第2章:亡霊の帰還
オルレアン伯の一行が経由地であるシャロンヌ・シュル・ソヌに滑り込んだ時、深い外套に身を包んだ影が、闇の中から現れた。
「閣下、ベアトリスにございます」
「ご苦労。報告なら馬車の中で聞く。足を止めるな、乗り込め」
「はっ、失礼いたします」
特務暗殺部隊「蛇の眼」の実戦指揮官、ベアトリス・ド・ラヴァルが、速度を落とした馬車のドアを開けて滑り込んできた。
「何があった」
オルレアン伯の声音には、いささかの猶予もなかった。
「はっ。かねてより追跡を命じられていた『例の者たち』の動向が判明いたしました」
「例の者たち……あの虫ケラどもか。話せ」
「彼ら――『緋色の傭兵団』が、北外海の港湾都市ダンクに現れました」
「ダンクだと? ……船か」
「はい。ブリタニアからの船舶三隻に分乗し、下船。総勢二百六十名余り」
「ブリタニアからだと?」オルレアン伯の眉が、わずかに跳ね上がった。
「ブリタニアといえば、確か政変があったはずだな」
「はい。エンガード女王イライザが、ガレシア、ウルステア、スカイウェールとの宥和政策を発表し、『ブリタニア四国連合王権国憲章』を発布いたしました。また、同時期にブリタニア北部において、かなり大規模な戦闘があったとの『噂』がございます」
「……『噂』、だと?」
オルレアン伯の射抜くような視線がベアトリスを捉えた。その言葉に含まれた不確定要素を、即座に見咎めたのだ。
ベアトリスは一瞬で喉を詰まらせ、頭を下げた。
「申し訳ございません。ブリタニアへの情報網の構築を後回しにしておりました。現在、新たな工作員を選抜し、潜伏させる準備を――」
「今さら“草”を潜伏させたところで、手遅れの死に情報しか手に入らん。無駄だ、やめろ」
「……重ねて、申し訳ございません」
「よい。それよりも、緋色の傭兵団の詳細を報告せよ」
「はっ。彼ら緋色の傭兵団の構成員ですが、ゲルマニアでの発足当時、そして統一戦争終結の時点では約百五十名でした。それが何らかの伝手を用いてブリタニアへ渡り、再び我がフランク王国に姿を現した際には二百六十名――百名以上の増員が確認されています。おそらくは、ブリタニア国内で新たな傭兵を募集・吸収したのではないかと、情報部門は推測しております」
「分かった。詳細な分析はリュグドンに到着次第、書面で提出させろ」
「はっ」
「それと」
オルレアン伯の瞳が、漆黒の闇の奥で昏く、冷酷に光った。
「その不確かな情報をまとめた責任者に、鞭打ち三回を科したのち、即座に放逐にしろ」
「え……?」ベアトリスが息を呑む。
「『~ではないか』『推測する』――そのような不確かで曖昧な情報しか収集できず、分析も満足にできぬ能無しなど、我が陣営には不要だ。正確な事実のみを精査して報告せよと、後任の者に叩き込んでおけ」
「は、はっ……! 承知いたしました」
「行け」
ベアトリスは音もなく馬車のドアを開け、闇の中へと飛び降りて消えた。
車内に残されたジュリアナは、背筋に強烈な悪寒を覚えて身震いした。伯爵の冷徹な人となりは誰よりも理解しているつもりだったが、今の決断に宿る、底知れない圧迫感には恐怖すら覚える。
(御屋形様は、怒っておられる……。情報の不確かさにではない。あの『緋色の傭兵団』という存在そのものに対してだ。かつて御屋形様(オルレアン様)の策の下ですり潰され、死んだはずの傭兵たちの生き残りに)
ジュリアナは息を詰めてオルレアン伯を見つめた。伯爵は腕を組み、深く目を閉じている。この状態の彼に声をかけるのは自殺行為だ。伯爵が沈思黙考する時は、ただ静寂を保たねばならない。思考がまとまれば、その先には怒濤の如き命令が待っている。
オルレアン伯の脳裏では、過去の盤面が急速に巻き戻されていた。
一七三一年、東ロマヌス帝国がフランク王国に侵攻してきた際、防衛戦の指揮を執った彼は、かき集めた多くの傭兵団を前線に投入した。各地の正規軍が到着するまでの「盾」として、肉の壁として、使い捨ての消耗品として。
目論見通り、東ロマヌスの猛攻は彼らによって食い止められ、同時に国内で力を持ちすぎていた主要な傭兵団を綺麗に一掃することに成功した。
さらに、生き残った不穏分子に対しても、流言や罠を用いて社会的な地位を貶め、徹底的に処理した。あの時、ほんの数人の若造がゲルマニアへ逃亡したという報告は受けていたが、路傍の石ころ同然だと気にも留めていなかった。
