第8章:愚者の葬列――戦場の残滓と、消えゆく影の輪郭
戦場の夜は、昼間の殺戮劇がもたらした熱狂の残骸を飲み込み、重苦しく、救いようのない「死の沈黙」に支配されていた。
降り積もった霧は、まるで無念のうちに散った数千の死者たちの吐息のように地を這い、マレ・ド・フォン・ド・ブルー平原を巨大な亡者の館へと変えている。あの大地を揺るがした怒号も、肉を叩き割る無慈悲な音も、今は幻のように遠い。遠くで時折、野犬が肉を裂くような湿った音が聞こえるが、それが死した兵士たちの名残なのか、あるいは飢えた獣たちの宴なのか、判別することすら兵士たちには恐ろしかった。燭台の火が、風もないのにゆらゆらと不安げに揺れ、天幕の壁に、歪な、そして今にも立ち上がりそうな死者の影を落としていた。
「……そうですか。シン君は、去ったのですね」
オットーの呟きは、掠れた枯れ葉が泥に沈むような、力のない音だった。その場に立ち尽くすハンスは、何も答えず、ただ静かに頷く。彼が両手で抱える緋色の団旗は、中身の重さを語るようにずっしりと沈んでいた。そこには、かつてこの西方の大地を我が物顔で蹂躙せんとした野望の権化、オルレアン伯爵の生首が、血に飢えた泥に塗れて包まれている。
「……最後に、とんでもない仕事を置き土産にしてくれたものです。これは利に合いませんよ、シン君。君という男は、いつもそうでした。己の命を天秤にかけて、他人を救うことばかり考えている。あまりに、あまりにも割に合わない。君は、本当に、馬鹿な傭兵だよ」
オットーは慈愛と、どうしようもない諦念が混ざり合った瞳でハンスを見つめた。包みからは、戦場の惨劇を物語る鉄錆と腐った泥の混じった、鼻をつく悪臭が立ち昇り、オットーの指先を真っ赤に汚した。彼は背筋を正し、アレク大公の待つ本陣へと歩を進める。その一歩一歩が、葬列のように重く、泥を噛む足音だけが夜の静寂を切り裂いていく。
「失礼します。アレク大公」
アレクは地図から顔を上げず、苛立ちを含んだ鋭い声で応えた。「なんだ。今、この戦後の混乱で忙しいのだ。無駄話をしている暇はない。この国の地図の空白を、どの国で塗りつぶすべきか、その計算で手一杯なのだ!領土の分配こそが、この死屍累々の平原に対する、唯一の答えとなる!」
「この地獄の戦いを終わらせる『証』をお持ちしました」
オットーの声の響きに、アレクが初めて顔を上げた。その眼光は鋭く、獲物を狙う獣のようにギラついていた。
「……獲ったのか!」
「はい。ここに」
オットーは包みをテーブルの中央に置いた。緋色の包みの底からは、暗黒の泥よりも深い血の染みが滲み出し、地図の上に広がる戦略図の境界線を、無慈悲に、そして恒久的に汚していく。アレクは震える手で包みを広げた。
露わになったのは、かつて西方の支配を夢見た傲慢な男の、虚ろな目をした生首だった。かつての鋭い知性も、冷酷な光も、今はただの腐りゆく肉塊に過ぎない。
アレクはその首を見つめ、静かに呼吸を整えた。その胸中には、憎しみ、安堵、そして敗北感が入り混じった複雑な感情が渦巻いている。
「……アドルフィーネ。勝鬨を上げろ。全軍に伝えよ。オルレアンの首を獲った、と」
陣の外で響き渡るアドルフィーネの号令と、それに呼応する兵士たちの歓声。だが、それは勝利を祝う声というよりは、生存を確かめ合う悲鳴に近いものだった。アルフォンソ王とグレヴィル卿は、その声を聞きながら、肩から崩れ落ちるように深く息を吐き出した。「やっと、終わる……これで、我が兵たちがこれ以上死ぬことはない……」
アレクは重い椅子に深く腰を下ろした。勝利の余韻などどこにもない。ただ、虚無感だけが彼を支配していた。
「我らの勝利だ……」
その声は、自分自身に言い聞かせるように震えていた。
「アレク大公閣下。進言をお許しいただけますか?」
「なんだ」
「三国の軍は、今すぐこの地から撤退なされますよう」
アレクの目が、ぎろりとオットーを射抜いた。怒りが雷鳴のように天幕を揺らす。「何のために、我らがこれほどの犠牲を払って攻め入ったと心得ている。それが分からぬオットー殿ではあるまい!」
「承知しています。しかし、それでも兵を返すべきです。……理由があります」
「ならば申せ!」
オットーは、歴史の重みを説くように、一言一言を噛みしめて語り始めた。
