第8章:泥濘の盤面、王と民と傭兵の覚悟
「この兵力をあなた方に預けます。オルレアンと帝国を打倒するために協力してください」
天幕の空間が、わずかな静寂に支配された。ルテティア市民兵の代表、モラン市長が発したその言葉には、極めて象徴的な矛盾が孕まれていた。軍事指揮権の全権委任を意味する「預ける」という言葉と、対等な立場を要求する「協力してください」という言葉。それは、今のフランク市民兵、および国民軍が置かれている危うくも強固な立ち位置を物語っていた。
彼らには正規の将軍はいない。しかし、この国を蹂躙する敵から守るという主導権を、異国の軍勢に明け渡すつもりもまた、毛頭ない。一時的に軍事指揮権を委ねるが、あくまでこれはフランクの民による戦いであるという主張がそこにあった。
俺はアレク大公の横顔をじっと見つめた。彼は、その言葉に隠された複雑な意図を熟慮している。
「協力させてください」ではなく、「協力してください」と言ったその意味を、お前は理解できるか、アレク。
俺も驚いた。目の前の二人は平民だ。貴族でも、領主でも君主でも、当然ながら支配者でもない。確かに街の指導者ではあるが、伝統的な封建社会のお前たちから見れば、唯々諾々と命令を受け、従うだけの存在にすぎなかったはずだ。
だが、今彼らは毅然とお前たちに向かって、対等の立場で「協力してほしい」「共に戦え」と迫っている。
俺は視線をグレヴィル卿に巡らせた。彼は驚愕に目を見開いているが、貴族特有の傲慢な不快感はなかった。
問題はアレクだ。察しろ、分かれアレク。今、歴史の歯車が変わり始めていることを。この泥濘の平原が、旧時代の終焉と、名もなき民の時代の幕開けになるかもしれないということを。
モラン市長は、張り詰めた沈黙を切り裂くように言葉を続けた。
「大変ご不快に思われたのであればお詫びします。あなた方にはこのフランクの闇を祓っていただいた恩は感じています。ですが……私たちも自分たちの国を、市民の生活を守りたいのです。だからこそ、私たち自身が矢面に立って、次の戦い、戦って勝ちたいと思っているのです」
アレクは黙って二人を見据えた。大公としての威厳が天幕を満たす。だが、その瞳に宿っているのは怒りではなく、次なる時代の指導者を見るような、鋭く、かつ重い思索の色だった。
「……理解した」
アレクはそう告げると、無骨な手を差し出した。
モラン市長が驚きに目を見開く。一国の君主が、平民に向かって自ら手を差し伸べる。その光景に、天幕内の空気が一変した。モラン市長はアレクの手を両手で強く握りしめる。「ありがとうございます」と、その声には決死の覚悟が滲んでいた。
「それと、王と宰相の処遇だが、貴様らに預ける。好きにせよ」
突然の宣告に、今度はグレヴィル卿が息を呑んだ。
「……良いのですか?」モラン市長が問い返す。
「あ奴らの処遇は貴様らに一任する。自分たちの国を憂い、死を覚悟して立ち上がったのであれば、その首をとる責任を我々に押し付けるな。貴様らで処理しろ」
アレクの言葉は冷徹だった。それは支配者としての放任ではなく、一人の独立した戦士として扱うという、彼なりの最大限の敬意だった。俺はその光景に、不敵な笑みを浮かべる。するとアレクはジロリと俺を睨み、「なんだ?」と不機嫌そうに言った。
「いやぁ、何でもない。ただ、いい顔になったなと思ってさ」
俺は睨みつけるアレクを無視して、作戦テーブルに身を乗り出した。
「アレク、グレヴィルのおっさん、アルフォンソ王。これでオルレアン=帝国軍47,000に対して我らは50,000。3国、いや4国の混成軍、数の不利はなくなった」
天幕の中の君主たちが、俺の一挙手一投足に注目する。
「問題は指揮系統だ。グレヴィル卿、アルフォンソ王、総指揮はアレクに任せるのか?」
ヒスパニア軍14,000、ゲルマニア公国軍12,000、ブリタニア軍6,000、そしてフランク国民軍18,000。総計50,000。
数の上では市民軍が最大だが、精強さにおいてはゲルマニアの黒狼騎士団が群を抜いている。しかし、この戦場、マレ・ド・フォン・ド・ブルー平原は地盤が脆弱な泥濘地だ。騎士の華である騎馬の優位性は完全に封じられ、全軍が泥に足を取られながらの過酷な歩兵戦を強いられる。オルレアンはそこまで計算に入れて戦場を選んでいる。
アレクが深く頷く。「全体の指揮は、この私が預かる」
「よし、ならば決まりだ。4国連合の総指揮権、アレク、お前に預ける」
