第7章:マレ・ド・フォン・ド・ブルーの泥濘と、歴史を変える覚悟
ルテティア陥落から五日が経過した。かつての王都ルテティアは連合軍の占領下におかれ、フランク王国を支配していた王族や廷臣たちの腐敗した権力構造は、根こそぎ解体されつつあった。しかし、解放されたはずの街に安寧は訪れない。戦火の余韻が冷めやらぬうちに、連合軍の陣営には、更なる絶望の影が忍び寄っていた。
ルテティア南南東10キロメートル。連合軍が前線の防備を固める中、斥候隊の隊長が血相を変えて王宮内の臨時作戦司令室へと駆け込んできた。
「報告いたします!ルテティア南南東10キロメートルの平原にて、オルレアン伯爵軍の本隊を確認!既に陣地構築を開始しており、その兵数は21,000と推測されます!」
その報告を聞いた瞬間、アレク大公は戦術地図の上に身を乗り出した。オルレアンは王都への最短ルートを完全に無視し、大きく迂回して北上してきた。なぜそこまでして遠回りをする必要があるのか。俺は地図上の地形を指先で丹念になぞる。そして、ある一点で指が止まった。
「……マレ・ド・フォン・ド・ブルー平原か」
アレクの呟きは、司令室に冷たい緊張を走らせた。そこは歴史に名高い『泥の墓場』である。地盤が異常に脆弱で、ひとたび軍勢がその地を踏めば、大地はスポンジのように水分を含み、進軍を拒む。重装騎兵の突撃は封じられ、我が軍が誇る戦車隊も、ゲルマニア公国軍の最強の矛である黒狼騎士団の機動力も、この泥濘に足を取られれば完全にその牙を抜かれることになる。
「戦場を選んだか……。オルレアンめ、ゲルマニア公国軍の強みを、地形そのものを使って殺しに来たな」
俺は司令部とは別のテントでオルレアン伯爵軍の報告を聞いて“上手い”と思った。
オルレアン伯爵は、連合軍の戦力構成を完璧に分析していた。力押しが通用しない泥濘地という戦場をあえて選択し、自軍には馬防柵や防御陣地を並べることで、こちらを挑発し、消耗させる算段なのだ。しかし、それだけでは勝てない。兵数でいえば連合軍の方が優位にある。伯爵がこの泥沼に自らを追い込むには、何かしらの確固たる勝算――あるいは、我々が予見できていない恐るべき『隠し玉』が必要なはずだ。
その思考を遮るように、天幕を突き破るかのような勢いでハンスが飛び込んできた。
「シン、大変だ……オルレアン軍に、とんでもない増援が合流した」
「増援だと?地方領主の寄せ集めか?奴らの兵数が21,000なら、今の我々でも対応できるはずだ」
ハンスは呼吸を整えることさえ忘れ、喉から絞り出すように衝撃の事実を告げた。
「違う……東ロマヌス帝国の軍勢だ。総勢26,000がオルレアン領を通過し、オルレアン領軍に合流しようとしている。しかも……その内の25,000は『奴隷兵』だ」
全身の血が沸騰する。
東ロマヌス帝国軍。しかも、帝国の暗部で飼い殺されている、人間としての意識を削ぎ落とされた殺人機械こと『奴隷兵』。彼らには痛みも、恐怖も、そして慈悲もない。個々の戦闘能力は正規歩兵の1.2倍から1.3倍に達し、その圧倒的な力押しによって戦線を粉砕する戦術を得意とする。連合軍の総勢に対し、敵の兵力は47,000。実に15,000もの圧倒的な戦力差を突きつけられた。
俺は戦術地図を睨みつけ、脳内でシミュレーションを繰り返した。泥濘地で、数で圧倒され、死を厭わぬ機械兵と戦う。小細工は通用しない。連合軍がいかにしてこの絶望的な数に抗うか。まずは兵数の再配置、次いで、戦いの目的そのものの再定義だ。何をもってこの戦いを「勝ち」とするか。
「ハンス、ルテティア市民の代表と接触する方法はあるか?」
「俺には伝手はないが……『Z』なら何とかするかもしれない」
俺が漆の名を呼ぶと、即座に影の中からいつもの間延びした声が聞こえた。
「噂をすればぁあ、漆、登場ぉ~!」
相変わらずの神出鬼没さだが、今はその得体の知れない女の力がどうしても必要だった。お前、ずっと聞いていたな?
