第1章:泥濘の咆哮――マレ・ド・フォン・ド・ブルーの死闘
決戦の地、フランク王国王都ルテティア南東に広がるマレ・ド・フォン・ド・ブルー平原。この広大な大地は、かつて多くの軍勢が血の海と化した呪われた場所である。今、ここには3国連合およびフランク国民軍を合わせた総勢50,000の連合軍と、東ロマヌス帝国軍およびオルレアン伯爵軍を合わせた47,000の軍勢が相対していた。
両軍合わせて10万の兵が剣を交えるに十分な広さを持つ平原。連合軍は、中央にヴィットマン率いるゲルマニア軍10,000、右翼に精強なるヒスパニア軍12,500、左翼にはブリタニア軍4,000とフランク国民軍18,000という布陣を取った。対する伯爵=帝国軍は、帝国が誇る鬼族系奴隷兵25,000を前衛の「楔」とし、その後方に帝国正規軍1,000、そして最後衛にオルレアン伯爵の本隊21,000という、一塊となって前後に分かれた陣形を形成していた。
連合軍は横に広く展開し、中央をあえて奥側に引き込ませることで相手を包み込むような構えをとる。対する伯爵=帝国軍は、強固な密集陣形を組み、一点突破を狙う鋭い楔のような布陣だ。アレク大公、グレヴィル卿、アルフォンソ国王はその中央奥の陣営から、刻一刻と迫る死の気配を注視していた。
空を飛ぶ鷹の目で見れば、その対峙は鮮明だ。伯爵=帝国軍が中央に固まり、連合軍が大きく弧を描いて相手を包み込もうとする陣容は、あたかも巨大な蛇が獲物を囲い込むような様相を呈していた。両軍がゆっくりと距離を詰め、対峙する。奴隷兵たちは平原の中央付近まで進み出たが、連合軍は平原の縁沿いに踏みとどまり、不用意に中央へは進もうとしない。
「それでいい。焦ることはない」
アレク大公は、戦術地図に落とされた汚れを指でなぞりながら、独り言のように呟いた。その横に立つアドルフィーネ・ヴォルフハルトもまた、黒狼騎士団長としての鋭い眼差しで戦場の機微を感じ取り、張り詰めた面持ちでその一挙手一投足を見守っている。
一方、敵軍の後衛に控えるオルレアン伯爵は、その眼下で繰り広げられる静かなる膠着に苛立ちを覚えつつも、注意深く観察を続けていた。伯爵の背後には、策謀を巡らす文官クロウド、無骨な重装騎士団長ガストン、近衛騎士団長トリスタン、『蛇の眼』の異名を持つベアトリスの四名が控える。その横に、金ぴかの軍装を纏い、威風堂々と髭を蓄えた男が立っていた。
男の名はベルサリウス・コンストス。東ロマヌス帝国軍将軍にして、この遠征軍の司令官である。コンストスは、戦場を見下ろすオルレアンの横顔に、自信に満ちた笑みを浮かべて語りかけた。
「オルレアン殿。どうですかな。敵方の様子は」
「……どうやら正面衝突を嫌っているようですな。帝国軍の練度と、奴隷兵団の姿に恐れをなしているようです」
「はっはっはっ!戦端が開けば、その恐れは絶望へと変わりますぞ。先年の遠征で貴殿に敗れた第3兵団とは天と地ほどの違いがある、我らが真の実力をとくとご覧あれ」
「そうであって欲しいものですな」
「認識を新たにされることでしょう。我が精鋭たちの武威を」
「……そうであって欲しいものですな」
「まぁ、オルレアン殿はここでゆっくりご覧になっておられよ」
オルレアンは何も答えない。その鋭い視線は、動こうとしない連合軍の陣形に深く刺さっていた。
(……遅滞戦術か?臆したか、それとも何かを待っているのか?だが、何を?)
