第7章:張り巡らされる眼
王城の重苦しい空気から解放された俺たちは、正面門の衛兵から武器を受け取った。ガーブは我が子を取り戻したかのように大刀を愛おしそうに撫で、一度だけ音もなく刃を抜いて、細工がされていないか確認してから、鋭い所作で背中に背負い直した。俺は受け取ったアギラドス伝来の宝剣を、そのまま隣のヴィアナさんに差し出した。
「ヴィアナさん、これを」
「……シンシオ様、これはアギラドスの正統なる……」
「今の俺はただの傭兵団の副団長だ。アギラドスを名乗る資格を捨てた俺が持つより、その血と意志を繋ごうとするあんたが持っているべきだ。……頼む」
ヴィアナさんは震える手で宝剣を受け取り、胸に抱きしめるように深く頭を下げた。
城外で待機していた騎士団の残存兵力を彼女に預け、俺たちは一刻も早く王都を脱出した。目指すは、コーマックたちが待つ野営拠点、クリシュ・アランだ。
街道を急ぐ俺たちの前に、周囲の景色に完全に溶け込んでいたハンスが、音もなく合流した。
「シン、状況が変わった。王都は今、あんたの噂で完全に持ちきりだ」
ハンスは表情を変えずに、歩調を合わせながら囁いた。
「へえ?どんな極上の噂だ?」
「『公爵家の高貴な忘れ形見が、レオン家への復讐も、莫大な南方の利権もすべて放棄して逃げ出した。希代のあほう、あるいは臆病者がいる』とね」
それを聞いたガーブが、堪えきれないといった風にケラケラと笑い出す。
「ぶはっ!あほうだってさ、シン!ぴったりじゃん!」
「……おおかた、劇的な復讐劇(貴種流浪譚)を期待していた吟遊詩人どもが、飯の種を潰されて腹いせに流したデマだろうよ」
俺は憮然として言い放ち、ハンスに視線を戻した。
「で、そっちの調査はどこまで進んだ?」
「……ここでは不味い。拠点で話す」
ハンスはそれだけ言うと、固く口を閉ざした。
彼の視線は、鋭く周囲の街道や林の奥へと配られている。ハンスは尾行の有無を完全に遮断するため、わざと不規則なルートを選び、時折立ち止まっては風の音に耳を傾けていた。途中で、すれ違った旅人風の男と一瞬だけ肩をすれ違わせ、ボソリと短い符丁を交わしたり、掌の中に小さな紙片を滑り込ませたりしている。その一連の動きは、完全にプロの密偵のそれだった。
「んー、やっぱり街の近くはうっとうしいねぇ」
ガーブが退屈そうに首を鳴らしながら呟いた。「さっきからさ、なんか背中がチクチクするんだよね」
チクチクする――ガーブがそう表現する時、それは例外なく「誰かに監視されている」ことを意味する。
「ガーブ、そこに『敵意』はあるか?」
「ぷぷっ、シンがそれ聞く?ないよ、全然。ただ、じーっと見てるだけ」
そう、誰かの鋭い視線が俺たちの背中に張り付いている。だが、そこには明確な殺意も害意もなかった。俺がハンスに視線を送ると、ハンスも微かに頷いた。
(つまり、あの不気味な連中か……)
彼らの情報網がどれほど深く、長くこの国に根を張っているのか、想像するだけで肌が粟立つ。俺は通り過ぎる街道沿いの大木の幹に、爪の先で素早く、しかし確実に“印”を刻み込んだ。
『Z→』
矢印が示すのは、俺たちがこれから向かう拠点の方向。これを見て、あの女――いや、あの『組織』は早晩、俺たちの前に姿を現すだろう。
「急ごう。クリシュ・アランの元へ戻るぞ」
王都から北西に約三キロ。うっそうとした森の境界に、クリシュ・アランが設営した野営拠点はあった。隠蔽性が高く、近くには清澄な水源もあり、長逗留にも耐えうる一級の場所だ。
俺たちは周囲の警戒線をくぐり抜け、すぐに中央の大型テントへと滑り込んだ。
「よし、まずは城内で掴んだ情報を整理する」
俺は地図の上に、いくつかの印を置きながら切り出した。
「一、当初の予定通り、公爵位を返上し、南方の支配権および利権を完全に放棄した。これは公式に受理されたと見ていい。
二、国王、宰相、そして三大貴族の思惑は、いずれもアギラドスが手放した南方地域の利権をどう貪るかという一点に集中している。だが、奴らはまだ決定的な何かを隠している。
