第7章:泥濘の断罪――緋色の凶刃と、野望の終焉
「この程度で俺たちを止められると思うなよ」
俺の言葉は、冷たい泥の吐息に吸い込まれた。目の前に立ちはだかる近衛の騎士が、歪んだ殺意を刃に乗せて突き出してくる。左の刀でその鋭利な軌道を弾き飛ばし、硬い金属音と火花が散る刹那、右手に握った冷徹な刃が弧を描く。騎士の首を正確に薙ぎ払い、鮮血が泥を赤く染め上げた。
戦いが始まった。50余名の俺たちに対し、待ち受けるは200を超える精鋭。四倍の戦力差。しかし、俺たちの辞書に「敗北」の文字は存在しない。
「はっ!四倍だからといって舐めるなよ?俺たちはクリシュ・アランだぜぇえ!」
コナルが吠える。その豪快な一撃が、騎士の盾を木っ端微塵に砕き、重厚な鎧ごと肉を切り裂く。
「コナル、うるさいぞ」
カハルの大刀が唸りを上げ、空気を引き裂く。フィンガーンの刀技は幽玄のごとく騎士たちの死角を踊り、ローガンの繰り出す小刀は、まるで光の蛇のように敵の鎧の隙間を縫って喉元へ突き刺さる。
「な、なんだこいつら!傭兵風情が!」
近衛の一人が驚愕の声を上げたのも束の間、フィニアンがその横を雷光のように駆け抜け、男の頸動脈を切り裂いた。
クリシュ・アランの猛者たちは、一人で二、三人を相手取りながらも、微塵の怯えも見せず戦場を蹂躙していた。その中でも、三人の老兵の技は別格だった。経験と殺戮の記憶が研ぎ澄まされたその動きは、もはや武芸を超え、芸術の域にあった。その後継である若き三人もまた、老兵の背を追い、死地においてその才能を爆発させていた。『蛇の眼』の刺客たちも、隠密の技を捨てて真正面から死闘を繰り広げ、俺たちの突撃を支えていた。
俺はただ、その修羅の渦中を静かに歩いていた。
視線の先には、冷静沈着な仮面を貼り付けたオルレアン伯爵。俺の存在など、彼にとって取るに足らぬ雑音に過ぎないかのように、彼は陣の深奥で動かなかった。十歩の距離まで近づき、左手に持つ刀を伯爵の心臓に向けて平然と構える。その両脇には、死の番犬と化したトリスタンとベアトリスが、鋼の如き鋭さで剣を構えていた。
「やっと会えたな、オルレアン。あんたの首に到達するのに、五年もかかったぜ」
俺の声は、戦場の阿鼻叫喚の中で不気味に響いた。
「五年?何を言っている」
「ああ。あんたが俺たち『憂国の傭兵団』を、帝国の戦いでただの捨て石にしたあの日からだ」
「憂国だと?知らんな。力及ばず、無能のまま果てた傭兵団など、歴史の一ページにすら値せぬ」
その無慈悲な一言が、俺の胸の中でくすぶっていた殺意の炎に油を注いだ。一歩、また一歩と泥を踏みしめ、距離を詰める。
「……忘れたとは言わせねぇ。お前はガーブ……緋色の傭兵団団長を、あの人智十字教会のクソ野郎に売り渡して殺させた」
「その仇、今日ここで撃たせてもらうぜ」
「貴様!」
トリスタンが獣のように踏み込んできた。その後を影のようにベアトリスが続く。トリスタンの渾身の打ち下ろしを左の刀で受け流し、その反動を殺さぬまま、ベアトリスの腹を狙った刺突を右の刀で弾く。空いた隙に、俺の刀が蛇のようにベアトリスの首筋を撫でた。
ぴゅう、と風が鳴り、あ、という短い呻きと共に、ベアトリスの首から鮮血が噴水のように舞い上がった。
「ベアトリス!」
視線を奪われたトリスタンの隙を見逃すはずがない。右の刀が鈍い音を立ててトリスタンの腹部に突き刺さる。
「ぐぅう……」
左の刀でトリスタンの剣を弾き飛ばし、そのまま頸椎を両断した。二つの死体が泥の中に崩れ落ちる。オルレアンは、倒れた二人の忠臣を、まるで枯れ木が倒れたかのように無感動に見下ろした。
「ほう。なかなか良い腕だ。おしいな」
「おしい?何がだ」
「仮に私を倒したとしても、貴様らはここからは逃げられんぞ?」
「逃げる?それは考えていなかったな。あんたを殺ればそれでいい。後のことなど、どうでもいいんだよ」
「……死兵か。やっかいな男だ」
「死兵?違うな。俺はただの、腹を空かせた傭兵だ」
刃境の距離。死と生が紙一重で重なる場所に、俺は立った。
「傭兵、では誰に雇われている?」
「あんたは名も知らねぇだろうよ。あんたが積み重ねてきた悪行で、泥水の中に消えていった者たちさ!」
