第10章:合理の怪物、天秤の魂
アルバ伯爵は、大貴族の格式などどこへやら、テントの中央にある安物の木椅子にどかりと腰を下ろした。そして、目の前のテーブルに置かれていた木コップの水を、美味そうに一気に飲み干した。
俺、オットーさん、そして影から現れたハンスの三人が、無言でこの老雄を完全に取り囲む。テント内の空気が、一瞬で一触即発の戦場のごとく張り詰めた。
「……で、アルバ侯。一体全体、何の冗談でそんな格好をしてここへ来た?」
シンが低く問いかける。
「来いと言ったのは、どこのどいつじゃったかの?お前の望み通り、こうして老骨を直々に運んできてやったわい」
アルバ侯は不敵に笑い、ローブを脱ぎ捨てた。
「供も連れずに単身で傭兵の野営地に乗り込んでくるとは、無謀が過ぎるんじゃないか?ここで俺たちが、あんたの首を刎ねるとは考えなかったのか?」
「ふん、舐めるなよ、若造。これでも若い頃は、一軍の将頭として最前線でコルディアの奴らと直に刃を交えてきた身だ。今でこそ宮廷で『貴族社会の重鎮』などと祭り上げられておるがの、昔の儂はお前とさほど変わらぬ、泥と血にまみれた生き方をしておったわい」
アルバ侯は己の大きな掌を見つめ、懐かしむように目を細めた。
「儂の若い頃はの、まだ我がアルバ家のある西部地域一帯も、コルディア軍に深く占領されておった。元々儂の家は、西の最果てにある吹けば飛ぶような小領主に過ぎんかった。毎日のようにコルディア人からの夜襲を受け、儂の祖父の代から、ただ生き残るためだけに戦い続けてきた。
このままではアルバ家はすり潰される。それを危惧し祖父はレオン家に願い出たのよ。――『切り取り次第』をの」
その言葉に、シンの目がわずかに動く。
「奪い返した土地は、すべて自分の所領にして構わぬという、当時の王からの勅状。この紙切れ一枚を信じて、我がアルバ家は一念発起した。三代にわたり、戦に明け暮れ、敵を殺し、土地を奪い、貪り尽くした。……その結果が、いま西部一帯を完全に支配する『アルバ伯爵家』の版図よ。北部のメンドーサのクソじじいは、我が家の躍進を指をくわえて歯ぎしりしながら見ておったわ」
老伯爵は衣服の襟を乱暴に寛げ、胸元から腕にかけて無数に刻まれた、酷い刃の傷痕を誇示するように見せつけた。
「儂の全身には、数十の切傷が今も生々しく残っておる。それだけの地獄をくぐり抜け、結果を出してきたという自負がある。……お前と同じようにな、シン」
「……年寄りの昔語りは、悪い癖だ。さっさと本題の用件を言ったらどうだ、じいさん」
「辛抱が足りんのは、最近の若いもんの悪い癖じゃな。アギラドスの躾がなっとらんわ」
「どの口がそれを言う。あんたも若い頃は、さぞかし辛抱の足りねぇ、上の命令を無視するクソガキだったんだろうよ」
シンの辛辣な返しに、アルバ侯は一瞬呆気にとられた後、「はっはっはっ!まさしくその通りじゃ!年寄りの言うことを大人しく聞いておったら、土地の『切り取り』なぞできんからな!」と、腹を抱えて大笑いした。
ひとしきり笑った後、アルバ侯はピタリと笑いを収めた。その瞳に、一軍を率いた将帥としての、冷酷で鋭利な光が灯る。
「――さて、無駄話はここまでにするか」
(誰のせいで無駄話が長引いたと思ってんだ、このじじい……)とシンは心の中で悪態をついたが、表情は引き締めた。
「シン。あえて公爵の名ではなく、戦場での名で呼ばせてもらうが。……あの事件、十五年前のアギラドス家暗殺事件について、お前は本当のところ、どう思っておる?」
いきなり核心の鋭い刃を突きつけられ、シンは内心の驚きを押し殺した。……この老雄には、どこまで伝えるべきか。天秤の傾きを測るように、シンは慎重に言葉を選んだ。
「……巷の噂じゃ、アギラドス家の目覚ましい躍進に嫉妬した、国内の他家貴族が放った刺客の仕業だと囁かれているな。アルフォンソ国王にいたっちゃ、二百年前の因縁の果てに、先代の狂王が恐怖のあまり独断でやったと信じ込んでいる」
シンはアルバ侯の目を真っ向から見据えた。
「――だが、アルバ侯。あんたはそれを信じちゃいない。だから、ここにいる」
「なぜ、そう思う?」
「あんたの、アルバ家の動きで分かるさ。王家の説明に納得していないからこそ、あんたの配下の密偵たちも、裏で独自にあの事件を洗っている」
「今王都の裏社会が騒がしい……」
「ん? なぜそれを儂が知っているかという顔をしておるな。分かるさ。新参の『緋色の傭兵団』のハンスとかいう小僧の特務隊が、王都の場を激しく荒らしておると、儂の元にも報告が上がってきておるわい」
