第4章:ダンク入港
ドルベス海峡を吹き抜ける冷たい潮風が、フランク王国側の玄関口、ダンクの港を包み込んでいた。
ここは北外海を経由し、ブリタニアや北方諸国との大貿易を担う商人の街。海峡を行き交う無数の船舶が、日夜この港へと接舷している。
いま、その岸壁に、ブリタニアからやってきた三隻の大型帆船が、ゆっくりと接舷しようとしていた。
「やっっ……と、着いたぁぁぁぁ………!」
船の甲板から、魂の抜けたようなヤミルの絶叫が響き渡った。
「もう一歩も動けねぇ……早く、早く俺をこの揺れる監獄から降ろしてくれぇ……」
「静かにしなさい、ヤミル。物事には順序というものがあります。着岸が完了するまで大人しく待っていなさい」
古参のオットーが、手慣れた様子で荷物の目録を確認しながら彼をたしなめる。
「だってよぉ、オットーさん…、 胃袋がひっくり返りそうなんだよぉお…」
そんな騒がしいやり取りを背中で聞きながら、団長代行たるシンは、静かに港の様子を睥睨していた。その隣に、特務隊を率いるハンスが音もなく立つ。
「……戻ってきましたね、フランクへ」
「ああ」シンの声は低い。
「これからどう動く?」
「しばらくは派手な動きは控える。まずは徹底的に情勢を探り、あの男の動向を掴む。次の手を決めるのはそれからだ」
「分かった。なら、俺たち特務隊の出番だな。すぐに街へ『雀(工作員)』を放つ」
「頼んだ」
そこへ、足音を荒々しく響かせて一人の男が近づいてきた。ブリタニア海軍少佐、トーマス・ヴェインである。
「おいシン! やっとお前らのあの小煩い奴らから解放されると思うと、せいせいするぜ。特にあの野生児ガーブの手綱だけは、大陸へ降りても絶対に離すんじゃないぞ」
「はは、すまないな、ヴェイン少佐。航海中、散々迷惑をかけた。よく言っておくよ」
「ふん、これで本当にお別れだな」
ヴェインは少し寂しげに笑い、シンを見つめた。
「ブリタニアを代表して――なんて大袈裟なセリフは柄じゃないが、お前たちには国を救ってもらった。心から感謝する」
そう言って、ヴェインが大きな右手を差し出す。シンはその手をしっかりと握り返した。
「感謝を受け取ろう。だが、本当に挨拶すべき相手は、うちの『首狩りの女狼』にするのが筋じゃないか?」
その言葉が出た瞬間、ヴェインの顔が恐怖で劇的に歪んだ。
「勘弁してくれ! 挨拶のついでにまた背負い投げで甲板に叩きつけられては、俺の骨が何本あっても足りん!」
二人は顔を見合わせてにやりと笑い、ヴェインは「じゃあな、生き残れよ」と言い残して、自らの部下たちの元へと去っていった。
シンは船尾へと歩み、遠ざかるブリタニアの水平線を見つめた。
あの島国では多くのことがあった。激しい戦いの中で、新しい仲間も増えた。コナ、フィニ、コー率いる五十名の戦闘集団「クリシュ・アラン」。そして、元『鉄理の規矩騎士団』の十二名と、彼らを束ねるエドワード元隊長。
総勢二百六十名。これほど多くの命が、今や自分の双肩に懸かっている。
ゲルマニアで、自分の計算違いによって死なせてしまった仲間の顔が脳裏をよぎる。
(これからも戦いは続く。いや……これからが本番だ。あの男――オルレアン伯爵は、決して侮れない怪物だ。俺たちが正面からただ突っ込めば、巨大な顎を開けて待っているだろう)
俺たちの動きは、すでにあの男に露見しているだろうか。いや、露見している前提で動くべきだ。ゲルマニアでの俺たちの動きすら、ブリタニアの連中が掴んでいたのだ。オルレアン伯の情報網がそれを逃すはずがない。これほどの規模の部隊だ、かつてのように隠密裏に移動するなど不可能なのだから。
「下船開始だ! 急げ!」
甲板にオットーの鋭い声が響く。真っ先に船を飛び降りたヤミルが、地面にキスをする勢いで転がっていった。
その横から、獣のような咆哮が上がる。
「よっしゃぁぁぁーー! 陸だぁぁぁ!」
野生児ガーブが、爆発的な勢いで走り出していた。屈伸や柔軟運動をひとしきりこなしたかと思えば、そのままクリシュ・アランの連中を巻き込んで走り回っている。
「おい、街中で喧嘩するんじゃないぞ!」
シンはため息をつきながら、自らもタラップを降りて大陸の土を踏みしめた。
二百人以上の大世帯、しかも完全な武装集団の宿を手配するのは、さすがのオットーでも不可能だった。結局、街の役人に金を掴ませ、案内された街外れの荒涼とした広場を拠点とすることになった。手際よくテントが設営され、瞬く間に巨大な野営地が完成する。
後方支援の女性団員や子供たちが、活気づく市場へと新鮮な食材を買い出しに走っていく。
「今夜はエマおばさん直伝の野菜ごった煮シチューだね!」子供たちの歓声が響く。
(エマおばさんは元気にしているだろうか。マルコは……役場でうまくやっているか?)