だが、一七三三年末。ミューラー公国の公主代行のアレクが突如として兵を挙げ、一七三五年にゲルマニアを統一、ゲルマニア公国を創設した。公式発表では「黒狼騎士団」を中心とした正規軍の圧倒的武力によるものとされていたが、裏では「一国に匹敵する強力な傭兵団が共闘した」という噂が根強く囁かれていた。アレク大公はこれを否定したが。
“草”を放って調べさせたところ、恐るべき事実が判明した。その大戦の中心に、あの「緋色の傭兵団」がいたのだ。
最初はわずか六名の生き残りだった虫ケラどもが、依頼をこなし、他の傭兵群団を喰らい、勢力を急速に拡大。統一戦争が終わる頃には百五十名の大規模戦闘集団に化けていた。その後、彼らは海路でフランクへ向かう途中で消息を絶ったはずだった。
それが、今度はブリタニアの政変だ。
一七三七年、ブリタニアで四国連合王権国が誕生。君主イライザは宥和政策を打ち出し、結束を固めた。
我がフランク王国は、ブリタニアとはドルベス海峡を挟んで長年領土を争ってきた。いわゆる「百年戦争」は、ブリタニアが大陸側の領土を手放すことで一応の決着を見たが、実質的には互いに血を流し尽くした痛み分けに過ぎない。
エンガードの国力が相対的に低下したための四国融和策――オルレアン伯はそう分析していたが、不気味だったのは、一七三六年にブリタニア北部で起きたとされる謎の戦闘だ。
エンガードの正規騎士団八百騎が北部の街を襲撃したが、その三分の一以下しかいない民兵と義勇軍によって完膚なきまでに叩きのめされたという、信じ難い情報。
エンガードの騎士団は決して弱くない。フランクの同規模の騎士団と正面から戦えば、フランク側が敗北するほど精強だ。それを、三分の一以下の烏合の衆が撃破した。
状況を精査すべく動こうとした矢先、ベアトリスがもたらした「緋色の傭兵団、ブリタニアより帰還」の報。しかも、人員は二百六十名に膨れ上がっている。
理解を超える存在だった。だが、オルレアン伯の研ぎ澄まされた戦術的直感が告げていた。
――奴らが、この世界の潮目を動かす「鍵(異物)」であると。
奴らが関わった場所で、ゲルマニア、ブリタニアという大国が立て続けに激変した。しかも消耗するどころか、戦うたびに膨れ上がっている。
不愉快極まりない。あの東ロマヌス戦で「死ね」と命令し、すり潰したはずの使い捨ての駒が、まだ生きている。自身が描く完璧な国家統治の設計図において、傭兵という法外の遺物は害悪以外の何物でもない。「捨て石」として排除したはずの虫ケラが、堂々とフランクの土を踏みしめている。
同時に、首筋にチリチリとした奇妙な警戒感が走る。
彼ら「緋色の傭兵団」が動く場所には、常に施政者の予測を超えた不測の事態が巻き起こる。現在の形骸化したフランク王室と貴族社会を見限ったオルレアン伯は、十五年前からこの国を自らの手で建て直すべく、冷徹に準備を進めてきた。
東ロマヌスの侵攻すら、王国軍の統帥権を自身に集中させるための計画の一部。傭兵の一掃もその一環であり、すべては成就したはずだった。
だが、たった六人の生き残りが、盤面を狂わせる巨獣となって戻ってきた。
彼らは知っている。あの戦いで、オルレアン伯が彼らをどう扱い、どう見捨てたかを。
数が増えたとはいえ、たかだか二百六十名。我がフランクの軍勢は総勢三万六千。百倍以上の戦力差だ。正面から戦えば負ける要素など万に一つもない。
しかし、懸念はある。
彼らの団長の二つ名――“首狩りの女狼”。
連想されるのは、徹底した指揮官狩り、そして暗殺だ。この戦術を用いられれば、少数で大軍の頭脳を潰すことができる。戦場における勝敗とは、敵の全滅ではない。組織とは、二割の損害を出した時点で、戦闘不能(敗北)に陥る。
もし我が軍の指揮官たちが暗殺され、二割の損害を出せば、王都の家畜どもはここぞとばかりに私の統帥権を剥奪しにくるだろう。そうなれば、計画は大幅に後退する。
それだけは絶対に阻止せねばならない。ならば、どうするか。
オルレアン伯の思考は、さらに深く、昏い殺意の深淵へと沈んでいった。
対面に座るジュリアナは、その凍りつくような沈黙の中で、生きた心地がしないまま震えていた。




