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『緋色の傭兵団の物語』「西方動乱編」  作者: 嵗(sai)
第十六部:斜陽の王都とピレルの嵐

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第7章:魔術の証明とシンの決断

ダンクの街から命辛々脱出し、漆の案内で『蛇の眼』と西方方面軍の包囲網を完全に引き離してから、実に四時間が経過していた。


夜空の端が徐々に白み始め、夜明けの冷たい光が周囲を照らし出す。シンは何度も後方を警戒したが、追手の気配は完全に途絶えていた。流石に四時間もの間、完全武装で全力疾走を続けたクリシュ・アランの戦士たちにも明らかな疲労の色が見え始めていたため、シンは小さな林の影で小休止を宣言した。


乾いた喉に冷たい水を流し込んでいたシンの元へ、足音を殺してハンスとガーブが近づいてきた。


「シン……さっきの()()、一体何なんだ?」


ガーブが、普段の野性を潜めた、どこか怯えすら含んだ声音で問いかけてきた。こっちが聞きたいくらいだ、とシンは心中で毒づきながら、無言で首を横に振るしかなかった。


ガーブはその反応を見て、ゴクリと喉を鳴らした。


「……でもよ、もし“あれ”を俺たちが自由に使えるなら、オルレアンの軍勢だろうが何だろうが、一瞬で叩き潰せるんじゃねえか?」


ハンスはそのガーブの言葉に、いつになく深刻な、暗い表情を浮かべてシンの目を見つめた。


ハンスの懸念は当然だった。あんな理不尽な破壊の力を、二人は生まれて初めて目撃したのだ。もし、あのような「個人の力」が実戦で量産され、普及すれば、これまでの戦術論、城塞の防衛概念、ひいては大国の勢力図そのものが根底から覆る。


一瞬にして暴風を起こし、何もない空間から巨大な焔を生み出し、広範囲の敵を焼き尽くす。油を事前に撒く必要も、天候や風向きを気にする必要もない。それは、これまでの人族が培ってきた「火攻め」という泥臭い戦術とは、完全に一線を画する「神の領域」の業だった。


漆はあの時、確かに叫んでいた。“第二位階魔術式”『焔嵐』、と。


その言葉の構造からして、あれには明確な体系が存在するということだ。第二位階があるならば、当然第一位階が、そしてその先には第三、第四の位階が存在するのだろう。そして、系統や術名によって異なる現象を引き起こせるのだ。


(あの力を操る漆……そして『Z』という組織の正体は、一体何者なんだ?)


シンは、集団から少し離れた巨木の根元に一人で腰掛け、ナイフを弄んでいる漆へと視線を向けた。百戦錬磨のクリシュ・アランの戦士たちですら、漆への恐怖からか、明確に距離を置いて彼女を遠巻きに見つめている。


避けては通れない対話だった。シンは意を決して立ち上がると、漆の元へと歩みを進めた。ハンスとガーブが、護衛を自任するようにその背後にピタリと従う。


近づく三人の足音を察したのだろう、漆が顔を上げ、いつもの締まりのない笑みを浮かべた。


「シンさん。とりあえず、包囲網は完全に脱出できましたねぇ〜」


「……ああ、それについては感謝する。お前がいなければ、俺たちは今頃あの平原で全滅していた。だがな、漆。聞かねばならないことがある」


シンの声音には、一切の妥協がなかった。漆は頬をポリポリとかきながら、わざとらしくため息をついた。


「シンさん、顔が般若みたいで怖いですよぉ〜」


「真面目に答えてくれ。……()()は、一体何なんだ? お前が放った、あの『魔術式』とは何だ。お前たち『Z』の人間は、全員があの恐るべき力を操れるのか? そして、あんな怪物じみた力を隠し持って、この大陸で何を企んでいる?」


漆は弄んでいたナイフを鞘に収めると、ふっと笑みを消し、静かに語り始めた。その声音には、先ほどまでのふざけた調子は一切なかった。


「あー……あれはですね。本来、この西方大陸では『絶対に使ってはならないもの』なんですよ」


漆の口から語られた事実は、シンの想像を遥かに超える、異世界の歴史そのものだった。


「私たちが遥か遠くの『オース大陸』からやってきたことは、すでにシルカから聞いていると思います。あの大陸は、あなた方の常識を超える凶暴な『魔生物』が跋扈し、世界を満たすエネルギー――『魔那マナ』が異常な濃度で飽和している土地です。魔生物たちは生まれながらにして頑強な肉体を持ち、さらに自然界の魔那を直接操って不可思議な現象を起こす『魔法』という力を放ちます。そこへ、かつて人族が入植を試みたのですが……彼らの魔法の前に手も足も出ず、文字通り家畜のように食い散らされる暗黒の時代が続きました」