オルレアンは不穏な気配を察し、後ろに控える四人の側近たちに視線を巡らせる。
「クロウド、この戦局をどう見る」
「ゲルマニアのアレクは戦いを避けたがっているようです。あの将軍は焦れるでしょう。突撃を命じれば、敵の戦い方も露呈するはずです」
「では見せてもらおうか。アレクの戦い方を、帝国奴隷兵団の戦い方とやらを」
戦場に時間が止まったかのような膠着状態が続く。やがて、痺れを切らしたかのように帝国軍奴隷兵が動き出す。ゆっくりと、しかし確実に連合軍中央へ進みゆくその足取りは、ぬかるんだ土壌を容赦なく踏み砕いていく。この地盤では速度を活かした戦法は使えない。互いの武器をぶつけ合う、原始的かつ過酷な力技の消耗戦となるのは必至であった。
それは、鬼族の血が濃い大内海沿岸地域出身の奴隷兵の得意とする戦い方だった。彼らの運用は単純にして凶悪。「前進せよ。障害は除け。敵は倒せ」ただそれだけだ。本来、古代ロマヌス帝国重装歩兵の密集陣形・ファランクスを強いるべき場面だが、奴隷兵に渡されるのは大ぶりの剣のみ。彼らの優れた体力と防衛力を過信した帝国軍は、この強引な突撃を強いた。そして、それは戦場において“当たった”。
東ロマヌス帝国第4兵団、通称“奴隷兵団”。彼らはアフロディア側、コルディア首長国隣国アズラク出身の戦士団だ。戦うことが生きることそのものであった。彼らはただ命令されたから進むのではない。彼ら自身が戦い、殺し、略奪することを渇望しているのだ。
だからこそ、対峙していながら戦いを避けようとする連合軍の挙動に、彼らは激しい怒りを覚えた。歩みが速くなる。ゲルマニア軍の布陣へと、死の奔流が押し寄せる。連合軍中央は兵を少しずつ下げ、彼らを引き込んで左右から挟撃する腹積もりであったが、奴隷兵たちの突撃速度は想定を上回っていた。
「は、早い!」
ついにゲルマニア軍前面、ヴィットマンが鍛えた鉄鋼兵400とアズラク兵団が激突する。鉄鋼兵は、黒狼騎士団の突撃すら跳ね返したと言われるゲルマニア最強の盾だ。その盾が悲鳴を上げている。金属同士がぶつかり合う凄絶な音。「ぬ、ぬぅ!固い!速い!強い!」鉄鋼兵の指揮官が叫ぶ。アズラク兵の剣は斬るものではなく、岩石のように叩きつける。
がん、がん、がんっ!がん、がががん、ががんっ!――金属が悲鳴を上げ、砕け散る骨の音が響く。
「ま、まだか!もう持たんぞ!」
その時、左右から一斉に声が上がる。「射てぇえええ!!」
空気を切り裂き、数千の矢がアズラク兵へと降り注ぐ。「ぐぅう、やっと来たか!」
「鉄鋼兵を囮にする。その間に左右から挟撃する。ああ、剣を交える必要はない。アズラク兵団が鉄鋼兵に集中する間、左右から矢を射かけろ。油を、火矢を射かけろ」
「ただし、直射だ。直射できる距離まで接近せよ。その間、耐えろ!」
「ぐぁ!」矢を射かけられたアズラク兵たちから悲鳴が上がる。が、それでも鉄鋼兵への攻撃は止まない。
「次!油矢、火矢。てぇええ!!」ひゅん!ひゅん!
がしゃり。ぼっ!「ぐぁあああ!!」
火だるまになったアズラク兵たちが絶叫し、泥の中に転がり落ちる。しかし、彼らはひるまない。焼かれながらも鉄鋼兵に抱きつき、その盾を破壊しようとする。阿鼻叫喚の地獄絵図がそこに展開された。
後方の帝国軍から撤退を告げる鐘が鳴り響く。じゃーん、じゃーん。アズラク兵は不服そうに、しかし整然と平原の中央まで退いた。
この最初の衝突で、アズラク兵は数百の損害を出しながらも連合軍の牙を試した。2万を超える奴隷兵団にとって、それは微々たる損害に過ぎない。連合軍の鉄鋼兵は理解した。あと何回、この暴力に耐えられるか。このままでは全滅は避けられない、と。
アズラク兵は兵を二分した。今度は右翼のヒスパニア軍、左翼のブリタニア・国民軍へと矛先を変え、再び密集隊形で進撃を開始する。
大盾を並べ、その隙間から矢を放とうとする兵士たちの前で、アズラク兵が咆哮を上げる。「曲射では効かん。直射できる距離まで引きつけよ!」隊長の指示が飛ぶ。
理屈は分かる。効果があるかもしれない。だが、前面に立つ盾兵たちは極度の緊張に震えている。アズラク兵、通称“奴隷兵”の放つ強烈な“圧”は、彼らの勇気を削ぎ落としていく。
ざっ。ざっ。一歩ごとに迫る死の咆哮。
あと60歩。直射の距離になった瞬間、弓兵指揮官が声を上げようとしたその矢先、アズラク兵が大地を揺るがすような咆哮を上げた。
びりびりびりびり――――――!! 咆哮が戦場の空気を震わす。
微妙なタイミングのズレ。弓兵たちの命令が口を突いて出る前に、咆哮を上げた奴隷兵団の荒れ狂う嵐が、連合軍の防壁を粉砕せんと突撃を開始したのである。