アレクはそのまま黒狼騎士団長アドルフィーネ・ヴォルフハルトを招集した。ツェンがその傍らで静かに書類を広げる。
アドルフィーネは状況を聞かされると、重苦しい表情で地図を凝視した。
「開戦まで2日、脆弱な地盤、国民兵を含む50,000の統率……。正面衝突は避けるべきです。これは間違いなく、泥の中での凄惨な消耗戦になります」
「ツェン、情報を」
「はい。一つ分かったことがあります。東ロマヌス帝国軍のうち20,000は、大内海沿岸地域から買い付けられた鬼族系奴隷兵です。その身体能力は人族を遥かに凌駕し、特に近接戦闘における攻撃力は一騎当千。奴らは恐怖を知らず、ただ主の命に従い前進する……まさに『死の楔』として投入されています」
「一筋縄ではいかないな……」
天幕の中に再び暗雲が垂れ込める。正面衝突すれば、まず帝国軍奴隷兵の波に飲み込まれる。その被害を盾に、後方で温存された伯爵軍が陣形を整え、我らを蹂躙する。味方の軍は消耗し、伯爵軍は無傷。戦術を駆使すれば勝てるか?いや、こちらの考えることは敵も考える。味方の全滅は避けられない。
ツェンが冷静な声で結論を告げる。
「シンさんと戦況予測をしました。正面衝突は連合軍に圧倒的に不利です。奴隷兵25,000に対して、我が軍の被害予測は30,000弱。残存戦力20,000で、27,000の伯爵軍に当たるのは物理的に不可能……。兵力の逐次投入は被害を増やすだけです。ですが」
「ですが、全軍を投入できる余地がこのマレ・ド・フォン・ド・ブルーにはありません」
沈黙が支配する中、アレクでさえ答えを出せずにいた。帝国軍奴隷兵という、戦略外の異物が戦場のバランスを完全に破壊している。
俺は三人の君主を観察した。アルフォンソ王は戦いを避けたい。グレヴィル卿は撤退の最適解を探している。現状、真に「勝利の道」を探し続けているのは、アレクただ一人だ。
だからこそ、俺が口を開く必要があった。
「なあ、アレク。この戦いの勝利条件は何だ?」
「勝利条件?決まっている、伯爵と帝国軍を打破することだ」
「違う!」
俺の否定に、全員の視線が集中する。
「全滅させることが勝利条件ではない!もっと被害を少なくできる方法がある」
アレクが、はっとしたように叫ぶ。「まさか……首狩りか!」
「そうだ。オルレアン伯爵を殺せば、それで戦いは終わる。少なくとも利害で繋がった伯爵軍は瓦解する」
「だが帝国軍は止まらない!」
「それこそ国民軍をはじめ、皆で帝国軍を潰せばいい。だが帝国軍をフランク領まで引き入れた張本人がいなくなれば、奴らがこの地に留まる名分がなくなる」
「いいか、俺の作戦はこうだ。まず帝国軍奴隷兵に対しては極限の遅滞戦術で時間を稼ぐ。その裏で、俺がオルレアンの首を狩る。首狩りが成功すれば帝国軍を叩き潰す。伯爵軍に対峙し、戦闘の是非を問う。続けるなら戦えばいい、しないならそこで終わりだ」
「それに……、帝国の奴隷兵を潰せる、それは無理か。減らせる方法がある。損害は覚悟する必要はあるが。」
俺のことばにアレク大公の目が光る。
「だがシン、それは賭けだ。首狩りが上手くいった場合の話だ。失敗すれば?」
「失敗すれば、連合軍は撤退する」
天幕が騒然とする。「撤退だと?」
「引けば、残るのはフランク王国民、伯爵軍、そして侵略者たる帝国軍だ。オルレアンがフランクを支配するなら、自らの領土で暴れる帝国軍を放置することなどできない。奴は必ず帝国軍を追い出すか、叩く。我々は漁夫の利を獲ればいい」
「……ふん、変則的だが、理に適っているな。オルレアンは侵略者を叩く英雄となり、フランクを統べる君主になるというわけか」
「その通りだ。だが、それを阻止するためにこそ、我々は撤退して次なる戦いに備える必要がある。市民軍の『核』となるメンバーを一人でも多く残せ。彼らこそが、この国を真に解放する起爆剤になるんだ」
アレクは目を閉じ、長い沈黙の後に覚悟を決めた。
「……成功しても、生還の可能性は低い。誰が実行する」
俺は双刃を抜き放ち、決意を刻み込んだ。
「俺がやる。俺たちが、緋色の傭兵団が、あの傲慢な伯爵の首を、この泥濘の地獄から引きずり出してみせる」
この戦いは、勝敗だけが全てではない。誰が犠牲となり、誰が未来へ繋ぐか。その命の帳尻を合わせるために、俺たちは死地へ足を踏み入れる。歴史は、誰が最後に立ち続け、誰がその意志を次へ託すかによってのみ、刻まれるのだ。




