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『緋色の傭兵団の物語』「西方動乱編」  作者: 嵗(sai)
第二十二部:緋色の鎮魂歌(レクイエム)―灰燼の荒野、語り継がれぬ旅路―

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第3章:鉄の牙、血の泥濘――殺戮の境界線

戦場の空気は一変した。ぼそぼそと雨が降る。マレ・ド・フォン・ド・ブルーは泥沼と化していた。

霧に覆われた平原の先、アズラク兵が再び進撃を開始する。彼らの前に現れたのは、昨日までは存在しなかったはずの異様な光景だった。昨日までの泥濘の中に、一夜にして築き上げられた“城”――連合軍が結集させた知略と物量、そして不屈の意志による要塞が、奴隷兵たちの突撃を嘲笑うようにそびえ立っていたのである。


コンストス将軍がその報を聞いた瞬間、天幕内を支配していたのは冷ややかな沈黙ではなく、叩きつけられる拳と、引き裂かれる伝令の悲鳴だった。コンストスは、戦場での失態を告げた伝令の胸倉を鷲掴みにし、そのまま軍靴の踵(かかと)でその顔面を容赦なく踏み砕いた。湿った骨の砕ける音が、天幕内に嫌な余韻を残す。


「ふざけた戯言を抜かすな!貴様、腐った泥でも脳に詰まっているのか?この広大無辺な平原だぞ。ましてや昨夜のような暗闇と嵐の中で、人間に何ができるというのだ!たかだか一晩で城など築けるはずがあるまい!」


「し、しかし将軍……!嘘ではございません!現に奴らの陣営には!」


「まだ言うか!虚言を吐く暇があるなら、敵の首を一つでも多く獲ってこい!」


コンストスは怒号と共に伝令を泥の中に蹴り飛ばしたが、その直後、戦況を見守っていた側近の一人が、蒼白な顔で指先を震わせながら前方を見つめているのに気づいた。


「……ん?なんだ、あれは」


将軍が視線を向けた先、昨日まで何もない地平線であったはずの連合軍陣地に、高さ二メートルを優に超える巨大な木造の壁が、地平線の彼方まで横数キロメートルに渡って殺風景に、そして異様に広がっていた。それは大地を裂いて生えてきたかのような無骨な障壁。泥と霧にけむる戦場で、連合軍の「死んでもここを通さない」という執念の塊が、鈍く光を反射していた。


「ほう、面白い手を打ってきたな」


クロウドからの報告を受けたオルレアン伯爵は、手元のワイングラスをゆっくりと回しながら、床机に深々と腰を据えてつぶやいた。その瞳には焦りの色など微塵もなく、まるで盤上の駒の動きを愉しむかのような、人間離れした冷酷な好奇心が宿っている。


「さて、コンストス将軍。貴殿のその“使い捨て”の道具たちが、この壁を前にしてどんな死に様を演じてくれるか……見ものだ。奴らには、この泥の底で存分に踊ってもらおう」


アズラク兵たちもまた、昨日まで存在しなかった巨大な障壁を前に、突撃の足を止めて狼狽していた。


「おい、あれは何だ?どうやって一晩で造りやがった?」


「俺に聞くな、わかるわけないだろうが!魔術か?それとも死霊の仕業か?」


「どうする、突っ込むのか?」


「それ以外に道があるかよ。命じられたままに死ね」


アズラク兵たちは苛立ちと、得体の知れない恐怖を募らせながら、飢えた獣のようにただ獲物の前で爪を研ぐことしかできなかった。彼らの荒い息遣いが、冷たい空気に白い霧となって溶けていく。


一方、連合軍陣営の最前線では、グレヴィル卿が完成したばかりの壁に手を触れ、冷や汗を拭っていた。指先に伝わる木の感触は、確かに現実のものであった。


「……恐ろしいものだな。奴隷兵たちは、これを見てもなお突っ込んでくるのか」


「まあ、一夜にして平原の真ん中に要塞が出現したのだ。奴らとて、獣の理屈で動いているとはいえ、本能的な恐怖はあろう」


アルフォンソ王が応じるが、その声もわずかに震えていた。


「しかし、よくもまぁこんな狂気じみた策を思いついたものですな。アレク大公殿」


アレクは沈黙を守っていたが、その瞳には地獄を焼き尽くすような静かな決意が宿っていた。


「……俺が考えたのではない。あいつらが、あいつが俺の未熟さを埋めてくれた。悔しいがな。」


昨夜の記憶が、アレクの脳裏で火花を散らす。


陣営の天幕内で、アレクはツェン、ノイン、ゲルドという側近たちを前に、喉の奥から絞り出すように語った。


「奴隷兵の苦手な戦場はどこだ?野戦ではない、攻城戦だ。敵をルテティアまで誘い込めば勝算はあるが、オルレアンはその程度の策には乗るまい」


ツェンが眉をひそめる。「閣下、それこそ危険です。戦線を下げることは連合軍の士気を削ぐ。オルレアンならそこを確実に衝いてきます」


「では代案はあるか?」


憮然とするアレクの問いに、誰もが答えに窮した。代案――それはもはや、戦略というよりは奇跡を求めるに等しい問いだった。


その時、おずおずと手を挙げたのはノインだった。


「……あの。あるにはありますが、あまりに無茶が過ぎるかもしれません」


ゲルドが嫌な予感を察して、大きく溜め息をついた。ノインは地図の上に一本、線を引いた。


「陣の前面に、高さ二メートルの壁を巡らせる。これならどうでしょう」


「…続けろ」アレクの目が鋭く光る。


「“彼”は言いました。敵を見立てろ、と。今日のアズラク兵を見たとき、私は確信しました。彼らの突進力は、重装騎馬軍に匹敵する、と。なら、騎馬に対する馬防柵を、彼ら用に巨大化させるのです」


