第1章:深淵への第一歩
「あー……。恥ずかしいことを言わないでくれよ、オットーさん。俺はそんな大層なもんじゃねえ」
「シン君。自分を卑下することは、危険を承知で君について来た『緋色の傭兵団』のみんなを貶めることになるよ?」
たしなめるようなオットーの言葉に、俺は白旗を上げるように両手を挙げた。
「参った。完敗だ。……もう言わねえよ」
オットーは満足げに頷くと、正面に座るアルバ侯へと視線を移す。
「アルバ侯。今の話を聞いて、どうお考えになりますか?」
部屋の空気が張り詰める。アルバ侯は老獪な笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「儂か?そうじゃのう……いっそ、シン君の軍門に下って旗揚げでもするか?」
「はあ?」
老人の軽口に俺が面食らっていると、侯爵は真剣な眼差しで畳み掛けてきた。
「シン、お主も分かっているはずじゃ。オルレアン伯爵という男は、あと数年でフランク王国を喰らい尽くす。そうなれば周辺国など目じゃない。ブリタニア、ゲルマニア、ヒスパニア……どこが火の粉を被ってもおかしくない」
「そして現状、最も国力が疲弊しているのはこのヒスパニアだ。ならば、奴の準備が整う前に、先制して叩く。これ以上の大義名分があろうか」
「……いや、理由がない」
「あるじゃろ?」
「どこに?」
「シン、お主がさっき言ったその口が理由じゃ」
「はぁ?」
「ふっふっふ。まだ政治の機微が分からんようだな。理由なぞ、納得できる形であれば何でもよい。事実であれ、そうでなくとも。言いがかりであってもだ」
俺が否定しようと口を開いたとき、オットーが静かに遮った。
「シン君。アルバ侯の仰る通りです」
オットーは商人らしい冷徹な目で俺を見つめる。
「商売と同じです。手元に何もなくとも、見返りという『夢』を見せて資金を調達する。……言い方が悪ければ、ハッタりです。しかし、決められた時までに期待に応えれば、それは嘘ではなく実績になる。騙したことにはなりません」
「それは商売の話だろ?」
オットーが首を横に振る。
「いいえ。仲間、家族、夫婦の約束から、国同士の協定に至るまで、全て同じです。良い結果を導くために使うか、あるいは相手を貶めるために使うか。これを我々は『信用』と呼ぶのですよ。要は、君の今の推察をどれだけ多くの人に信じさせることができるか。それによって、動かせる人の規模と熱意が劇的に変わるのです」
「……」
沈黙が落ちる。
「そういうことじゃ。どうだ、この話、儂に預けんか?いっちょヒスパニア王国を動かして見せようかの」
「私も微力ながらお力添えしますぞ、アルバ侯」
目の前で二人が、まるで獲物を前にした狩人のような笑みで握手を交わす。オットーの手を離したアルバ侯は立ち上がると、ローブを優雅に纏った。
「さて、長居したの。儂は帰るとする。10日もあれば結果が出るはずじゃ。ゆっくり待っておれ。次は美味い酒を酌み交わそう」
ハンスを伴い、闇へと消えていく老人の背中を見送りながら、俺は胸の内に形容しがたいざわつきを覚えた。アルバ侯は確かに強力な仲間になった。だが、この選択が吉と出るか凶と出るか。
「……10日後か」
つぶやきながら振り返ったとき、不意に、ある欠落に気づいた。
「あれ……?ガーブの姿が見えねえな」
この話を聞けば、あの脳筋は飛び上がって喜ぶはずだ。『オルレアンを討つ』という目的が、現実味を帯びてきたのだから。
「ガーブ!いねえのか!」
声を張り上げても、静寂がテントを包むだけだ。返事はない。
テントの外で談笑していたコナに声をかけると、彼は軽く肩をすくめた。
「お、シン。ガーブ嬢なら遊撃隊の二人を連れて、昼過ぎにどこかへ行ったぜ」
「……どこへ行くと言ってた?」
「いや、すまねえ。そこまでは聞いてねえ」