「理由は明白です。我々はフランク領民に歓迎されていません。彼らにとって、我々は侵略者です。ブリタニアもヒスパニアも領有を求めてはいない。フランクを求めているのはゲルマニアのみです。だが、解放者として入っても、いずれその支配は民の怨嗟に変わり、泥沼の蜂起を招くでしょう。ヒスパニアのアルフォンソ王もご存じでしょう。国土を取り返す国民の意志の強さを。数百年に渡り続けられる、終わりのない国土回復運動を。我々は、その火種を自らの手で撒こうとしているのです」
アレクは激昂した。「黙れ!死んでいった兵たちへの報いはどうする!なにも得られぬ戦いだったというのか!国民に、この流血を何と説明すればよいのだ!」
「それは、あなたが望む勝利ですか?それとも、あなたの傲慢が望む領土ですか?国民のためなどと綺麗事を並べるのは、鏡を見てからになさってください。あなたが本当に守りたいのは、己の玉座の重みだけでしょう」
天幕の中の空気が氷点下まで冷え込んだ。アレクの君主としての驕慢さ、その深淵をオットーの言葉が鋭く抉り出していた。
「賠償を求めなさい。領土ではなく、賠償金を。市場を開放させ、鉱山を租借し、経済的にこの地を支配するのです。武力で奪うよりも、はるかに賢明で、フランクの民も受け入れやすい」
「……誰に、それを要求する。国王は死んだ」
「国民の代表と話せばよろしい。君主であれ違える者は多い。ならば、国民の総意という大義名分を背負わせればよいのです。オルレアンの遺した混乱を、逆に利用するのです」
アレクは、その策の背後に「あいつ」の影を見た。シンの冷徹な、そしてどこまでも効率的な、あの狡猾な影を。
「……それは、あいつの考えなのか」
オットーは何も答えず、ただ静かに頭を下げて天幕を去った。
オットーの姿が見えなくなると、アレクは愛用の杯を地面に叩きつけた。
「まただ……また、あいつにしてやられた……」
アルフォンソ王とグレヴィル卿は、今のアレクには声をかけることができなかった。誰もが分かっていた。その「あいつ」という言葉が、この平原のどこかで、あるいはもっと遠くで、すべてを笑いながら見ていたはずのあの男を指していることを。
その夜、打ち合わせは深夜まで続いた。結論はオットーの提案に沿ったものとなった。十年間の休戦と、経済的な利権の供与。それは『愚者の戦争』と呼ばれる一連の死闘の、最後の一ページとなった。
戦後、ルテティアの市民代表モランとの対話を経て、三国は帰路についた。戦いの死者は膨大であり、平原の泥は死者の血と腐肉で飽和していた。
緋色の傭兵団の団員たちは、それぞれの道へ散った。
ヤミルとクリスは生き残った者たちを率い、フランク市民軍として再出発した。
イエーガーと給食隊は、ゲルマニアの旧街道の宿場町へと戻り、平原の喧騒から離れた。
クリシュ・アランはダン・ネスへ戻り、歴史の表舞台から永遠に姿を消した。
ハンスは特務隊の生き残りと『Z』へ。
ノインは野に下ったが、その瞳には再び技術革新への情熱が灯っていた。
エドワードたちはブリタニアへ、ヴィアナらはアルフォンソ王とともにヒスパニアへ。
オットーは最後まで戦場に残り事後処理をした。
そして、シン。
オルレアンを討った後、誰もその姿を見た者はいない。
彼が何を思い、どこへ向かったのか。ただ、血に染まった泥の上には、彼の愛刀が残したであろう切っ先の跡と、何者にも従わなかった一匹の狼の足跡だけが虚しく残されていた。
勝利の果実は、あまりにも苦く、あまりにも血生臭い。平原を吹き抜ける風だけが、忘れ去られるはずの兵士たちの無念を、さざなみのように静かに運び去っていった。すべては終わり、しかし、すべての災禍は、今ここから新たな芽を出し始めていたのだ。
シンは、誰にも告げず、戦場の果てへと消えた。彼にとっての戦いは、最初から最後まで、誰かのための駒であった。しかし、最後の最後に彼は、自分の意志で、自分の命を使って、歴史の歯車を狂わせた。その代償が、彼自身の存在の抹消であるとしても、シンは後悔しなかっただろう。なぜなら、それが彼なりの「自由」だったのだから。
平原には静寂が戻り、やがて来る春の光が、血に濡れた大地を温め始める。人々は、ここで起きたことの本当の意味を知ることなく、明日へと歩き出す。愚か者たちの戦争は終わった。だが、その愚かさが生んだ犠牲は、いつまでもこの大地に深く、深く根を張り続けることとなる。
次の戦いは、誰のためのものになるのだろうか。
それを知る者は、もはやこの地には誰もいない。
シンは歩く。どこへ向かうかも決めずに。
ただ、その背中は、戦場の埃と血を洗い流すかのように、夕闇の中へとゆっくりと、そして着実に消えていった。
彼の旅路は、まだ終わらない。
それが、傭兵として生きる者の、唯一の宿命であるのだから。




