第9章:不穏な静寂、東からの火種
さて、俺は王城へ赴く際、公爵位と南方の権利を返上したらすぐに本拠地である『アルカサル・デ・ラ・ミラーダ』へ取って返すと仲間たちに告げていた。だが、この状況だ。到底動くことはできなくなった。
俺は即座に急使を走らせ、本拠地に伝言を託した。それと同時に、コナ、フィニ、コナルをはじめとする、クリシュ・アランの全戦力を早急に俺の元へ集結させるよう要請した。これからヒスパニアで起きるであろう嵐に備えるためだ。
その後の数日間、王城や大貴族たちの表面的な動きは不気味なほどに静かだった。少なくとも、俺たち傭兵団に対して直接的な圧力をかけてくる気配はない。だが、宮廷の裏側では、激しい暗流が渦巻いているのが手に取るように分かった。貴族社会の関心は、アギラドス家という巨大な牙が完全に消え去った今、空位となった貴族序列の再編と、宙に浮いた広大な南方地域の統治権を国王がどう分配するのか、その一点に集中していた。
そして、どういうわけか、その政争の裏に俺の存在が絡んでいるという不気味な噂が、貴族社会だけでなく王都の市井にまで急速に広がり始めていた。
曰く、――『あのアギラドスの生き残りは、国王に対して爵位と領地を無償で返上したのではない。裏で王家から、国家を揺るがすほどの莫大な秘密利益を受け取ったのだ』と。
「……根も葉もないことを、どこのどいつが流しやがった!」
俺は野営地で書類を叩きつけた。だが、その噂が「アギラドスをカードにして王と取引をした」という、ある意味で真実に極めて近い内容であるのが、余計に俺の苛立ちを爆発させた。
このもっともらしい噂のせいが原因で、俺たちの野営地には、毎日毎日、面会を求める貴族や大商人たちの使いがわらわらと押し寄せ、群がり始めていた。俺とハンス、オットーさんは、漆の情報にあった『コルディア総督を裏で唆した黒幕』の正体を洗うため、一刻の猶予もない。到底、そんな有象無象の相手をしている暇はなかった。
そのため、俺は面会の全権対応を、ガーブに一任することにした。
「……人選を間違っているんじゃないか、副団長?」
ハンスには呆れ顔で言われたが、俺の直感はこれが正解だと告げていた。ガーブは確かに政治の駆け引きはできないが、その分“人間の本質”を野生の直感で見抜く。それに、俺に会いたがる輩の九割九分は、本人が来ずに不遜な使いを寄こすだけだ。
俺たちの野営地は、王都から三キロほど離れた森の際にある。気位だけが高い貴族や傲慢な商人どもは、大抵「話があるから、いついつまでにこちらの指定した場所へ出向いてこい」と、上から目線の口頭伝言を使いに告げさせてくる。
ガーブは最初、「めんどくさいなー」と嫌がっていたが、俺はこう言って彼女の背中を押した。
「ガーブ、これはな、俺たちに喧嘩を売りにきてるんだと思って対応してくれ。大体、顔も名前も知らねぇ奴に『こっちに来い』って言われて、お前はのこのこ付いていくか?」
その言葉を聞いた瞬間、ガーブの目がランランと輝き出した。
「あ、そっか!それは喧嘩だね!……ねぇ、シン。喧嘩なら、買っていいの?」
「……弱い者いじめは趣味じゃないだろ?ほどほどに、死なない程度に叩き返してやれ」
その結果は劇的だった。ガーブは使いの三分の二を言葉の暴力だけで突っ返し、残りの物理的に無礼な連中は、文字通り野営地の外へと叩き出した。
後でガーブは、「弱っちいくせに、身分がどうのとか、力尽くで言うことを聞かせようとしてくるから退屈だよ」とつまらなそうに鼻を鳴らしていた。まったく、返上したとはいえ俺は元公爵であり、その俺が所属する傭兵団の『最強の団長』を相手にしているという自覚が、あの馬鹿どもには足りていないらしい。
だが、そんなゴミのような面会要望の中に、ガーブが「これはちょっと雰囲気が違うかも」と、四通の書状を仕分けて持ってきた。
一通は王城から、もう一通はあの西の大貴族・アルバ伯爵から。そして残りのうち一通は、傭兵団への正式な『仕事の依頼状』だった。
王城からの書状は、驚いたことに宰相グスマン卿が直々に認めたものだった。内容は、今後の南方地域の統治方法に関する、俺への問い合わせと相談だ。王城では現在、『南方再開拓五か年計画』なる大規模な国策を立案中らしい。
だが、現地へ派遣した調査員の官吏どもが、南方の住民と激しく衝突し、調査が完全に頓挫しているとのこと。そこで、実際に現地で数々の画期的な改革を進め、住民の信頼を得ていた俺たちに、仲介役になってほしい、当時の施策のノウハウを教えろ、という極めて虫のいい内容だった。
(おおかた、王都のぬるま湯に浸かっていた官吏どもが、上から目線で南方の荒くれ者たちの神経を逆なでしたんだろう。さもありまんだな)
現に、本拠地アルカサル・デ・ラ・ミラーダから届いた定期報告の書状にも、王都から赴任してきた官吏たちの凄惨な行状が克明に記されていた。
現地の苦境など目もくれず、やたらと威張り散らし、提供された食事や寝床に文句をつけ、あからさまに酒や女、そして袖の下(賄賂)を要求してくるという。いくつかの気が荒い村では、住民たちが激怒し、官吏どもを袋叩きにして追い返したとあった。