三、アルフォンソ国王は十五年前のアギラドス家襲撃の『あらまし』を語った。二百年にわたる血の確執と、狂った先王の凶行。……だが、これが事実だと鵜呑みにするのは危険だ。あまりにもレオン家にとって話が出来すぎている。
四、現貴族どもの個別の思惑が未だに不鮮明だ。特にアルバ伯爵は、何を求めて俺に接近してきたのか。
五、ヴィアナさん曰く、アギラドス家騎士団は今後、王家によって解体・再編される。それはもう彼らの騎士団ではない。彼女は志を同じくする仲間を引き連れて団を離脱する。その規模は現状不明だ。
そして、六――」
俺はテントの入り口の方へ目を向けた。
「どこの誰のものかは分からんが、俺たちを執拗に監視する謎の眼がある。ハンスの特務隊を動かしているが、未だにその全容を捉えきれていない」
俺の総括を聞いていたコーマックが、ふっと皮肉混じりの笑みを浮かべて呟いた。
「嫌だねぇ、権力という泥にまみれた椅子にしがみつく輩は。本当を嘘で固め、嘘を本当で溶かして、最後には自分自身の顔すら見失っちまう」
「まったくだ。到底、俺たちのような戦場の人間とは相容れない人種だよ」
俺が同意すると、コーマックは隣のガーブを見て言った。
「いっそ、ガーブ様のように野生のまま生きられれば楽なんでしょうけどねぇ」
名前を呼ばれたガーブは、「えへへ」と嬉しそうに頭を掻いている。……それ、褒め言葉なのか?まあ、本人が満足そうだから良しとしよう。
「で、ハンス。そっちの裏の調査で、何が浮上した?」
ハンスは影の中から一歩前に出ると、信じられない言葉を口にした。
「……『何も分からない』ということが、分かった」
「は?どういう意味だ?」
「巷に流れる噂、市井の流言をすべて聞き取り、役所の古い公文書、商人のギルド記録、大図書館の年代記まで徹底的に洗った。……だが、不自然なほどに綺麗なんだ」
ハンスは淡々と語る。
「二百年前に王弟がアギラドス家を起こして南方に赴いたこと。それ以降、アギラドス主導で国土回復運動が劇的に加速し、十五年前にほぼ完了しかけたこと。そして十五年前、何者かがアギラドス家の屋敷を急襲し、当主夫妻と子供二人長男と長女を虐殺、次男が行方不明になったこと。……ここまでは、誰もが知る歴史であり、流浪の貴公子が復讐に戻るという安っぽい芝居のネタだ。だが――」
ハンスの目が、冷徹な光を帯びる。
「『なぜ襲撃が起きたのか』という根本の動機に関する記録、証拠、当時の生々しい噂が……完全に、一つ残らず消去されている。消されているというよりは、最初から歴史に『存在していなかった』かのようにだ」
シンの脳裏に、一つの仮説が閃いた。
「……なるほどな。理由を誰にも知られないために、あえて『大層な悲劇の噂』を上から大量に被せて、本質を煙に巻いたってわけか」
「その可能性が極めて高い。木を隠すなら森の中、というが、奴らは最初から存在しない架空の森を創り上げ、本物の木を消し去ったんだ」
「そこまでして隠さなきゃならない『動機』とは、一体何だ?」
「分からん。これ以上は、当時の当事者の首を絞めて吐かせるしか……」
「無理だな」
俺はため息をついた。
「あの嘘つき国王が、本当のことを言うはずがない。奴の語った『狂った先王の凶行』という物語も、どこまでが本当で、どこからが演出か分かったもんじゃない」
俺とハンスが思考の泥沼に沈み込んでいると、それまで静かに戦況を見守っていたオットーさんが、穏やかだが重みのある声で口を開いた。
「困ったねぇ、シン君。君は今、このヒスパニアの泥沼に、自分からどっぷりと浸かりにいっているよ」
「……え?」俺はハっとした。
「シン君が公爵位を返上すると決めた時点で、これはもう『アギラドス』の問題であり、私たち『緋色の傭兵団』の問題ではなくなっているはずだ。現に手続きは終わった。縁は綺麗に切れたはずだよ?」
「それは……そうなんだが、何かが、どうしても喉の奥に引っかかっているんだ」
「つまり、その『見えない何か』が、まだ私たちに牙を剥こうとしている、と?」
「ああ、その通りだ、オットーさん」
その時、ガーブがポンと手を叩き、大真面目な顔で叫んだ。
「分かった!分からないことが分からないってことが、分かった!以上!」
