第5章:泥濘の断罪――灰燼に帰す希望と、死神の輪舞曲(ロンド)
四日目の夜明け、戦場を支配していたのは「死の沈黙」そのものだった。
降り注いだ雨は止んでいたが、マレ・ド・フォン・ド・ブルー平原は深淵から這い出たかのような濃い霧に呑み込まれ、視界はわずか数メートル先すらも怪しい。普段であれば、足音もなく忍び寄る「蛇の眼」の暗殺者の気配に全身の毛を逆立て、呼吸すら殺すところだが、今は違う。平原の土は限界まで水を吸い込み、重厚で陰湿な泥沼へと変貌していた。兵士が一歩踏み出すたびに、足元で泥が「クチャリ」と卑猥な音を立てる。その湿った足音の響きによって、誰が、どこで、何をしようとしているのかが白日の下に晒される。霧の中、時折聞こえる不気味な軋みや、泥を叩く重い足音が、兵士たちの神経をギリギリと磨り減らしていく。死の気配が濃縮される中、それでも決定的な衝突は起きず、四日目の日暮れが訪れた。
連合軍の本陣では、アレク大公の天幕に、湿った死の香りと、焦げ付いた鉄の臭いが澱んでいた。
「……明日だ。明日、奴らは来る」
アレクの声は低く、だがその奥底には鋼のような硬質さと、張り裂けそうな激情が渦巻いていた。
「アズラクの狂犬どもは、初日のような整列などしない。ファランクスという枷を捨て、本来の流儀、すなわち獣の吶喊で全戦域を蹂躙しに来るはずだ。壁は、せいぜい一時間ももてばいいほうだろう。その後は、なし崩しに第1の壁を越えられる」
「仕掛けは用意できた。後は運用面だ」
ツェンの静かな言葉に、アレクは何も言わず、ただ深く頷いた。彼の瞳には、明日確実に死を迎えるであろう兵士たちの影と、勝利への執念が複雑に絡み合っていた。
「アルフォンソ王、不安か?」
「……まさか。だが、死の淵に立たされるのは何度経験しても慣れんよ。心臓が今にも口から飛び出しそうだ。この静寂こそが、我々を一番殺しに来ている」
ツェンが地図を指す。「兵には交代で四時間の休息を与えます。明日、この平原が地獄と化すその前に」
アレクはアドルフィーネを見た。彼女の鎧の隙間からは、絶えず戦場の煤と湿った血の匂いが漂う。
「地面の状態は?」
「乾きつつあります。夕刻には、支障が出ない程度まで復旧している。明日は勝負になります。アズラクの総攻撃に加え、あの冷酷な伯爵軍が傍観しているはずがない」
「決戦か。これで……“隙”をつくれるか?」
「断言はできませんが……大丈夫…だと、思います」
四日目の夜は、夜襲も起きぬ平穏な夜だった。しかし、その静寂は、処刑台を待つ罪人の心拍音のように、緊張で張り詰めていた。兵士たちは泥の上に横たわり、己の指先を確かめ、明日という日が昇らないことを祈りながら、凍てつくような不安の中で目を閉じていた。
五日目。雲が割れ、血のような朝日が地平線を赤く染め上げた。
霧は晴れ、平原にはところどころに浅い水たまりが残るものの、万単位の集団が迅速に移動できる地盤が戻っていた。
戦場の中央に、アズラク兵が展開していた。その数、16000。朝日を背に受けて並ぶ彼らの姿は、まるで冥界から溢れ出した亡者の群れのようだった。
「アズラク兵が……展開している!」
連合軍の兵士たちが、震える声で叫ぶ。戦慄が伝播し、陣内に波紋のように広がっていく。
じゃーん!じゃーん!