俺は右の刀を切り上げた。オルレアンはそれを最小限の動きで受け流す。左の突きを躱され、返しの剣を横に回避する。一回転して、左の刀を横薙ぎに振るう。が、彼は幽鬼のように後ろへ跳ねて避けた。
「……てめぇ」
「驚いたか?私が剣を扱えるのが不思議か?」
「私はフランク王国南部、アルバレス山脈を越えて侵攻する帝国に対する防御の要、オルレアン家の当主だ。武を極めねば、我が一族はとっくに滅び去っていた。勝ち残ることこそが我が家の家訓。この戦も、その教えに従ったまでのことだ」
「家訓に従う?西方全体を戦乱の渦に巻き込むのが家訓と言うか!」
「腐敗した天輝黄金宮の貴族どもが、我らを排そうとした時から始まっていたことだ。私は我が家を守るために足掻いただけだ。少し……積極的になったに過ぎぬ」
「少しだと!各国を反目させ、ヒスパニアの当主を暗殺させ、ゲルマニアの傭兵を操ったのが、少しだと!」
オルレアンは、狂気じみた静寂の中で剣を構え直した。
「フランク王室に気概はない。周辺諸国にこの地が手に入れやすいと思わせぬため、各国に『楔』を打ったまでだ。効果は絶大だっただろう?」
言葉と共に、オルレアンが動いた。その鋭い突きは、これまで見てきた剣技とは異質だった。
『鎧剣術』。
組み打ち、投げ、関節技。重厚な鎧を纏った者同士が、急所を潰し合うための冷酷な格闘術。
ぎん!鉄と鉄が噛み合う不快な音が響く。流れるような踏み込み。脇を狙うオルレアンの左拳が空を切る。俺は横に跳び、さらに後ろへと下がる。
「なるほどな。鎧を前提としたカンプフェーヒテン……侮っていたわ」
俺は双刃を構え直し、奥歯を噛み締めた。
「だがな、傭兵にも傭兵の戦い方がある!」
突撃した。切り下し、突き、切り上げ。頭、脇腹、太もも、関節。全てをオルレアンは受け、流し、払う。
一呼吸、その僅かな停滞を狙い、オルレアンが反撃の嵐を叩き込んできた。
ぎん、がきっ、ぎゃりんっ。
十字受けで剣を止めたその刹那、俺は絡めた剣を捻り、地面に突き刺すことで彼の動きを封じた。短剣を抜き放ち、オルレアンの太ももに深々と突き立てる。
「!」
もう一本の短剣を、彼の左目に突き刺した。
「がっ!」
オルレアンは剣を手放し、血に濡れた左目を押さえて後退する。右腕で目に刺さった短剣を抜き取ろうとしたその腕を、俺の双刃が切り飛ばした。
地に伏すオルレアン。勝敗は決した。
「ここまでだ、オルレアン」
「……ここまで?ふふっ。そうか。西方の行く先を想像した。笑える」
「何がおかしい」
「私という統治者を失った後の、戦乱、混乱、分断……眼に見えるようだ。貴様には国を支配するなどできん。しょせん、根無し草の雑草だ」
「そうかもしれねぇ。だが、あんたがそれを見ることは、もうねぇ」
俺は右の刀を、彼の胸の中央に突き当てた。
「もう…、ねぇ……」
刃を押し込む。オルレアンの瞳が見開き、口から鮮血が溢れ出す。左の刃が宙を舞い、彼の首を胴体から切り離した。
どさっ、と鈍い音がして、首が泥の中に転がる。俺はしばらく、その虚ろな目をした首を見つめていた。
気が付けば、周囲の殺戮は終わっていた。
クリシュ・アランの面々が、傷だらけの体を引きずって俺の周りに集まってくる。
「被害は?」
「二十名近く。その中に……コナルも」
「……すまねぇ」
「違うぞ、シン。儂らは儂らの一族の者の、ガーブの仇を討ちに来ただけだ」
カハル・“テツザン”・マク・ネルが、力なく笑った。
「……ハンス。いるんだろう」
音もなく現れたハンスに、俺はオルレアンの首を差し出した。
「これをオットーさんに届けろ。そして、理を説いてくれ。戦いは終わった、と。ゲルマニアもフランク領から撤退するよう、アレクに伝えてくれ」
ハンスは黙って団旗に包まれた首を抱え、戦場の中へと走り去っていった。
「これで縁は切れた。皆、自由だ。ダン・ネスに戻ってくれ」
「……そうじゃの。儂らも、ゆるりと滅びるだけぞ。さらばじゃ、良き縁じゃった」
カハルたちが去っていく背中を、俺はただ見送った。
戦場の喧騒が遠ざかり、俺は一人、泥濘の中で立ち尽くしていた。勝利の充足感など、どこにもなかった。ただ、冷たい風が吹き抜けるだけだった。
シンは一人になった。