とんだお貴族様の大馬鹿野郎どもだ。俺は報告書に記載されていた官吏たちの名前をすべてリストアップし、彼らが『いつ、どこで、どんなしでかしをしたか』を詳細な報告書にまとめ、そのまま宰相グスマンへ送り返してやった。
手紙の最後にはこう添えておいた。――『南方をどうこうする前に、現地に送る人間の最低限の躾と素行調査をしろ。まともな人間を選べ』と。
次に、アルバ伯爵からの手紙。そこには、あえて公の場を避け、個人的に俺と誼を結びたいと書かれていた。さらに、十五年前のあの暗殺事件について、当時の当事者の一人として「どうしても話したいことがある」とも。
これは非常に悩みどころだった。現在、ヒスパニア中の貴族が俺たちの動向に目を光らせている。アルバ伯爵が国内屈指の大貴族であるからこそ、この時期に彼と特定的な接触を持つことは、下らない宮廷の政争に巻き込まれる最大の引き金になりかねない。
俺は短い返信を書いて送った。――『そこまでして話がしたいなら、お貴族様のプライドを捨てて、そっちからこの泥塗れの野営地へ出向いてきやがれ』と。まあ、あの大貴族が本当に来ることなどないだろうという、半ば嫌がらせのような突っぱね方だった。
そして最後の、傭兵団への依頼状。……これが問題だった。
内容はこうだ。――ヒスパニア東部の南側、峻険なるピレル山脈の麓にある孤立した集落の近くに、コルディア人の生き残りらしき、二十人ほどの武装した一団が住み着いた。彼らは周囲のヒスパニア人の村々と激しい水利権の諍いを起こしている。領主が地方の警吏を派遣して排除を試みたが、逆に返り討ちに遭い、多大な損害を出した。ゆえに、実戦経験豊富な『緋色の傭兵団』の武力を借りたい、というものだった。
「……ほう。まだ、東部の山奥にコルディア人が隠れ住んでいたとはな」
俺は驚きを禁じ得なかった。いや、状況を考えれば、俺たちが南部地域を徹底的に平定し、追い詰めた結果、そこから溢れた一部の過激派が東部の山岳地帯へと逃げ込んだ可能性が高い。
だとしたら、東部の住民が被害を受けている原因の端くれは、俺たちの行動にあるということになる。
それにしても、東部の領主も情けない限りだ。たった二十人程度の落武者を自力で追い出せないとは。挙国一致で国土回復運動を推し進める『尚武の国』などと誇っていたのは、完全に一昔前の話だ。南部以外の地方の軍備は、完全に形骸化し、腐りきっていたということか。
俺が依頼状を前に眉をひそめていると、ガーブが後ろから覗き込んできて、その内容を読み上げた。
「ねぇ、シン。今忙しいんでしょ?退屈だからさ、これ、俺が行ってきちゃダメ?」
ガーブの目が、獲物を見つけた猛獣のように爛々と輝いている。
だが、俺は即座に首を振った。
「駄目だ。止めておけ。これは東部地方の領主が自力で解決すべき問題だ。俺たちが安易に介入すれば、また余計な政治的火種になる」
「え〜?でもさ、暇で死にそうなんだよ?たった二十人でしょ?ちゃっちゃと皆殺しにして、すぐに帰ってくるからさ。ね?行かせてよ!」
「『ちゃっちゃと殺る』って……お前な、それではただの虐殺だ。余計に問題が大きくなる。却下だ、却下」
俺はガーブの手から依頼状を強引に取り上げ、机の引き出しに放り込んだ。
「第一、お前は地名を言われたところで、東部の地理なんて全く分からんだろうが。受託するにしても、お前一人を単独で行かせるわけがないだろ」
「ちぇ〜、ケチ」
なおも不満げに食い下がるガーブの額を指先で弾き、「暇ならアインツらを相手に稽古でもしてろ」と言ってテントから追い出した。
俺はそれっきり、その東部からの依頼状のことを、完全に記憶の隅へと追いやってしまった。
――そして後になって、この判断を、血を吐くほど激しく後悔することになる。
誰がコルディア総督を裏で唆し、アギラドスを襲わせたのか。
何しろ15年も前の出来事だ。
俺たちは必死に王都の裏表を調べ続けたが、黒幕の尻尾はなかなか掴めなかった。オットーさんは表のルート、懇意の商人や各種組合、役所の古い人脈を当たり、ハンスは裏のルート、怪しげな酒場にたむろする情報屋や、街の裏社会を支配する顔役たちを脅し回っていた。
さらに、南部に残っているクリスにも調査を依頼したが、あちらからの報告が届くにはまだ数日かかるだろう。不穏な静寂のまま、時間だけが虚しく過ぎていった。
そんなある日の午後。オットーさんが、血相を変えて俺のテントに飛び込んできた。
開口一番、彼は信じられない言葉を口にした。
「シン君!大変だ!――アルバ伯爵が、たった一人で、ここにやってきた!」
「……はぁ!?アルバのじいさんが?供も連れずに、単身でここに?」
俺は椅子から立ち上がった。
「そうだ、完全に単身、お忍びの格好でだ。今、野営地の入り口に……」
「――お貴族様のプライドを捨てて、わざわざ来てやったぞ、小僧」
オットーさんが言い終えるより早く、テントの幕が乱暴に押し開けられた。そこに立っていたのは、汚れの目立つボロボロの旅人用のローブをまとった老人――ヒスパニア西域を統べる絶対の実力者、フェルナンド・デ・アルバ伯爵、その人だった。