連合軍の軍議の席は、もはや敗北の予感が支配する重苦しい沈黙に包まれていた。
アレク大公は、報告書を叩きつけるように机に置き、地図上のマレ・ド・フォン・ド・ブルー平原を深く睨みつけていた。
「なるほどな。オルレアンが時間を稼ぎ、あえてあの泥濘を選んだ理由はこれか。地盤の弱さを盾に、こちらの機動力を封じ込めるつもりだ」
「先手を取られたな」アルフォンソ王が短く吐き捨てる。
「しかし、東ロマヌス帝国の動きが早すぎる。帝国とフランクの間にはアルバレス山脈がある。オルレアンが情報を流し、引き入れたとしか考えられない」グレヴィル卿が絞り出すような声で続ける。
「奴の野望はフランク王国だけではない。帝国を囮にし、あるいは飲み込み、西方全域の支配を狙っているのかもしれん。それがオルレアン伯爵の計算か」
アレクのつぶやきに、天幕は重苦しい圧迫感に包まれる。そこへ一人の兵士が駆け込んできた。オルレアン伯爵からの宣戦布告状。2日後の決戦を告げる書状だった。
「地の利、数、時間。全ての理が敵に味方している……」
アレクが敗北を悟りかけたその時、天幕の入り口が開かれた。
「よう、アレク。それにグレヴィルのおっさんにアルフォンソ王」
俺は漆に繋ぎを頼んだ二人、ピエール・ルブランとジャン・クロード・モランを伴い天幕の中へ入っていった。
彼らはかつてルテティアの地で、貴族の圧政に最後まで抗い続けた指導者たちだ。
天幕に入って早々に彼らが口にしたのは、狂気じみた申し出だった。
「我らルテティア市民兵とフランク国民軍は、3国軍に付きます」
「市民兵だと?そんなものがあるとは聞いていない」
アルフォンソ王の驚きに対し、モラン市長は毅然と語った。
「我々はルテティア大虐殺以来、王侯貴族の圧政に耐えかねて武器を手にしました。我々はオルレアンがフランクを制し、再び圧政を敷くことを望んでいない。帝国に蹂躙されることもだ。我々は皆さまと共に立ち上がりました」
ルブランが言葉を継ぐ。
「元兵士、衛士、徴用兵……家族と誇りを守るために立ち上がった18,000の民がいる。既にルテティア北西12キロに集結している。我々の命を、あなた方の戦術の一部として使っていただきたい!」
天幕の空気が一変した。アレク大公の瞳に、かすかな、しかし強烈な闘志の火が灯る。
「……ルテティア市民兵と国民軍、その覚悟、預かった」
アレクは立ち上がり、地図上に配置された駒を大胆に動かした。
「シン、あんたの戦術に、この18,000の民を組み込めるか?泥濘という地獄を、逆手に取る策をだ」
俺は決意を込めて双刃を握り直した。
「ああ。オルレアンの傲慢な盤面を、血と泥の中に叩き込んでやる」
2日後の決戦。運命は、マレ・ド・フォン・ド・ブルーの泥の中で決まる。名もなき民の憤怒を糧に、俺たちは歴史を書き換える戦いへと踏み出す。これが、俺たちの、そしてこの国の真の終焉か、あるいは新しい始まりか。オルレアンよ、地獄で待っていろ。貴様の計算外のものを、今、見せてやる。