漆は一度言葉を切り、シンの目を真っ直ぐに見つめた。


「ですが、ある時、インデネンシー地方から入植した、生来高い魔那適応力を持つ『魔族』の末裔たちが、魔生物の魔法に対抗するための独自の理論と技術を編み出しました。それこそが、大気や土地、水源に含まれる魔那を一定の法則の元に強制連動させ、人為的に事象を引き起こす技術――『魔術』です。魔生物は本能で魔法を使いますが、人族にはそれができない。だからこそ、力を強制行使するための緻密な数式、陣の設計図を編み出したのです。魔族の血を引く者たちはこの魔術を武器に、魔生物を駆逐し、オース大陸に人族の確固たる安住の地(国家)を築き上げました」


「だが、その後も入植してきた多くの純粋な人族には、魔族の血が流れていない。彼らには魔術を使う才能がありませんでした。そこで、彼らでも魔術を行使できるようにと、さらなる技術革新が起きました。大気中の魔那を特殊な鉱石の中に高密度で封じ込め、必要な時に術式を起動してそのエネルギーを解放する仕組み……すなわち、魔術陣の巻物を『弓』とし、魔那を蓄えた魔那石という『媒体(矢)』を使って術を発動する方法です。私が先ほど使ったのも、その『媒体式魔術』に過ぎません」


シンは、腕を組んだまま漆の言葉を頭の中で噛み砕いた。


「魔術陣が弓で、魔那石が矢、か……。つまり、設計図とあの“石”さえあれば、誰でも、いつでもあの嵐を起こせるという意味か?」


漆は両手で大きなバツ印を作り、激しく首を横に振った。


「使えません! 使えません、絶対に無理です! なぜなら、この西方大陸では、世界を構成する根本たる『魔那』がほぼ完全に枯渇し、眠っているからです」


「……どういうことだ?」


「オース大陸であれば、使った媒体(魔那石)の中身は、大気中の高い濃度の魔那を自然吸収させることで、何度でも自動的にチャージできます。ですが、この摩那が死んでいる西方大陸では、一度魔那石に蓄えられた魔那を使い果たせば、二度と再補充はできません。それどころか、オース大陸から持ち込んだ満タンの媒体であっても、この西方の環境に置いておくだけで、中身の魔那が周囲の虚無へ向かって自然に散逸していってしまうのです。保ってせいぜい半年。半年が過ぎれば、どんな強力な魔鉱石も、ただの綺麗な石ころに成り下がります。つまり、西方での魔術行使は、極めて費用対効果の悪い、使い捨ての贅沢品でしかないのですよ」


シンは漆の腰の皮袋に視線を落とした。


「お前が言っていた『位階』と『系統』。他にも種類があるんだな?」


漆は少し困ったように眉をひそめ、「あー……これ、組織のトップシークレットなんですけどねぇ」と呟きながらも、シンの真剣な眼差しに気圧されて白旗を上げた。


「しかたないですね、シンさんには特別です。魔術式は、その破壊力と消費する魔那の量に応じて、第一位階から、神業とされる第六位階までの六段階に分類されています。系統は、自然界を構成する『火・水・土・風』の四大系統。……あ、それと、これ重要なんですけど。現在オース大陸において、魔族以外の種族がこの魔術式を無断で行使することは、全国家共通の軍法によって『絶対厳禁』とされています」


シンは一歩踏み出し、漆の顔を覗き込んだ。


「……それはつまり、漆。お前自身が、その『魔族』の純血種である、という意味か?」


漆は悪戯っぽく笑い、ただ一言、短く答えた。


「――はい」


「最後の質問だ。『Z』の構成員は、全員がお前のような魔族なのか? そして、お前たちの真の目的は何だ。なぜ西方を見張っている?」


漆の目から、完全に一切の軽薄さが消え失せた。


「この西方大陸に派遣されている『Z』のメンバーの中で、実戦レベルの魔術を行使できる正真正銘の魔族は、私一人だけです。他の構成員は、遠い祖先に魔族の血が混じっているだけの、魔術の使えない魔族系人族に過ぎません。そして、私たちの目的ですが……それは、この西方大陸の勢力が、再び遠いオース大陸へと侵略の手を伸ばすのを、水際で阻止することです」


「……オースへの侵略? この西方諸国は、今や自国同士の領土争いで手一杯だぞ。海の果ての大陸へ兵を出す余裕のある国など、どこにもない」


「今はない、というだけでしょう? 過去に一度、この西方大陸を追われた『人族至上主義』を掲げる狂信的な大集団が、大挙してオース大陸へ攻め込んできた歴史があるのです。彼らは自らを『人智十字会じんちじゅうじかい』と名乗っていました」


「人智十字会だって……? それは数百年前の暗黒期に実在したが、その後完全に歴史から姿を消した宗教過激派の組織だ。とっくに滅びているはずだぞ」


「表の歴史ではそうでしょうね。ですが、彼らの残党や、その思想を受け継いだ新たな怪物が、この大陸の闇で再び力を蓄え、オースの豊かな土地と魔那の利権を狙って動き出さないとも限りません。……だからこそ、私たち『Z』は、この西方のパワーバランスを常に監視しているのです。まあ、お互いに友好的な不可侵のままでいられるなら、それが一番いいんですけどね。ムンドゥス世界は……私たちが思っている以上に、狭くなっていますから」


