第1話:天輝黄金宮の家畜ども
“西方地域”あるいは“西方諸国”と呼ばれるこの大地は、今から四千年以上も昔――白銀期から人族が定住し、幾多の国家が産声を上げては歴史の砂へと消えていった。
その間も、大内海を挟んだアフロディア北部沿岸諸国や、北方のモーランデス、中央アゼリア、さらには遥か北東のシレベアダ地域から押し寄せる諸族の侵攻に晒され続けてきたが、黒鉄期を迎えてようやく、人族社会は確固たる安定の兆しを見せ始めていた。
世界史を紐解けば、そこには四つの大きな波がある。
創造主たる神々が世界を「箱庭」として愛でた栄光の「黄金期」。
神々が去り、残された真精霊たちが摩那を介して残酷な生態改変実験を繰り返した“蟲毒の時代”たる「白銀期」。
真精霊すらも消え去り、遺された諸族が世界の覇権を競い合って血を流した「青銅期」。
そして、諸族と人族の血が交わり、混血の進展とともに人族が真に歴史のかじ取りを始めた“現実の時代”――それが現在の「黒鉄期」である。
今や人族は、国家という名の強固な“殻”をかぶり、互いの利権を貪り合うために相争う様相を呈していた。
主要五カ国――ブリタニア、ヒスパニア、フランク、ゲルマニア、ロマヌス。
それぞれの為政者たちが牙を研ぎ合う黒鉄期1700年代後半。フランク王国、東ロマヌス帝国、ゲルマニア公国、ブリタニア四国連合王権国、ヒスパニア王国など、西方全域を未曾有の混沌へと巻き込む巨大な動乱の足音が、静かに、だが確実に響き始めていた。
時に黒鉄期1737年、秋。
西方地域のほぼ中心に位置する大国、フランク王国。
北は北外海に面し、西は険峻なピレル山脈を挟んでヒスパニア王国と接する。東は広大な平原の先にゲルマニア公国を望み、南西は大内海、そして南東はアルバレス山脈を越えた先に、大内海へ突き出る大半島を領有する東ロマヌス帝国と国境を接していた。
その中心たる王都ルテティア。
天を突くように鎮座する王宮“天輝黄金宮”の大広間では、フランク国王ルイ・シャルル・ド・ヴァロアの生誕五十周年を祝う、絢爛豪華にして退廃的な祝賀の宴が催されていた。
優雅な宮廷音楽が鼓膜を震わせ、贅を尽くした美酒美食が溢れんばかりに振る舞われる。集まった国内の貴族たちは、色とりどりの衣装に身を包み、己の権勢を誇示し合っていた。
国王ルイ・シャルルは、一段高い玉座からその光景を傲然と見下ろしている。
酒に酔い潰れ、暴飲暴食の果てに庭先で泥を吐いては再び席へと戻る貴族たち。あちらこちらで特権を誇り、陰湿な密談を囁き、時折思い出したように国王への賛辞を叫ぶ。
「ほっほっ。我が臣民どもの醜態はどうじゃ?」
横に座る王妃マルグリット・テレーズは、豪奢な扇で口元を隠しながら、冷ややかな声を潜めた。
「……言葉を失うほどの、醜悪の極みにございますわ」
「ほほっ、よく見ておるな、マルグリット。だが、これこそが良いのだ。こやつらは皆、余が飼い慣らした家畜も同然。その栄華はすべて、余が与えてやった肥大した幻影に過ぎん。富と権力に取り憑かれ、それを失う恐怖に縛られている限り、こやつらは決して余に逆らえぬ。これこそが余の治世よ」
マルグリットはわずかに眉を顰めた。ルイ・シャルルはその様子に愉しげに笑う。
「そんな顔をするな。あやつらが醜悪であればあるほど、余らの絶対的な光が際立つというもの。王室を太らせるための肥やしと思えば、腹も立つまい」
そこへ、一人の貴族が引きつった笑顔で臣下の礼を取りにやってくる。
ルイ・シャルルはそれを鷹揚な態度であしらうと、再び王妃に耳打ちした。