そうか、と俺は曖昧に頷き、テントに戻った。このところ暇を持て余していたし、三人で王都の下町にでも繰り出したのかもしれない。たまには気晴らしもいいだろう、そう自分に言い聞かせた。
テントに入り、膨大な資料に没頭し始めて数時間。オットーが、ひどく暗い顔で入ってきた。
「シン君。いよいよ資金繰りが厳しくなってきました。早急に手立てが必要です」
王都での野営は宿代こそ浮くが、食料調達の壁が厚い。給食隊のいない現状、男たちの胃袋を満たすためのコストは馬鹿にならなかった。
頭を抱える俺の脳裏に、ふとガーブが口にしていた『依頼』のことがよぎる。書類の山をかき回し、ようやくその一枚を見つけ出した。
「王都から東へ徒歩3日。コルディア人20名が潜伏……か」
「シン君、それは……?」
「団への依頼だ。渡りに船かと思ったが」
オットーは書類を読み、一瞬で顔を険しくした。
「おかしいですね。王都から3日の距離なら、なぜ衛士や正規軍を通さない?治安維持は彼らの仕事です。わざわざ傭兵に高額な報酬を払う理由がない。それに、この場所は……」
地図を広げたオットーの指が、一点を鋭く刺す。
「サントス子爵領の外れです。ならば、本来訴えるべきは子爵本人。ますます分かりません」
「罠、だな」
「ええ。資金に困っているとはいえ、これは受けてはならない。明日にでも王都の組合へ行き、別の護衛を探してきます」
俺たちは早々に結論を出した。この依頼はゴミ箱行きだ。
夜が更け、俺は再び資料へと潜り込んだ。
目が痛くなり、うーんと背伸びをしてテントを出る。野営地は静まり返り、クリシュ・アランの男たちが車座になって明日の糧の話をしている。
「そういえば。おい、ガーブはまだ帰ってきていないのか?」
顔を見合わせる男たち。
「いえ、昼から見てませんね」
「下町で暴れてるんじゃないですか?体が鈍るって言ってましたし」
野太い笑いが起きる。
笑い飛ばせる状況であればよかった。だが、団長が所在を告げずに長時間姿を消すのは、彼女らしくない。帰ってきたら、厳重に釘を刺さなくてはならないな。
その夜、ガーブは結局、戻ってこなかった。
翌朝。
朝露に濡れた野営地に、俺は立っていた。ガーブのテントは空のままだ。居ないと確定した瞬間、昨夜の胸騒ぎが、冷たい指先で背筋をなぞるような嫌な予感へと変わった。
「おい!今いないのは誰と誰だ!」
男たちが周りを確認する。
「団長と、アインツとフィーア……」
「……シンさん。馬も3頭、戻っていません」
「馬だと?」
「はい。ガーブさんたちが乗って行ったようです」
――まさか。
行先は王都ではないのか?あの依頼書を、彼女は……。
「ハンス!!」
俺は声を張り上げ、駆け寄ってきたハンスに、くしゃくしゃになったあの依頼書を突きつけた。
「ガーブが……あの3人が、この依頼を受けに行ったかもしれない」
「コルディア人20名程度なら、あの3人で問題はないはずだが」
「問題は場所だ。ここはサントス子爵領の外れだ。俺たちに依頼が来るはずがない」
ハンスの瞳孔が小さく収縮した。
「……罠。か?」
「可能性は極めて高い。ハンス、特務隊を走らせてくれ。馬なら1日で着くはずだ。……ガーブを見つけたら、首に縄を付けてでも連れ戻せ!」
「それなら俺が……」
「いや、ハンスはここに残ってくれ。指揮官を失うわけにはいかない」
「……分かった。すぐ指示を出す」
ハンスが走っていく。特務隊が慌ただしく馬を駆る音が、霧に包まれた平原に消えていく。
ガーブたちであれば、不意打ちでも食らわない限り、後れを取ることはないはずだ。だが、戦場以外での彼女は驚くほど素直で、信じ込みやすい。
何事もなければいいが。
このとき俺は、自分が下したその判断を、後に血を吐くような思いで悔やむことになる――。