その夜、ルテティア西側の森は根こそぎ切り倒された。数千の工兵、国民軍の兵士が斧と槌を手に木々をなぎ倒し、整形し、組み上げた。横幅十二メートル、高さ二メートルの巨大なパネルが、五百枚以上。それを後ろから補強する支柱。ルテティア西の森は完全に消滅し、そこに連合軍の知略と執念の要塞が完成した。


完成と同時に、兵士たちはその場で泥にまみれて倒れ伏した。彼らは二日目の激戦に加わる気力さえ残していなかったが、その不在を補って余りある“鉄壁”が陣の前に鎮座していたのである。


コンストス将軍は嘲笑した。


「木造のたかだか二メートルの壁だと?笑わせるな。奴隷兵!貴様らにとってはその程度の障害物など、蹴り破るための踏み台に過ぎん!殲滅せよ!」


「「「「「うおおおおおおお!!!」」」」」


咆哮と共に、アズラク兵がファランクスを組んで前進を開始した。その足並みは、訓練された兵士のように整っている……ように見えた。だが、壁の前に配置された馬防柵に足を取られた瞬間、その規律は崩壊した。


高さ腰ほどしかない柵を蹴り上げようとしたアズラク兵の足が、強固に大地に打ち込まれた杭に阻まれ、宙を舞う。密集陣形が瓦解し、一人が転べば、背後の十人がつまずく。ファランクスは一瞬にして単なる混乱した集団へと成り果てた。


その隙を、連合軍は見逃さなかった。


「今だ!てぇええ!!」


直射の矢が雨のように降り注ぎ、投石機が唸りを上げて岩塊を叩きつける。陣形を崩され、逃げ場を失ったアズラク兵たちは、文字通り「獲物」と化した。


「吶喊(とっかん)!!吶喊だあああ!!!」


部隊長が怒り狂ったような声を上げる。ファランクスが維持できないと悟ったアズラク兵たちは、即座に本来の残虐な戦法――個人の力による正面突破――に切り替えた。


「追い付かないぞ!前へ出ろ!」


矢を全身に受けながらも、彼らはひるまない。急所を外れた兵たちは、血の海を渡って壁の足元に辿り着いた。壁の隙間から、連合軍の長槍が突き出される。無慈悲に肉を貫く槍の先で、アズラク兵が叫び、それでも槍を掴んで引き寄せる。


「死ね……道連れにしてやる!」


壁を突破された箇所では、飛び越えてきたアズラク兵が吠えながら剣を振り回し、泥沼の白兵戦が始まった。


だがそこでアズラク兵は目を剝く。

「もうひとつ…、もうひとつ壁があるだとっ!」


アレク大公が命じ、ゲルドとノインが中心となって工兵隊が築き上げた“壁”は二重であった。

その2つの壁の間には黒狼騎士団初め連合軍の精鋭たちが待ち構え、1枚目の壁を突破してきたアズラク兵に騎馬を剝けた。槍兵は3人一組で、鉄鋼兵がアズラク兵の突進を止め、その隙に2人の剣士が剣を突き刺す、斬りつける。


「がっ」次々とアズラク兵が討ち取られてゆく。


「1対1で当たるな!必ず3人で討ち取れ!」

「次だ!突破させるな!」


アドルフィーネが率いる部隊が、壁の背後で侵入者を討ち取る。連合軍の兵士たちは、二枚の壁に挟まれた空間で、侵入者を仕留め、外からの衝撃に耐え、血を吐きながら防衛線を維持し続けた。


攻防は一進一退。壁の内側に入り込んだアズラク兵は、目の前の絶望的な数に驚愕し、返り討ちに遭う。だが、屍を足場にして、次から次へと新たな怪物が壁を越えてくる。


戦場はまさに地獄の煮汁を沸かしたような惨状となっていた。どちらが先に限界を迎えるか。この泥濘の境界線が、今日、連合軍の墓標となるのか、あるいはアズラク兵を飲み込む底なし沼となるのか。


この“城”は、単なる防御壁ではない。それは、アレク大公という男が、泥と血にまみれた5万の兵の先頭に立ち、己の野望と責務をかけて築き上げた、敗北という未来を拒絶する絶対的な証明であった。

城壁が閉ざされ、沈黙が支配する中、奴隷兵たちの突撃が激突する瞬間、そこには未だ誰も見たことのない、新たな地獄の幕が開ける。

連合軍の全精力が注ぎ込まれたこの要塞が、果たしてどれほどの狂気を飲み込み、どれだけの血で染まるのか。アズラク兵たちの咆哮が再び木霊し、平原の泥がまたしても死者の血で赤く煮えたぎる――そんな破滅の予感が、空を覆う雲の合間から差し込む朝日をさえぎり、戦場を暗い鉄の色に染め上げていた。


ここから先は、ただの殺し合いではない。魂を削り合う、終わりのない断罪の儀式だ。兵士たちは泥の中で叫び、笑い、絶命する。そのたびに、大地は血を吸い込み、より深く、より黒く、彼らを飲み込もうとしていた。この二枚の壁が朽ち果てる時、最後に立っているのは誰か。それだけが、唯一の真実となる。



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