第2章:策謀の泥濘――鉄と血の狂詩曲
アズラク兵たちの咆哮が、重苦しい鉛色の空の下、戦場の静寂を真っ二つに切り裂いた。それは単なる戦意高揚の叫びではない。獲物を追い詰めた獣が喉の奥から絞り出す、飢えと殺戮欲に塗れた執拗な唸り声だ。彼らの瞳には人間としての理性という灯火はもはやなく、ただ純粋な破壊衝動だけが、心臓を叩く鼓動と共に真っ赤に燃え盛っていた。
「う、うてぇえええ!!全員で叩き潰せ!ゲルマニアの盾を粉砕し、その内臓を泥に引きずり出せ!」
弓隊指揮官の喉が裂けんばかりの絶叫が、混沌とする戦場に響き渡る。その絶叫に呼応するように、空を黒く塗りつぶすほどの矢の雨が、敵軍の頭上から降り注いだ。放たれた数千の矢が、どんよりと停滞した空気を引き裂き、アズラク兵たちの突撃路に冷たい死の楔を打ち込んでいく。
急所を射抜かれたアズラク兵は、泥の中に沈み込み、二度と立ち上がらない。しかし、急所を外れた者たちは、自らの肉体に深く突き刺さる矢を、まるで忌々しい羽虫を払うかのように無造作に引き抜き、血塗られた顔で狂気じみた笑みを浮かべて突き進む。彼らにとって痛みとは、戦いの昂揚感を高めるための卑近なスパイスに過ぎない。死への恐怖さえも塗りつぶす強烈な闘争本能が、彼らの足を一瞬たりとも止めさせはしないのだ。アズラク兵たちの進撃は、まるで地獄の底から這い上がってきた腐敗した波濤のように、連合軍の陣形を呑み込んでいく。
激突の瞬間、戦場の時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
どがんっ!!という鈍い衝撃音が戦場の空気を震わせ、すべてを支配する。大盾を構えた連合軍の最前列が、まるで猛牛に撥ね飛ばされたかのように宙を舞い、泥の上に無残に叩きつけられた。重い鉄の鎧を纏った兵士たちが、まるで木の葉のように空中で回転し、激しい泥飛沫を上げて転がる。突き刺さった槍の先で、短い断末魔が上がり、すぐに雑音にかき消された。
「押せ!押せ!このクソッタレ共を地獄へ送り返してやれ!」
兵士たちの怒号と、金属が悲鳴を上げる音が重なり合う。押し寄せるアズラク兵たちの執念は、人間という枠組みを完全に逸脱していた。泥濘に足を取られながらも、彼らは這いつくばり、死にゆく戦友の死体さえも踏み台にして、剣を突き立ててくる。連合軍の陣列は、中央から抗い難い歪みを生じ、今にも圧し潰されそうな悲鳴を上げていた。
その絶望の淵に、轟音が響いた。
ぶおぉん!どんっ!ぐしゃっ!!
連合軍の頭上を越えて飛来した巨石が、密集するアズラク兵の隊列を粉砕する。人の頭二つ分もあろうかという岩塊が、数人の戦士を一瞬で肉塊へと変え、泥と血を周囲に撒き散らす。どがん、どがん、と間断なく響く衝撃音。連合軍右翼および左翼の後方に巧妙に隠されていた十数基の投石機が、ついにその牙を剥いたのだ。アズラク兵の密集を狙い撃つこの投石機は、連合軍の工兵部隊が夜を徹して泥にまみれながら隠匿していた、勝敗を分かつ切り札であった。
「投石機、次弾装填急げ!溜めるな!奴らの骨を砕け!」
ブリタニア・国民軍を叱咤するゲルドの声が響く。反対側のヒスパニア軍側でも、かつての工兵隊精鋭たちが、血に染まった手で投石機のレバーを力任せに引いていた。
「油壺を投げろ!!火矢を射かけろ!!」
前面では弓兵隊が、地獄の業火を招く指示を待つ。激突の現場では両軍双方から悲鳴が上がり、戦場の泥は瞬く間に血飛沫で赤黒く染め上げられていく。空は火矢の軌跡で埋め尽くされ、アズラク兵の陣列に次々と火が回る。だが彼らは、自らもまた炎に包まれながら、なおも笑って前進してくるのだ。それは軍隊というより、巨大な人喰いの怪物の襲来に近いものがあった。