不吉な鐘の音が平原を切り裂いた。アズラク兵が一斉に動き出す。
陣形などない。ただ、個人の殺戮本能のみを羅針盤とした奔流。盾を捨て、鎧の重ささえかなぐり捨てた獣たちは、壁に向かって全力疾走を開始した。一点突破ではない。壁の全長にわたり、ありとあらゆる場所へ、ばらばらの獣たちが群れをなして雪崩れ込む。それはまるで、堤防に押し寄せる黒い津波のようであった。
「……これでは投石の効果は皆無だ」
指揮官の絶叫は、突撃の咆哮にかき消された。自由自在に動くアズラク兵に対し、狙い撃つことなど不可能だ。矢を射る、しかしアズラク兵は人族を凌駕する身体能力でそれを弾き、あるいは泥を蹴って回避する。
馬防柵も無力だった。隊列を組まない彼らにとって、それはただの障害物ですらない。簡単に壁に取りつき、槍を突き出す連合軍兵士を、肉を切らせて骨を断つ勢いでなぎ倒していく。彼らの瞳には人間らしい感情などなく、ただ飢えた獣の渇望があるだけだった。
「壁を越えられた!第一の壁の内側が突破された!」
阿鼻叫喚の中で防衛線が溶ける。第一の壁の内側は、血と泥、そして絶望的な近接格闘の舞台と化した。アズラク兵一人を倒すのに、連合軍は三人以上の犠牲を払わねばならない。圧倒的な暴力に押され、第1の壁は無残に制圧された。
アズラク兵が、次の障壁、第二の壁へと躍り出る。
だが、そこには奇妙な静寂があった。高さ三メートルを超える頑丈な壁。しかし、壁の上に兵の姿はない。扉は固く閉ざされ、まるで放棄された城のように沈黙している。
「なんだここは?誰もいないのか?」
獣たちが獲物を求めて門を叩く。閂を蹴り飛ばし、破壊し、雪崩れ込む。その先には、広大な空間が広がっていた。縦横百歩程度の、何もない、“罠の口”。
数百のアズラク兵が空間に入った瞬間、入り口が背後の味方の死体や丸太で塞がれた。
彼らの足元にあるのは泥だけではない。そこに満たされていたのは、死の香りがする液体――油だった。
どん!どん!どん!
四方の壁から、一斉に弓兵が立ち上がる。
「撃てぇええ!!」
四方八方から、殺意の嵐が降り注ぐ。火矢が油に引火し、瞬く間に炎の壁が獣たちを包み込んだ。
「ぎゃぁあああ!!」
壁から流し込まれるのは、火を助長する油。逃げ惑うアズラク兵たちの断末魔が、炎の爆ぜる音と混ざり合う。三メートルの壁は容易には登れない。彼らは炎の中でただ燃え尽きるのを待つだけの、焼かれた肉の塊と化した。その焦げる匂いは戦場を支配し、兵士たちの胃袋を逆流させるほど凄惨なものだった。
その背後、第一の壁と第二の壁の間で立ち往生するアズラク兵たちに、地響きが襲い掛かる。
どどどどどど!!
「かかれぇええ!!」
アドルフィーネの咆哮が戦場を揺らす。空間の左右から、ゲルマニア黒狼騎士団、ブリタニア軽騎兵、ヒスパニア重装馬兵が奔流となってなだれ込む。
ゲルドたち工兵が血の滲む苦労で固めた「馬場」を、重装騎馬が駆け抜ける。逃げ場を失ったアズラク兵は、槍の穂先で次々と突き刺され、蹂躙されていく。
戦闘開始から二時間。アズラクの狂犬たちは、ただの肉の残骸へと変わった。
平原に立ち込めるのは、煙と、強烈な肉の焼ける異臭。
「ばかな……あの化け物どもが、全滅しただと?」
コンストス将軍の震える声を、オルレアン伯爵は冷淡に切り捨てた。
「ガストン」
「は!」
「やれ。あの若造の勝ち誇った顔を、泥と一緒に踏み潰してやれ」
「ベアトリス、トリスタン。投石機を破壊し、連合軍の退路を断て」
「了解いたしました」
連合軍が必死に築いた壁が、次々と倒壊する。その裏から姿を現したのは、三万を超える、息を殺して戦況を見つめていた連合軍兵士たちの無数の槍。
しかし、その対面に現れたのは、磨き上げられた鎧に身を包んだ、伯爵軍の重装騎士団だった。
漁夫の利を狙う冷酷な狩人たちが、今、牙を剥く。連合軍対伯爵軍――平原は再び、今度はより洗練された殺戮の宴へと塗り替えられる。
その対峙の瞬間、アレクは悟った。真の戦いは、ここから始まるのだと。泥濘の中で、騎士たちの鎧が朝日を反射して残酷なまでに輝く。その美しさと、直後に訪れるであろう惨劇との対比が、戦場の緊迫感を極限まで引き上げた。
アレクは愛剣を抜き放ち、高く掲げた。それは勝利の旗印ではなく、破滅へと向かう宣戦布告。泥にまみれ、血に濡れた兵士たちが、最後の力を振り絞って雄叫びを上げる。歴史を塗り替えるための、血の決戦が今、まさに幕を開けた。勝つのは知略か、それとも冷酷な純粋暴力か。平原は新たな死の舞踏会へと、その醜い喉を鳴らして待機していた。もはや退路はない。あるのは勝利か、あるいはこの平原に溶けていく無名の死のみ。連合軍の兵士たちは、それぞれの恐怖を噛み殺し、運命の濁流へとその身を投げ出した。




