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『緋色の傭兵団の物語』「西方動乱編」  作者: 嵗(sai)
第二十二部:緋色の鎮魂歌(レクイエム)―灰燼の荒野、語り継がれぬ旅路―

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第4章:泥濘の断罪――雨と毒牙、そして絡み合う悪意の罠

伯爵軍の本陣を覆うのは、単なる雨音ではない。天幕の重厚な布地を激しく叩きつける雨粒は、戦場に散った数多の無念を乗せ、死者たちが上げる怨嗟の叫びが物理的な質量を持って降り注いでいるかのようだった。床机に深く腰を下ろしたオルレアン伯爵の前に、影のようにベアトリスが音もなく現れる。彼女が纏う黒い鎧には、激戦の泥と、拭いきれない鉄錆の臭いが、まるで呪いのようにこびりついていた。


「伯爵殿。戦況に決定的な変化はありません。連合軍は、あの突貫で築いた壁を死守し、アズラクの狂犬どもを完全に足止めしています」


オルレアンは視線を上げず、ただ冷淡にワイングラスを回す。グラスの中で揺れる紅い液体は、今この瞬間も戦場で冷たい泥に吸い込まれていく鮮血を象徴しているかのようだった。彼は一口、その血のように赤い酒を喉へと流し込み、歪んだ微笑を浮かべる。


「そうか。突撃は止まったか」


「はい。連合軍は壁を突破させず、侵入した個体を一つずつ絞り殺すように仕留めている。一方的とは言えませんが、アズラク側の被害は甚大です」


「アズラクの野蛮人どもが、あの程度の木壁を破れんとはな。突破はしているのだろう?」


「はい。ですが、突破した先にもう一枚壁があるようです。『蛇の眼』の報告によれば、壁は二重構造。侵入したアズラク兵が泥に足を取られ、動きを止めた瞬間を狙い、隙間から突き出される槍で確実に刈り取っている模様」


オルレアンは鼻で笑った。その笑みには、兵士への敬意など欠片もない。ただ、盤上の駒が己の予測通りに壊れていく様子を愉しむ、歪んだ好奇心だけがあった。


「ほう、二重壁か。あの若造も少しは知恵が回るようになったらしい。だが、泥の中での殺し合いなど、所詮は掃き溜めの争いだ。彼らが壁を築くたびに、それが彼らの棺桶になることにも気づかずに」


彼は立ち上がり、天幕の隙間から戦場を俯瞰した。壁を挟んで拮抗する数万の命。連合軍の個体戦力では、アズラク兵の猛攻を正面から受け止めることは到底不可能だ。彼らが取れる戦術は「遅滞」しかない。だが、逃げ道を捨てて「壁」という固定陣地を選んだことで、彼らは自ら退路を断ったのだ。コンストス将軍の思惑通り、これは泥沼の消耗戦だ。双方が擦り減り、五日も経てば、この戦線は張り詰めた糸が切れるように崩壊するだろう。


「ふん。アズラクの奴隷兵もここらが限界か……」

オルレアン伯爵は空を見上げる。(この雨は…暫く続くな)


「クロウド」


「はっ」


「ガストンに伝えろ。三日後の夜明け、全軍出動の準備を整えろとな。この死の宴も、そろそろ幕引きが必要だ。両軍が肉塊となって平原を埋め尽くす時が、我らの狩り時だ。帝国軍も奴隷兵も、そして連合軍の英雄気取りどもも……まとめて泥の底へ沈めてやる」


「承知いたしました」


ガストンが去った後も、オルレアンは戦場を眺め続けた。その眼には、泥に塗れて死にゆく兵士たちの姿ではなく、勝利の後に得られる果実の数しか映っていない。彼は静寂の中で、一人高笑いを押し殺していた。


連合軍陣営は、死臭と雨の湿気に完全に包まれていた。二日目の激戦が終わり、戦場には濡れた死体と、それを覆う薄暗い霧が停滞している。


アドルフィーネは、返り血で黒く染まった軍装を脱ぐこともなく、アレクの天幕へと足を踏み入れた。その威圧感と漂う殺気だけで、天幕内の空気は凍りつく。


「アレク大公閣下。二日目の戦闘、終了しました」


彼女の姿に、本陣を守っていた将校たちは息を呑んだ。彼女が纏うのは、もはや軍服ではない。数多の命を刈り取った、死神の衣であった。


「結果はどうだ」


「壁のおかげで、アズラク兵と互角の泥仕合を演じました。……互いの死傷者は、三千を超えています」


「……一割か」グレヴィル卿が顔を歪める。「壁があってもこれか。アズラクの突進力は、もはや人間の域を超えている」


アルフォンソ王が呻いた。「いずれ壁は破られる。そうなれば連合軍は全滅だ。我々は、戦うたびに削り取られているのだ」


アドルフィーネは深刻な表情で言葉を継ぐ。アレクの脳裏にも、ノインとツェンの「第一の壁、第二の壁」の策が浮かんでは消える。想定では一日以上保つはずだった防衛線が、わずか半日で綻びた。


