先が走る直前、身をかすかに半身に開くと同時に、左手に持っていた「漆黒の墨汁」を鬼頭の顔面へ向けて激しく撒き散らしていた!
「ぬぐっ!?」
粘度の高い濃墨が、鬼頭の目と鼻孔を容赦なく塞ぐ。
ただの墨ではない。源次が練り上げた「極細の岩粉(顔料)と膠」が強く練り込まれた、目つぶしの墨汁である。水で洗わねば眼球に張り付き、激痛と盲目を引き起こす。
「貴様ァッ! 姑息な手品を――!」
鬼頭は狂乱し、視界を奪われたまま横一文字に刀を振り回した。
だが、信斎はその刃の軌道の「死角」へと、滑るような足さばきで潜り込んでいた。
信斎の右手に握られた、太い画筆。
その穂先の内部には、絵の具を塗るための毛ではなく、研ぎ澄まされた一本の「極細の鋼針」が仕込まれていた。
――チスッ。
信斎の手首がしなやかに返り、画筆の先が鬼頭の首筋――頸脈の集中する浅い節へと、一寸の狂いもなく突き刺さった。
「ガっ……!?」
鬼頭の動きがピタリと止まった。
鋼針の先には、源次が抽出した「猛毒の烏頭とヒ素の濃縮液」が塗られていた。
「画師の筆は、刃よりも正確に脈を捉える」
信斎は耳元で低く囁くと、静かに針を引き抜いた。
鬼頭の手から、重厚な長刀が崩れ落ちた。
視界を奪われ、首筋から一瞬で心臓へと回った猛毒により、鬼頭の全身の筋肉が激しく痙攣し始める。元・剣術指南役の巨体が、畳みかけるような激痛に悶え、地面に膝をついた。
「徳兵衛のもとへ行くがいい、鬼頭殿。……奴もまもなく、お前と同じ地獄へ追いつく」
鬼頭は何かを言おうと口を大きく開けたが、声にはならず、そのまま血を吐いて庭の泥の上に突伏した。
翌朝。
海国屋の屋敷は、二つの重大な事態によって大混乱に陥っていた。
一つは、用心棒の頭領である鬼頭厳十郎が「手下の刺客二人とともに突然失踪した」こと。
お蓮の手によって、鬼頭の遺体は密貿易の隠し港の海へと沈められ、現場には「裏帳簿を持って他国へ逃亡した」かのような偽装の文が残されていた。
そして、もう一つは――当主・海国屋徳兵衛の狂乱と病状の悪化であった。
「うああああっ! 痛い! 腹が、胃の腑が引きちぎられるうっ!」
離れではなく母屋の奥で、徳兵衛が布団をかぶり、激しい腹痛と手足の激痛に悶絶していた。
その顔は土気色を通り越し、漆黒のような隈が目を覆い、爪は鉛色に変色している。ヒ素と鉛、そして水銀の中毒が同時に末期に達した症状であった。
「旦那様! しっかりしてください! 医師様、気付け薬を!」
駆けつけた町医者たちは、手首の脈を測るなり顔を青くして首を振った。
「……アカン、これは重症の酒毒(アルコール中毒)と、内臓の突然の腐死(不全)じゃ……! 傷一つない、お体の内側からの大病……手遅れでおざんす!」
「そんなバカな! 徳兵衛様は昨日まであんなにお元気だったのだぞ!?」
混乱する番頭や女中たちの声を、信斎は離れの縁側で静かに聞いていた。
徳兵衛の中毒は、すでに死の不可逆点(戻れぬ線)を超えている。奉行所が踏み込もうと、どれほど名医を集めようと、体内の臓器は重金属の毒によってボロボロに破壊されており、傷一つない「病死」として数日内に絶命する。
「……師匠」
道具を片付けていた源次が、信斎の横顔を見上げた。
「鬼頭の始末も完了し、徳兵衛ももはや命の灯火は消えかけています。……絵の完成と同時に、我らの任務は終わりますね」
「うむ。だが……徳兵衛という男は、死の間際まで己の欲望を捨てきれん男だ」
信斎の視線の先――離れの主室には、ついに最後の金箔が貼り終わった、眩いばかりの障壁画が完成していた。
松の巨木から、今にも飛び立たんとする黄金の蒼鷹。
完璧なる芸術として結実したその障壁画は、死を目前にした徳兵衛を、最後の「狂乱の宴」へと誘う罠として、美しく咲き誇っていた。