その惨状を冷徹に見つめていたオルレアン伯爵は、隣で苦虫を噛み潰したような顔をしているコンストス将軍へ語りかけた。
「将軍、ここは一旦兵を下げてはどうか。これ以上の消耗は、戦術的な意義を失う。奴らもただの消耗品であろうが、使い道は考えるべきであろう?」
コンストスは冷酷に鼻を鳴らす。「……役に立たぬ奴隷どもめ!あれほど猛ったのに、たかだか投石機ごときに押されるとはな!撤退の鐘を鳴らせ!」
じゃーん、じゃーん。戦場に響き渡る無情な鐘の音。アズラク兵たちは、その音を聞くと瞬時に剣を下ろし、背中を見せて淡々と後退を始めた。火だるまになった仲間が泥の中で断末魔を上げようとも、彼らは振り返りもしない。この攻防で、奴隷兵団には千人を超える死傷者が出ていた。
第2波の攻防が終わった。連合軍の陣営は死臭と硝煙に包まれている。
アレク大公は、自身の判断に苛立ちを感じていた。矢を射かけるタイミング、投石の精度、すべてにおいて帝国軍、いやオルレアン伯爵の手のひらで転がされているに過ぎないのではないか。
「対処に回るだけでは、勝ち筋は見えん……」
憮然とするアレクに、毅然とした声が届いた。
「閣下」黒狼騎士団長アドルフィーネ・ヴォルフハルトだ。「閣下は、今、誰と戦っているのですか?誰に勝ちたいのですか?」
アレクはハッとして顔を上げる。
「閣下には12,000の精鋭がおり、今は4国の連合軍の総大将です。5万の兵を統帥し、民の生命を預かっている。あの男は、わずか300に満たない配下を切り捨て、自らの“欲”のために5万の兵を平気で囮にする者。あのような者と、貴方様が競う必要などありません。利用するのです」
アドルフィーネの言葉が、アレクの霧を晴らした。
「……そうだな。俺としたことが、つまらんことに拘りすぎていた。アドルフィーネ、ツェンを呼べ。それとノイン、ゲルドもだ」
アレクの目から迷いが消えた。「攻勢遅滞戦術……見せてやろう」
陣営内では、連合軍の将たちが次なる策を練っていた。夜の静寂の中、グレヴィル卿とアルフォンソ王がアレクの元に集まる。
「鉄鋼兵は奴隷兵の猛攻を何とか防いだが、盾の損耗が激しい。あと2回が限界だ」とアレクが告げる。
「では明日は持ちこたえられぬな」アルフォンソ王が唸る。
「奴隷兵は野戦での突進力は凄まじいが、攻城戦は不得手と聞く」アレクは不敵に笑う。「ならば、“城を築く”」
「城だと?こんな短時間で?」
二人の驚きの声を背に、アレクはノインとゲルドを招き入れた。
一方その頃、オルレアン伯爵の天幕では、コンストス将軍が美酒に酔いしれていた。
「奴隷兵を引き上げさせましたが、明日には確実に抜けましょうぞ」
「損耗はどうだ?使えるのか」
「構いませぬ。あの者たちは金貨800枚の使い捨ての道具。生き残りが少なければ少ないほど、帝国の懐は痛まないのですからな」
「……便利な者どもだな」
オルレアンは南の戦後の支配権について確認を取りつつ、冷酷な笑みを浮かべる。帝国と伯爵の腹の内は、消耗戦で互いに削り合う様子を遠巻きに楽しむ冷徹な計算で一致していた。
しかし、戦場という名の盤面の下で、別の駒が動き出そうとしていた。
「戦況は今のところ互角。だがアレクは苦戦しているようだ」
「あれはお前たちと似ているところがある。苦戦するだろうさ」
「ぁあ?一緒にするな、力攻めしかできない奴らと」
「だが耐久力、持久力、攻撃力は近いだろう?」
「それだけだ。儂らにはムッサーシの技がある」
「そうだった、悪かったな」
「それより、ここでいいのか?」
「ああ、まだ時間はある。まだ時じゃねぇ。まだ動かねぇ」
「今は英気を養っておこう。時が来れば、一瞬も気は抜けなくなる」
「わかったわい。」
そして2日目の朝。アズラク兵の前に“城”が現れた。




