第8章:黄金の仮面と、燻る動乱の火種
黒鉄期1739年は、西方諸国にとって一見すると平穏な年であった。大規模な戦争の影は薄く、社会不安という名の深い亀裂を内包しながらも、庶民は日々の暮らしを大過なく過ごしていた。
ゲルマニアでは、アレク大公の国家経営が力強く軌道に乗り始めていた。アレク大公は国家の礎を強固な“武”によって固めた。かつてゲルマニアが傭兵たちの欲望に支配されていたという苦い経緯から、国を揺るがす敵対勢力を徹底的に潰し、排除し、国と国民の安寧を保障する軍事国家を目指したのである。
「ブリタニアを害する者は、何者であれ排除する」というその宣言は、多くの国民から熱狂的な支持と歓迎を持って迎えられた。
ブリタニアでは、エンガード、ガレシア、ウルステア、スカイウェールとの融和と協調路線が本格的に機能し始め、連合国家としての基盤が安定してきた。四国連合王権の礎を盤石にするため、自らをエリザベス1世と名乗った彼女は、その幕僚たち――後の十三翼とともに「ブリタニアに千年の繁栄を!」と高らかに宣言。連合王権の未来を誓い、その視線は既に“国外”という広大な地へと向けられていた。
一方、フランク王国では、富が王宮と一部の特権階級へといびつな形で集中し続けていた。「我がフランク王国は千年の安寧にある」と、国王はその栄華に深く酔いしれている。周囲の貴族たちもまた、その甘美な酒に追従した。西方諸国の中で、長年にわたり大きな戦禍に見舞われていないという事実が、彼らの傲慢を加速させていた。
「見よ、この余の国を!先年の南の蛮族を退け、盤石な王国を築き上げたのだ!他国を見よ!ゲルマニアは数百年もの間、傭兵などという下賤の輩に領土を欲しいままに切り取られていた。ブリタニアは四国に分裂して内紛が絶えない。ヒスパニアに至ってはコルディア人に蹂躙され、未だ回復の兆しすら見えぬ!フランク王国は、神によって統治を認められた余がいる限り、栄華を極める千年王国を約束されているのだ!我を、余を、讃えよ!!」
ルイ・シャルル・ド・ヴァロア王は嘯く。その仮初の栄華が、庶民の過酷な税と血を吐くような労働、そして国民の涙で成り立っていることを、彼はとうに忘却していた。
だが社会のあちらこちらで、動乱の火種は、静かにしかし確実に燻り続けている。王都の民は、夜ごとに煌煌と明かりを灯し、宴に興じて戯れる王城・天輝黄金宮を見上げる。そこにはただの諦念を超え、鋭利な憎しみの炎が宿っていた。
「あそこでは夜ごと、食べきれないほどの御馳走が溢れ、平気で捨てられている。俺たちは我が子に一欠けらのパンを与えることもできないというのに」
「あそこでは華美なべべを纏い、優雅に踊り遊んで暮らす貴族がいる。俺たちは休みなく働いて、その日の糧にも窮する有様だ」
「生まれが違うだけで、なぜこれほどまでに理不尽な差が出る?儂らは何だ?あそこに巣くう貴族様のためだけに、家畜のように生きてゆくしかないのか」
「それ、おかしくないかい?」「おかしいと思わないかい?」
城下町、村々、酒場の片隅や暗がりで、悪意と熱を帯びた囁きが煽られる。
「まあ、こんなに痩せてしまって。パンが食べられないの? 働きが悪いのかしら。もっと精励しなさい。怠けちゃだめよ?」
食事も睡眠も削り、死に物狂いで働く庶民に投げかけられる貴族の無慈悲な言葉を、どう思う?
「税が払えん?なら農奴になれ。税を払わなくてもよいぞ、働きに応じた餌をやる」
奴らはお前たちを、家畜以下としか考えていない。おかしいと思わないのか?
――おかしい……おかしいのか?いや、おかしい!なぜ俺たちはこんな苦しい生活を強いられなきゃならないんだ!
「それは貴族がいるからだ。あいつらが消えれば、俺たちの生活は楽になる」
――そうか……奴らを追い出せばいいのか。でも、誰がそれを成し遂げるんだ?