ふと、かつての仲間の顔が浮かぶが、シンはすぐにその思考を振り払った。今の自分たちが彼らに接触すれば、それだけであの男の牙が彼らに向く。近づくことはおろか、手紙一通出すことすら命取りだ。
だが、人の口に戸は立てられない。特務隊の放つ『雀』たちに、大いに街の情報を囀ってもらうとしよう。
ハンスはすでに特務隊を四方に散らせ、完璧な警戒網を敷いている。
オットーは、野営地の周りにたむろしている地元の行商人たちに巧みに話しかけ、そのまま商人ギルドへ情報を仕入れに向かった。いや、今回はブリタニアの最新情勢という「極上の商品」を売りに行ったのだろう。年中「金がない」と頭を抱えているオットーのことだ、さぞかし高値でふっかけているに違いない。
ダンクは長年、対岸のドルベスとの交易で栄えてきたが、百年戦争によってその血脈は一度途絶えた。戦後、関係が改善されるに伴い交易は再開されたが、依然として入国や関税の制限は厳しい。最新のブリタニア内部の情報は、商人たちにとって喉から手が出るほど欲しい代物なのだ。
野営地の中央では、相変わらず「俺、ふっかーつ!」と叫ぶヤミルがクリスの腕を引っ張って酒場へ直行しようとし、ガーブはコナやフィニたちと激しい木剣の打ち合いを始めている。
イエーガー率いる狩人隊は馬の世話をこなし、そこに元鉄理の規矩騎士団の面々が合流して熱い馬談義に花を咲かせていた。すぐに酒が入りそうな雰囲気だ。弓隊の面々は、近くの森からさっそく野鳥や野兎を仕留めて戻ってきた。
久しぶりの、穏やかな時間だった。
船上では戦闘こそなかったものの、身動きが取れない閉鎖空間の中、ヤミルの船酔いのうめき声と、ガーブの「退屈だ!」という叫び声に挟まれ、シンの神経は磨り減っていた。ようやく全員がそれぞれの役割に没頭し、シンの心にもわずかな安らぎが訪れる。
シンは、自身の小ぶりな指揮官用テントへと足を踏み入れた。
テントの隅に置かれた、二つの頑丈な木箱に視線を落とす。
一つの箱には、これまでの戦いで命を落とした団員たちの「遺髪」が入っている。
もう一つの箱には、彼らの「遺品」が詰まっていた。
「傭兵は根無し草だ。死んだらそれでお終いさ」
誰もが口にする言葉だ。だからこそ、シンは言い続けてきた。「死ぬな、生き残れ。生き残ることだけが、俺たちの存在の証明だ」と。
多くの傭兵には家族がいない。団そのものが家族だった。シンも、ガーブも、ハンスもそうだ。
だからこそ、シンは緋色の傭兵団に加入するすべての団員にある誓約を交わさせていた。
「遺書を書く」ことだ。もし、万が一のことがあった時、郷里に親や子供、あるいは隣の優しいおばちゃんでもいい、死を伝えるべき相手がいるなら、その名前と、遺髪や報酬の送り先を書いておけ、と。
戦場で倒れた仲間の死体を、遥か故郷まで連れ帰ることはできない。通常の傭兵団であれば、死体はその場に打ち捨てられる。近隣の住民に身ぐるみを剥がれ、運が良ければ土をかけられ、悪ければ野犬や烏の餌になるのがオチだ。