「ノインとツェンの進捗は」


「改良に追われています。ですが、明日の戦いに間に合うかどうか……」


「ならば別の手だ。夜襲は……」


「お止めなさい」アドルフィーネが冷たく遮った。「相手はただの蛮族ではありません。オルレアン伯爵です。夜襲など、奴はとっくに読み切っている」


アレクは苛立ちを露わにするが、アドルフィーネは静かに続けた。


「それよりノインが気づきました。伯爵は連合軍だけでなく、アズラク兵そのものの弱体化をも狙っているようです」


「どういうことだ?」


「連合軍とアズラクを共倒れさせ、両軍が瀕死になったところで、伯爵軍がすべてを飲み込む。これが奴の狙いです」


戦場を掌握しているはずのアズラク兵すら、オルレアンにとっては使い捨ての駒に過ぎない。その冷酷な構図に、アレクは憮然としながらも納得せざるを得なかった。


「では、どうする」


アドルフィーネはわずかに口角を上げた。


「“あいつ”が、面白い策を献上してきましたよ」


三日目。マレ・ド・フォン・ド・ブルー平原は完全に泥沼と化した。


空を覆う鉛色の雲からは、容赦なく雨が降り注ぎ、大地はぬかるんだ湿原へ変貌した。壁の前は、足を踏み入れれば膝まで埋まるほどの泥濘だ。


アズラク兵は、今日も壁を目指した。だが、泥に足を取られ、その突撃速度は著しく低下した。雨に濡れた弓弦は弾力を失い、火矢も使えない。泥に塗れ、重い鎧に体力を奪われた彼らは、連合軍の矢と石の的になった。


「これでは戦にならん!」


アズラク軍指揮官は早々に攻撃の中止を決断した。しかし、殺戮は止まなかった。


「暗殺者だ!『蛇の眼』が紛れ込んでいる!」


アドルフィーネの警告は、的中した。


雨の混乱に乗じ、連合軍の現場指揮官たちが次々と毒牙に倒れていく。防衛線の要であった中堅士官十八名が暗殺された。特に国民軍への被害は致命的だ。中堅どころの喪失は、農民上がりの兵たちにとって精神的な支柱を失うに等しかった。


半数以上の指揮をブリタニアのグレヴィル卿が引き継ぐことになったが、彼の手元に残されたのは、武器の握り方も知らぬ一般市民たちばかり。連合軍の五万の兵のうち、実質的な戦力は四万を切り、雨の惨劇でさらに削られた。


夜。連合軍の陣営は沈黙に沈んでいた。


「明日は晴れるが、地面は泥沼だ。大規模な激戦にはなるまい」アレクは地図を睨む。


「問題は五日目だ。奴らは鬱憤を爆発させ、今までにない猛攻を仕掛けてくる」


「崩れ、引き込み……上手くいくか?」


「犠牲は……必ず出る。それでも、あの男の策に賭けるしかない」


雨霧に包まれた平原の向こうで、何かが動く音がした。アレクは天幕の外へ出た。霧の向こうに隠された敵陣は、まるで獲物を待つ大蛇のように不気味に静まり返っている。犠牲を覚悟した戦いが、刻一刻と近づいている。アレクの背負う五万の命の重みが、降り続く雨よりも重く、その肩を押し潰そうとしていた。


ここから先は、ただの殺し合いではない。魂を削り合う、終わりのない断罪の儀式だ。兵士たちは泥の中で叫び、笑い、絶命する。そのたびに、大地は血を吸い込み、より深く、より黒く、彼らを飲み込もうとしていた。この二枚の壁が朽ち果てる時、最後に立っているのは誰か。それだけが、唯一の真実となる。


アレクは拳を握りしめた。その指先から滴る雨水は、まるで天が流す血の涙のように見えた。明日、陽光が泥を照らすとき、戦場は再び地獄の門を開く。その扉の向こうに待ち受ける勝利と、その対価として支払わねばならない数多の魂の重みを想い、彼はただ、牙を剥く運命をじっと待ち受けることしかできなかった。敗北という文字を塗り潰すために、彼はどれほどの泥を啜らねばならないのか。それは彼だけが知る、孤独な闘いの始まりであった。



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