その言葉を聞いたハンスの眉が、ピクリと動いた。ハンスの隠密行動を完璧に察知していたわけではないだろう。だが、大貴族の網には別の網が引っかかっていたのだ。
「ああ、そこにいるオットー殿。お主の動きは、実に分かりやすかったぞ。我がアルバ家に出入りしている御用商人がな、――『緋色の傭兵団の文官トップであるオットーが、頻繁に商人ギルドや裏の組合に顔を出し、十五年前の古い物流記録を調べ回っている』と漏らしておってな。それで気になって、少し調べさせただけじゃ」
オットーさんはバツが悪そうに頭を掻いた。
「……私でしたか。お恥ずかしい」
「なに、儂がなんにでも首を突っ込みたがる悪癖を持っておるだけじゃ。気にするな。……さて、本題に戻るぞ、シン。お前はあの事件の真相を、どう見る?」
シンは腕を組み、冷徹なトーンで告げた。
「市井の庶民も、国王も、あんたら大貴族も、全員が『二百年の王家の因縁』という、もっともらしいお伽話を勝手に創り上げて、それで無理やり納得しようとしているだけだ」
「……」
「そのせいで、実の父を弑逆したアルフォンソ国王は、最悪のバッタもんを掴まされたわけだ。いいとばっちりだな」
「そこまで知っておるか……。いや、陛下自らが語られたのか。そうじゃ、あの陛下の『先王弑逆の告白』という大芝居。儂はどうにも納得がいかなかった。陛下がすべての罪を一人で背負うことで、アギラドスとの確執に無理やり決着を付けようとした。貴族一同、その覚悟の前に沈黙を守ることを約束させられたがの。……だが、お前は真実が別の場所にあると確信しておるな?」
「ああ。都合が良すぎるんだよ。南方の利権の奪い合いも、王家の確執も、すべてがパズルのピースのように綺麗にハマりすぎている。俺の戦術直感が告げている。――実際の暗殺という行動自体は、もっと単純で、もっと生々しい利害関係によるものではないかとね。現に、俺たちにその決定的な『ミッシングリンク』を示唆してくれた存在がいてな」
アルバ侯の呼吸が、わずかに止まる。
「その者が誰かは聞かん。……して、実行犯は……レオン家ではなく、もしかしてコルディア人か?」
「そうだ。コルディア人だ。当時、アギラドスの苛烈極まる猛攻によって、完全に破滅の淵に追い詰められていた現地のコルディア暗殺部隊が放った、絶望の首狩り特攻。彼らにとって、アギラドス当主は最も地球上から消し去りたい悪魔だったからな。あんた、巷に流れる『嫉妬した国内貴族の犯行』なんていうくだらない噂を、常々苦々しく思っていただろ?そんなわけがあるかと。だから、あんた自身も独自に調べたんだろう?」
アルバ侯は深い吐息をつき、ガックリと肩を落とした。
「やはりコルディア人か……。証拠は何一つ残っていなかったがの。当のコルディア側の責任者であった、イシュビリア・デ・アルナハル総督は、事件後すぐに本国へ送還され、ほどなくして処刑された。真実は完全に闇の中へ葬り去られた。この暗殺事件と、それに伴う一連の激動は、時と共に歴史の砂の底へ忘れ去られるはずだった。……だがな、シン。ここで最大の転機が訪れた。お前という『規格外の要素』の出現じゃ」
「アギラドス家の正統なる跡取りの帰還。しかも、その跡取りは、復活させたばかりの爵位も、広大な南方の領地も、すべてを綺麗さっぱり手放して去った」
「然り。お前が去ったせいで、広大な南方地域の莫大な領有権と利権が、完全に宙に浮いてしまったのだ。王家は慌てて南方に官吏を送り込み、いくつかの欲深い貴族も小作人を派遣しておる。だがな、お前が仕込んだ南方の住民どもによって、ことごとく現地で拒絶され、統治は完全に失敗しておる。……その様を見て、儂はようやく事の本質に気付いた。そして、お前の元へ助言を求めてやってくる王城の動きを見て、確信したのだ」
アルバ侯は身を乗り出す。
「そこでじゃ、シン。……アルバ家は、南方の利権には一切食指を動かさん。儂は西方領だけで手一杯じゃし、これ以上不毛な土地を増やして、レオン家に余計な警戒をされるのも真っ平御免だからな。だが――」
老伯爵の目が、ぎらりと据わる。
「このヒスパニアの混乱の裏で、声を潜めてほくそ笑んでいる『真の黒幕』の影が、どうしても気になってのぅ」
「そこか。……やはり、あんたもそこに行き着いたわけだ」
シンは冷たく微笑んだ。
「腹を割って話そうではないか。シン、お前は『どこ』がこの糸を引いていると思う?」
アルバ侯が、極限の真剣さで問いかける。
「現段階じゃ、ただの憶測に過ぎない。だが、完璧な根拠と符合がある」
シンは、頭の中で完成していた大陸の戦術盤の、最悪の駒を指差した。
「「――フランク王国」」