「あんたら自身がやればいい」
――俺たちが?そんなの無理だ、騎士に勝てるわけがねぇ。
「では、諦めるか?」
――仕方ねぇだろ……。
「あんたはそうやって諦めるのか。だがあんたの子供は、孫たちは、あんた以上に苦しい地獄を強いられるようになるかもしれないぞ。それでもいいのか?」
――仕方ねぇだろ!俺たちにはどうすることもできねぇんだ!
「そうか?よく考えろ。あんたを後押しし、助けてくれる同志がいれば、手を上げるか?」
――そんな方がいるわけねぇ……。
「どうしてないと言い切れる?いるよ。今も仲間を集めてらっしゃる。腐った貴族ではなく、貴族に絶望したあんたのような者をな」
――そんな方がいるのか?
「いらっしゃる」
――会えるのか?
「今は無理だ。もっと多くの同志が必要だ。どうだ、あんたも仲間になるか?」
――……なる。少しでも生活が楽になるなら。
男はにやりと笑った。「今日からお前も仲間だ。だが、もっと仲間が欲しい」
――分かった、俺が集めてくる。
「頼んだよ。ああ、だが静かにやれよ。警ら隊に気づかれないように。慎重にな」
男は口に指を当て、薄暗がりで妖しくほくそ笑み続けた。
一方、ヒスパニアでは歓喜に包まれた年を迎えていた。年初、国王アルフォンソ・デ・レオンが『国土回復運動の終結』を宣言したのである。400年続いた苦渋の時代の終わり。アルフォンソ王は南部解放に尽力し、その過程で落命したアギラドス公爵の功績を国史に刻むと称えた。さらに南部地域を王家直轄領と定め、移住者へ3年間の免税を約束して再開拓民を募ったのだ。
「3年間税金が払わなくていい」「自分の土地が持てる」「新しい商売ができる」
夢を抱き、多くの庶民や農民、鍛冶屋や商人が南部への移住を決意した。
「ここは税が高すぎる」「領主は何もしてくれないくせに横暴だ」「また税金を上げるというのか」
「もう、我慢できねぇ」
そう言って、土地を捨てて去る者が絶えない領地があった。ヒスパニア東部、サントス領である。
サントス家は立地上、フランク王国との交流があり、交易で栄えていた。レオン家は各地の領主に質素倹約を求めたが、サントス家はフランク王国の華美な生活を知ってしまった。商人たちはフランク王国の貴族を賛美し、質素なサントス家の生活を露骨に小ばかにした。
「申し上げにくいのですが……フランク王国の貴族様を、こちらにお連れするのは躊躇われます。少々みすぼらしくて……あ、いや、失礼いたしました」
ロドリゴは憮然とする。
「今のサントス様では体裁が悪うございます。お貴族様なら、権威をお示しなされ。さもなくばバカにされますぞ?」
「領地経営が上手くいっていない?それは貴族としての権威を示していないからです。力を見せつけなさい。逆らう者は厳罰を持って処せばよい。あなた様にはそれだけのお力があるのですから」
“そうだ。貴族らしい生活を求めて何が悪い?”
彼は生前のアルバドス家を思い出す。広大な南部地域を支配するが故の財。対して自領はアギラドスに比べ面積も小さく、生産物も少ない。自分はこの貧しい領地で一生を終えるのか。
“自分自身が変わればよいのだ。ここは自分の領地だ、好きに生きさせてもらおう”
ロドリゴは変節した。身の回りをフランク王国製の装飾品で飾り、その代償として領民への税を過酷に引き上げた。屋敷の改装のため領民を強制労働させ、払えない者は農奴に落とした。フランク王国から来た商人に人身売買を許し、賄賂を得た。商人たちと饗宴を開き、貴族を紹介されるたびに悦に浸った。
しかしロドリゴは気づいていなかった。その商人たちが、オルレアン伯爵の命を受けてヒスパニアの領主を凋落させるために送り込まれた刺客であることに。
「いずれヒスパニアも我が版図に加える。貴様はその尖兵として、まずは東を掌握せよ」
商人はその足でサントス領へ向かう。商人はロドリゴを完璧に掌中に収めた。質実剛健だった彼の誇りを貶め、唆し、依存させた。結果、ロドリゴ・デ・サントスは、ヒスパニアの王ではなく、フランク王国、オルレアン伯爵に向かって跪くこととなったのである。