だが、シンは約束した。死体は必ず、尊厳を持って埋葬する。武器や防具は仲間が引き継ぎ、それ以外の個人的な遺品は、引き取り手がいれば、遺髪と報酬と共に必ず届ける、と。
その結果、これまでに戦死した十八名のうち、十五名の遺髪と遺品、そして報酬がこの箱に集まっていた。
最初に遺書を書けと命じた時、半分以上の連中が「字が書けねえ」と溢した。何を書いていいか分からないと頭を抱える連中を前に、シンは面倒になってすべてオットーに丸投げした。オットーは嫌な顔一つせず、根気よく彼らの話を聞き、代書してやったのだという。
シンがその十八名の遺書を改めて確認した際、奇妙なことに気づいた。
一人だけ「娘に渡してくれ」とあり、二人は「マルコのところの孤児院に寄付してくれ」とあった。だが、残りの全員の遺書には、こう記されていたのだ。
『俺の遺産はすべて、シン副団長に譲る』、と。
理由が分からずオットーに尋ねたところ、苦笑交じりに真相を教えてくれた。
「身寄りのない連中に、ガーブが言ったんだよ。『なら、一番長生きしそうな奴か、一番世話になった奴の名前を書いておけ』ってね。そうしたら連中、ワイワイ騒ぎ始めてさ。結局、全員がシンの名前を書いたんだ」
亡くなった奴らは、以前所属していた傭兵団での待遇が最悪だったらしい。ゲルマニアの弱小傭兵団など、どこも使い捨ての奴隷扱いだ。だが、緋色の傭兵団に来て、人間としての扱いと正当な報酬を得られた。それを実現してくれたシンに、彼らは心から感謝していたのだ。
「馬鹿な奴らだ……」
シンはぽつりと呟いた。受け取った遺品を持て余し、手を触れることもできず、ただ箱にしまってある。
木箱のざらついた表面に、そっと掌を当てた。
(お前たちは……俺の命令で死地へ追いやられ、俺を憎んで死んでいったのか? 俺はまだ、お前たちのところへ行くわけにはいかない。恨むなら恨め。呪うなら呪え。ただ……あと少しだけ、俺に時間をくれ)
「シン、入るぞ」
不意に、テントの外からハンスの緊迫した声が響いた。
「ああ、入ってくれ」
引き戸を開けて入ってきたハンスの顔を見た瞬間、シンの全身の毛穴が収縮した。ただ事ではない。
「ダンクの街の空気が変わった。雀たちからの緊急報告だ。俺自身も確認した」
「……何があった」
「俺たちは完全に包囲されている。手際からして、どこか大国の『暗部』だ。さらに、ダンクの街の南東方面の平原に、フランク王国の『西方方面軍』の先遣隊が展開しつつある。雀たちが狂ったように囀っている」
シンの脳裏に、冷酷な火花が散った。
「……早速来たか。ダンクに到着したその日のうちに、軍と暗部を同時に動かしてくるか。フランク王国で、これほどの迅速な決断と軍の動員を行える男は……一人しかいない」
オルレアン伯爵。
思ったよりも、奴の指し手は遥かに早い。俺たちが陸地に上がった、最も油断する瞬間を完璧に狙い撃ちしてきたのだ。正規軍の物量による包囲と、暗部による確実な暗殺の挟み撃ち。
「油断したな。完全休息を指示したのが、最悪の仇となったか……」
シンは低く毒づきながらも、その瞳の奥の「戦術眼」は、すでに猛烈な速度で逆転の計算を始めていた。




