第1章:蛇の抜け殻と喪失の荒野
フランク王国リュクドン、リュクデナ・プレトリア城。フランク王国東南部、峻険なアルバレス山脈の麓に建つこの城は、訪れる者によって評価が真っ二つに分かれる場所であった。ある者はその威容を「華やかさに欠ける」と切り捨て、ある者は「質実剛健の極み」と称賛する。アルマン・ド・オルレアン伯爵がロアン家の古びた砦からこのオルレアン家の本拠であるプレトリア城に移り住んでから、はや15年の歳月が流れていた。彼の元を訪れる訪問者たちが、城の無骨さを指摘するたび、アルマン・ド・オルレアン伯爵は冷ややかな鼻で笑ったものだ。
「城の煌びやかさを自慢して何の意味がある?華やかさ?それが一体、私の野望の成就に何の役に立つというのだ」
その城の2階、奥まった場所に位置するオルレアン侯アルマンの執務室。領地管理に関する膨大な記録が整然と並べられている重厚な書棚、壁一面を覆うように張り巡らされた西方地域の詳細な軍事地図とフランク王国の広域図。飾り気のない、どこか無機質な冷たさを漂わせる殺風景な部屋である。
その執務机で深く腕を組み、不遜な笑みを浮かべて座るアルマン。その威圧的な気配の前に、暗殺組織『蛇の眼』の指揮官、ベアトリス・ド・ラヴァルが、背筋をピンと伸ばしたまま、しかし顔には隠しきれない緊張の色を浮かべて立っていた。
オルレアン伯爵が、重々しく口を開く。
「……報告を聞こう。どうなった」
「はっ」
ラヴァルの頬を、一筋の冷や汗が伝い落ちる。伯爵はその小さな綻びを一瞬だけ鋭い眼光で射抜いたが、すぐに表情から感情を消し去った。
「事実だけを述べよ」
「は!過日、緋色の傭兵団団長ガーブを捕獲したとの報告に基づき、傭兵団の反撃に備えて支援の依頼がありました。これに対して、精鋭部隊である4小隊、40名を現地に急行させました。しかし7日前、北西の港町において、人智十字会の大司教がガーブに対し魔女狩り裁判を強行。火刑を断行し、ガーブの死亡を確認いたしました。その際、緋色の傭兵団の熾烈な襲撃を受け、大司教並びに、記録担当の2名を除いた我々の蛇の眼、61名が全滅いたしました。……以上です」
「……捕縛を命じたはずだ。処刑は、大司教の独断か」
「左様であります。……その、ガーブに体の一部を傷つけられ、激昂した大司教が私憤に駆られて強硬に執行を命じたとのことです」
「体の一部?」
「その……男性の……極めて重大な部位を……」
「ふっ。分かった。しかし、生け捕りにして手にかけていいとは言ったが、火刑とはな。魔女か……。ゲルマニア、ブリタニアを救った救国の英雄を魔女として焼くとは。実に滑稽な話だが、十字会らしいといえばそうかもしれんな」
伯爵は低く笑ったが、その眼は冷酷なまでに凍りついている。
「だが、『蛇の眼』がほぼ全滅か」
「……申し訳ありません」
ラヴァルが床に膝をつき、深々と詫びる。それをオルレアンは、まるで害虫でも見るような冷ややかな視線で見下ろした。
「ラヴァル。それは、何に対する謝罪だ?」
「ッ!……ご命令を完遂できなかったこと、そして派遣した我が『蛇の眼』の戦力を無為に失わせたこと、に対してです!」
オルレアンは鼻で笑う。
「……ふん。謝罪など不要だ。殺しても構わんと伝えているだろう。蛇の眼はあくまで消耗品、その死が役に立つならそれもまた一興だ」
オルレアンの冷酷な言葉に、ラヴァルは下げた頭の下で、唇が切れるほど強く歯を食いしばる。
「ガーブの処刑を阻止するために死んだのならまだしも、そうでないのなら無駄死にだ。役立たずだな。
まあ良い。無能が消えただけのことだ。結果として、あの大局において成果は出た」
「……は、恐れ入ります」
「現在、『蛇の眼』はどれほど残っているか」
「30名ほどです」
「ふむ。その者たちを徹底的に鍛え直せ。私の命令を、いかなる感情も排して忠実に実行できる『駒』にな」
「……」
「増強も必要だな。あと90名ほど増やせ。ガストンに回すよう命じておく」
「は。拝命いたしました」
ラヴァルは顔を上げ、表情を完璧に殺したまま立ち上がり、敬礼して執務室を出て行こうとした。それをオルレアンが遮る。
「待て。その後、傭兵団はどうした」
「……団長の亡骸を回収し、そのままヒスパニア方面へと去りました」
「そうか。下がれ」
ラヴァルが一礼して部屋を出る。その際、最後にもう一度オルレアンを見たが、彼は既に手元の重要書類に視線を落としていた。彼女は静かに重い扉を閉めた。
(ふむ……ラヴァルは忠実で頭も回るが、今少し冷静さが足りんな。代わりとなるものはいたか……?