「肥やしは言い過ぎたか。犬や猫と思えば愛嬌もあろうて。ほれ、笑顔を見せてやれ。それだけで家畜どもは至上の喜びに震えるのだからな」
マルグリットは胸中を渦巻く嫌悪感を完璧な作り笑いの下に隠し、従順に頷いた。
そんな狂乱の宴を、微動だにせず冷徹に見つめる一団があった。
彼らが配されたのは、大広間の最も外縁――壁際に追いやられた最下座の席だった。
宴の席次とは、そのまま権力の序列である。国王の御前、中央には王都の宮廷貴族や近隣に広大な領地を持つ公爵、侯爵といった大貴族が陣取る。そこから外周に向かって伯爵、子爵と爵位が下がっていく。男爵位に至っては、この場に招かれる資格すら与えられていない。
だが、その最下座に座る主は、まぎれもない「伯爵位」の重臣であった。
本来なら中央に座るべき男が子爵級の末席に甘んじている事実。それは王室が彼に対して抱く明確な隔意と警戒の表れだった。周囲の貴族たちは誰一人として彼に近づこうとせず、遠巻きに冷笑を浮かべ、ひそひそと蔑みの視線を送っている。
しかし、その席の主――オルレアン伯爵は、浴びせられる侮蔑を気にする風もなく、静かに静脈のような赤ワインを傾けていた。
彼が気に留めないのは、寛容だからではない。貴族たちが自分を嘲笑うことくらいしかできない、無能な存在だと知悉しているからだ。
王都におけるオルレアン伯の悪評は枚挙に暇がない。「野蛮」「洗練を欠いた武骨者」「アルバレスの田舎貴族」――。
先年、東ロマヌス帝国が侵攻してきた際には「国随一の戦略家」「稀代の智謀を持つ切れ者」とあれほど持ち上げていた連中の口が、戦が終われば「勝つためなら手段を選ばぬ狂犬」「勝ち方を知らぬ無粋な策士」と言い募る。
オルレアン伯にとって、そんな世評など塵芥に等しかった。ここに集う連中は、国王も含めて己の既得権益だけを肥大化させる「賤民思想」の権化。権謀術数、慇懃無礼、陰謀。腐敗臭が漂うこの空間から少しでも離れるための最下座だったが、それでも目の前で繰り広げられる醜態は限界だった。
オルレアン伯はワインを一気に飲み干すと、音もなく席を立ち、国王の御前へと歩みを進めた。周囲の視線が一斉に突き刺さる。
玉座の前で完璧な臣下の礼を取る。
「陛下、おめでとうございます。これほど国威に満ちた素晴らしい宴は、我が生涯において見たこともございませぬ」
「おお、オルレアンか。そうであろう、そちの寒村たる領地では拝めぬ光景であろうな。せいぜい楽しんでゆくがよい」
「はっ。私のような泥にまみれた武辺者にはいささか高貴すぎて、気後れするばかりにございます」
「はっはっはっ! 謙遜するな、オルレアン」
ルイ・シャルルが傲然と笑う。オルレアン伯はその視線をまっすぐに受け止め、声を低めた。
「陛下。不穏なるは東ロマヌスの動向にございます。私の不在を突き、南国境で何やら蠢動している気配がございます。万が一があっては陛下の御代に泥を塗ることになりますゆえ、私はこれにて失礼し、急ぎ領地へ戻りたく存じます。何卒、出立のご許可を」
「む、そうか……。オルレアンは我が国の南の盾。引き留めて万一があれば面倒だな。よかろう、許可する。行くがよい」
「御意。これにて失礼いたします」
オルレアン伯は一礼して立ち上がると、一瞬たりとも振り返らず、部下を引き連れて大広間を去っていった。
その後ろ姿に向けて、ルイ・シャルルがわざとらしく声を張り上げる。
「皆の者! 勇気あるオルレアン伯が我がフランクの盾となるべく、急ぎ領国へと戻られる! 皆、拍手で送ろうぞ!」