漆の壮大な話をすべて聞き終えたシンは、深くため息をつき、頭上の夜明けの空を見上げた。


「……そうか。大体の事情は理解した。……漆、お前を信じる。お前のその『魔術式』とやらは、これからも俺たちの前で使う機会はあるか?」


「使わない、とは断言できませんね。もしあなた方の行動が、将来的にオース大陸の脅威になると判断すれば、その時は……。

ですが、今回は本当に例外中の例外です。私の個人的な判断で、借りを返すために媒体を一つ使い潰しただけですから。今後、頼まれても二度と使わないと思ってください」


気づけば、少し離れた場所にいたクリシュ・アランの連中らが、息を詰めてシンと漆の対話に耳を傾けていた。


シンは振り返り、団員たち全員の顔を鋭く見据えた。


「全員、聞いたな。今夜起きたこと、そして漆から聞いた話はすべて、今この瞬間をもって綺麗さっぱり忘れろ。脳みそから消去しろ。もしどこかの酒場にでも行って、面白おかしく口外してみろ。……そこにいる怖いお姉さんが、夜中に眠っているお前たちの枕元に現れて、その首を綺麗に刈り取ることになるぞ?」


シンの脅し混じりの冗談に、周囲の団員たちから「ひぇぇ……」「絶対喋りません!」とドッと笑いが巻き起こり、張り詰めていた重苦しい空気が一気に霧散した。


「よし、この話はここまでだ。……支援隊の連中に追いつくぞ。出発だ!」


全軍が再び荷物をまとめ、移動を開始する。周囲の警戒をハンスに預けながら、並走する彼がシンに問いかけた。


「シン。合流したあと、俺たちはどこへ向かう?」


シンは迷うことなく、西の果てにそびえ立つ巨大な影を見つめた。


「――ピレル山脈を超える」


「えっ!? ヒスパニア王国に行くのか!?」


後ろから、驚愕したガーブが割り込んできた。


「ああ。俺は、あのオルレアン伯爵という怪物を、あまりにも甘く見すぎていた。現在のフランク王国の盤面において、俺たち緋色の傭兵団が活動できる余地は、どこにも残されていない。ダンクに着いた当日の襲撃がその証拠だ。奴の監視網はフランク全土を覆っており、一介の伯爵でありながら国軍の方面軍をチェスの駒のように動かす権力を有している。……今の俺たちの地力なら、おそらく五倍以上の正規軍が相手であっても、局地戦なら互角以上に戦えるだろう。だがそれは、戦場のすべてをこちらが掌握し、支配できているという前提条件があっての話だ」


シンは苦渋を滲ませ、言葉を続けた。


「残念ながら、現在のフランクという巨大な盤面を支配しているのは、完全にオルレアン伯爵だ。このままフランク国内にとどまって戦い続ければ、全滅は免れたとしても、俺たちの誇る戦闘部隊は戦うたびに磨り減り、いずれ壊滅する。俺の戦略の絶対原則は『全員で生き残る』ことだ。あのグラス・ガレスの戦いのような、仲間の命を天秤にかけるような勝利は、二度と御免だ」


ガーブが何か反論しようと口を開きかけたが、シンはそれを手で制した。


「分かっている。どんな戦場でも無傷で勝ち続けようなんて、傲慢で甘い考えだということは百も承知だ」


シンの横を走るアインツが、厳しい視線でシンを睨みつける。


「だが、現在のフランクでは、戦い続けた先に『勝ちの目(戦略的勝利)』が一切見えないんだ。ここで迫り来る西方方面軍の先遣隊を叩き潰すことは、戦術的には可能だろう。だが、オルレアン伯が動かせる兵力はこれだけじゃない。フランクには東西南北の四方面軍と中央軍、そして近衛軍の六軍、総勢三万六千が存在する。一つの軍を退けても、すぐに次の軍が、より大きな物量となって押し寄せてくる。それを繰り返されれば、俺たちは確実にじり貧になるんだ」


「敵の正規軍は、どれだけ死んでも王都の家畜どもや平民からいくらでも『替え』が効く。だが、今の俺たち緋色の傭兵団には、死んでいい代わりの駒など、ただの一人も存在しない。……だから、ここは徹底的に引く。一度盤面の外へ出て、大局を見直す。ハンス、ガーブ。一刻も早くオットーさんたち支援隊と合流し、ピレル山脈の険を越えてヒスパニアへ逃れるぞ」


シンの理路整然とした冷徹な分析に、ガーブもハンスも、そして反発しかけていたアインツも、それ以上は何も言わずに納得し、口を閉ざしてただ前を向いて走り続けた。


その時、横を並走していた漆が、ふっと足を止めて声をかけてきた。


「シンさん。私の役目はここまでですね。金貨三枚分の借り、これにて完全返済ということで」


シンも足を止め、彼女の不思議な瞳を見つめ返した。


「ああ。命を救われた。心から感謝する、漆」


「ではでは、ごきげんよう〜。生き残ってくださいねぇ〜」


漆はそう言い残すと、驚くべき速さで闇の先へと溶け込むように消え去っていった。その後ろ姿を一度だけ見届け、シンは鋭く叫んだ。


「急げ! ピレル越えの準備を急ぐぞ!」



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