いや、おらんか。まあいい、今は後回しだ)
これで緋色の傭兵団は歴史の闇に埋もれるか、それとも感情に駆られて暴発するか。団長を人質として捕らえ、彼らの行動を制御すれば面白い盤面を展開できると思っていたのだが、ままならぬものだ。緋色の傭兵団団長の処刑――。人質として使えるかと思っていたが大司教め、玉を潰された程度で殺すとは。失笑ものだ。感情に走る者に大局は読めぬ。
暫くヒスパニアの情報を密に探らせよう。メンドーサ。アルバロと言ったか。奴に探らせよう。小心者の奴なら細心の注意を払って動くだろう。
オルレアンは一枚の紙を取り出し、メンドーサ宛の手紙を書き出す。書き終えた手紙を封印し、脇に置く。さて、天輝黄金宮の件だが、証拠の類も十分集まったな。これを王都に撒くとしよう。国中に噂を流せば、庶民の感情は爆発する。それだけで王宮は瓦解する。
制御下の他国の軍を国内に引き入れる。
庶民には、抗う術はあるまい。その時、私が出ればいい。3年後か、5年後か。
私がこの国を支配する。私が西方を完全に掌握し、統制するのだ。
ヒスパニア南部。ヴィアナ・デル・アギラの街外れ。そこに多数のテントが立ち並ぶ場所がある。緋色の傭兵団の野営地だ。普段ならば鍛錬や依頼の準備、食事の支度などで喧騒に溢れるその場所は、今は異様なほどの静寂に包まれていた。
あの日から7日。ハンスとオットーは、ガーブの亡骸と彼女の愛用していた大刀、そして心を失ったシンを野営地へと連れ帰ってきた。
あの日、シンは声なき叫びを上げ続け、限界を超えて意識を手放した。シンとガーブの亡骸を荷馬車に乗せ、ヒスパニアへの帰途についた。シンは2日間眠り続けた後、目覚めたが、目覚めただけだった。声をかけても反応はなく、瞳には虚無が宿っていた。まるで心が完全に死んでしまったかのように。オットーとハンスは何も言わず、ただシンを乗せたまま行軍を続けた。それは葬送の列だった。誰も口を利かず、ただ黙々と足を動かすだけの集団。
途中でアインツとフィーアの亡骸を回収し、南部の野営地へ到着した。
野営地に帰り着いた際、事態を知ったヤミルとクリスが駆け寄ってきた。ヤミルはシンの胸ぐらを掴み、激昂して吠えた。
「おまえ!!おまえがいながら、なぜガーブを死なせた!!!」
しかしシンに反応はない。つかんでいたシンを離し、ヤミルはその場を去る。クリスもまた、沈痛な面持ちで静かにその場を去った。
3日後、ガーブ、アインツ、フィーアを埋葬した。野営地から、街からさらに外れた森の際、大きな樹の下に墓を建て、簡単な葬儀を行った。墓標を刻んだゲルドが、震える手で呟いた。
「こんなんを造るために、ここにいるんじゃねぇ……」
知らせを受けたヴィアナが駆けつけてきた。
「何と申し上げればよいのか……」
ヴィアナはオットーに声をかける。「それでシン殿は……シンシオ様は?」
オットーは首を振る。「テントの中にいる。何をしても反応しない」
「……シン殿は、もう」
「……待つしかないでしょう。彼が戻ってきてくれるのを、ただ信じて」
オットーはまだ、あきらめていなかった。
それから10日が過ぎた。
アルバ侯が訪ねてきた。
「お悔やみ申す。それで、シンはどうしている?」
オットーはまた、首を振る。アルバ侯は大きく、深くため息を吐いた。
「半身を失った、ということかのう。時が癒してくれるのを待つしかないのか……」
オットーとアルバ侯は、ただ黙ってシンのいるテントを見つめていた。
漆もやって来た。眼を腫らした彼女は、「この度は……本当に残念です。お力になれずお詫びします」と深々と頭を下げた。「それで、シンさんは……まだ?」
オットーは、何も答えることができなかった。
最初に立ち上がったのはハンスだった。
「これより訓練を行う」
特務隊全員を集め、淡々と森の中へ消えていった。
次に立ち上がったのはイエーガーとクリスだった。
「狩りをしてくる」
狩人隊と弓隊を率いて出て行く。
「このままじゃダメになる」
ヤミルもグレイヴを手に取り、歩兵隊と共に草原に出て戦闘訓練を始めた。
クリシュ・アランたちは黙々と立ち合い訓練を始める。そこには鬼気迫るものがあった。致命的な傷はないものの、誰かしら救護されるという過酷な訓練だった。
狩人隊や弓隊が持ち帰る獲物の山を見て、マリナも奮起した。給食隊全員を総動員し、毎朝毎晩、山盛りの料理を提供した。
「くよくよしていても、悲しんでいても、お腹はすくのね。だったら腹いっぱい食べて、悲しみも消化しましょう!」
そう嘯きながら、彼女は必死に食卓を支えた。
オットーもまた、復活した。
「金がない!!稼がなきゃ飢え死にする!!」
そう言ってヴィアナと共にヴィアナ・デル・アギラの街へ飛び出し、山のような依頼を抱えて帰ってきた。
「ヤミル!護衛依頼だ!イエーガーさん、クリス!害獣退治!ノイン!ゲルドさん!南の町からの修繕依頼が来ている!」
緋色の傭兵団は動き始めた。
だが、
シンだけは戻ってこなかった。
“あの日”から20日後。
シンが消えた。