ぱち……ぱち、ぱち。
降ってきたのは、まばらで、冷ややかな、小馬鹿にしたような拍手の音。
すれ違う貴族たちの口から、「田舎者が」「優雅さの欠片もない血生臭い男め」「王都の空気が汚れる」といった囁きが聞こえてくる。わざと聞こえるように呟いているのだ。
(家畜どもが。せいぜい、その浅ましい“今”を謳歌しているがいい)
(そしてルイ、貴様もだ。豚飼いの下種めが)
一歩廊下へ出ると、オルレアン伯は不快そうに首元のタイを緩めた。室内の腐りきった空気から解放され、夜の冷気がいくらか心地よく感じられる。
「御屋形様。今夜は一旦、王都の宿所に泊まられますか?」
背後から、秘書官のジュリアナ・ドラクロワが静かに声をかけた。
「いや、この腐臭から一刻も早く離れたい。このまま領国へ出立する」
「……承知いたしました。ただちに馬車の手配を」
ジュリアナは一礼し、闇の先へと駆け足で消えていく。
横に控える近衛騎士、トリスタン・ド・ロシュフォールが低く笑った。
「閣下、酷い有様でしたな。ぶくぶくと肥え太った腐れ貴族どもめ、聞こえるようにぶつぶつと。いっそ私が『そんなに不満なら、代わりに南国境を守ってみせるか?』と一喝してやればよかったものを」
「トリスタン」
「は」
「……もうすぐだ。あと少しで、すべての盤面が調う。次にこの場所へ足を踏み入れる時は、あの家畜どもを“間引く”時だ」
トリスタンの目が歓喜に歪む。「――はっ!」
二人は天輝黄金宮の正門広場へと至った。すでにジュリアナの手配により、重厚な馬車と護衛の騎兵団が乱れなく待機している。
オルレアン伯が馬車に乗り込むと、すぐに車輪が音を立てて転がり始めた。
その周囲をトリスタンと護衛の騎士たちが固める。天輝黄金宮の正門前には、広大な庭園が広がっていた。門へと続く約二キロメートルの直線道路には等間隔で篝火が焚かれ、その下には王家直属の近衛兵が、見栄えだけの一張羅に槍を携えて直立している。
(見栄えだけで揃えた、戦う術も知らぬ近衛兵か。無駄な国庫の浪費に過ぎん。国王は“先”を全く見ていない。ただ“今”を享楽で満たせばよいと考えている。あれは、器ではない。今夜の件ではっきりとした)
馬車のシートに深く腰掛けたオルレアン伯に、ジュリアナが対面に座りながら行程を告げる。
「御屋形様、これより馬車をノンストップで走らせます。今夜は車中泊となります。明朝、フォン・ド・ブルーにて小休止と食事を摂り、馬車を乗り換え。その後、オセアール、アヴァロニス、ボーヌ・ロワイヤル、シャロンヌ・シュル・ソヌ、マコンヌ、ヴィル・フランジュヌを経由し、領都リュグドンへの到着は七日後を予定しております」
「……遅い。三日で着くように旅程を組み直せ」
「えっ!? しかし、それでは御身体へのご負担が――」
「構わん。一日でも早くリュグドンに戻る」
「しかし……」
「今懸念すべきは、王都の無能どもによる妨害だ。場合によっては、暗殺の手が伸びることも視野に入れねばならん。時間をかければそれだけ隙が生まれる」
ジュリアナの顔が引き締まる。「……っ! 承知いたしました。ただちに再計算を」
オルレアン伯は馬車の窓を開け、並走するトリスタンを呼んだ。
「トリスタン!」
「はっ、ここに!」
「三日でリュグドンへ帰還する。全軍にそのつもりで走らせろ」
「はっ! 御意のままに!」
馬車は速度を上げ、夜の闇を切り裂いて疾走する。
オルレアン伯爵が領地リュグドンへと動き出したその瞬間、西方諸国は確実に、血と硝煙が渦巻く「動乱の季節」へと突入しようとしていた。