あまりにも当たり前すぎるガーブの宣言に、テント内の緊張がわずかに緩む。
「ガーブ、お前の言う通りだ。だがな、その『分からないこと』自体が、俺の戦術直感を狂わせているんだ」
「でもさ、シン。突っ込みすぎだよ!」
ガーブはシンの顔を指差した。「いつもの作戦の時みたいにさ、もっとずーっと後ろから、高いところから戦場を見てみなよ!」
――突っ込みすぎ、か。
ガーブの言葉が、冷水を浴びせられたようにシンの脳髄に染み渡っていく。
(冷静さを欠いていたのは、俺の方だったか……)
これまでゲルマニアでもブリタニアでも、俺は常に「部外者」として、冷徹な戦術家として戦盤を俯瞰してきた。だからこそ、相手の死角を見抜き、最適解を導き出せたのだ。だが今回はどうだ?途中から「俺自身の出自」という強烈なノイズが混入し、いつの間にか当事者としての主観に目が眩んでいた。
「……ガーブ、ありがとな。お前の言う通りだ。もう一度、完璧な第三者として、このヒスパニアの絵図を客観的に洗い直してみる」
「ん!それがいい!」
ガーブは満足そうに胸を張った。
「それにしてもさー、二百年も前の先祖の喧嘩のために、今の人間が代わる代わる血を流し合うなんて、みんなよくやるよねぇ」
ガーブが何気なく放ったその一言が、シンの思考に決定的な衝撃を与えた。
シンは弾かれたようにハンスと顔を見合わせた。
「……ハンス。俺たちは、既成事実の罠にハメられていたかもしれない」
俺は机の上の資料を、もう一度最初から並べ直した。
「『二百年前の因縁』という巨大な物語に囚われすぎていた。二百年前の王位継承争いと、十五年前のアギラドス家暗殺事件。これらを一続きの歴史として見るから歪みが出るんだ。これらを、完全に『独立した別個の事件』として切り離して考察したらどうなる?」
「ほう……。どれ、私もその盤上に乗ろう」
オットーさんが眼鏡を押し上げ、俺とハンスの作業に加わった。
「シン、俺たちの出番は?」ガーブが退屈そうに尋ねる。
「ああ、すまん。お前らは解散してくれ」
「了解!この窮屈な上着、脱いでいいよね!コー!後で裏の広場で手合わせだ!」
ガーブは元気よくテントを飛び出していき、コーマックはあきれ顔でそれに続いた。
テント内に残った三人は、深夜に及ぶまで手元のわずかな資料と情報を極限まで削ぎ落とし、純粋な「事実」だけを繋ぎ合わせていった。そして、一つの恐るべき結論に達した。
「……つまり、こういうことか。当事者全員が、自分の立場にとって都合の良い『過去の因縁』を勝手に関連付けて、勝手に納得しているだけだ、と」
「そのようですね、シン君」
オットーさんが深く頷く。
「二百年前に王弟が南方に赴いたという歴史的背景があるからこそ、十五年前の惨劇が起きた時、誰もが『レオン家によるアギラドスへの恐れと報復だ』という、最もらしい理由に盲信してしまった。火のない所に煙は立たない、という心理を逆手に取られたのです」
シンは、手元にあった推測資料を苛立たしげに放り投げた。
「あほらし。国中が、存在もしない『二百年の呪い』という影に怯えて、右往左往させられていたわけだ」
「では、本題だ」
オットーさんが、盤上の一点を指差した。
「歴史の因縁が嘘だとしたら、――十五年前の暗殺事件は、一体何のために、誰が命じて実行させたのか」
「それなんだよな。現状では完全に動機が不明だ」
シンの言葉に、ハンスが静かに立ち上がり、外套を羽織った。
「だが、調べ方が変わる。これからは『王家の確執』ではなく、純粋な『単独の暗殺事件』として裏を洗う。特務隊の全兵員に通達し、動く。……俺も直接現場へ行く」
「頼んだぞ、ハンス」
シンの答えが終わる前に、ハンスの姿はすでにテントの影へと消えていた。
「シン君。アギラドス家暗殺事件の真犯人は……そもそも、ヒスパニア国内の人間ではないかもしれないよ」
オットーさんが、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「……他国の関与、か。オットーさん、あんたも俺と同じ奴の顔を思い浮かべているな?」
「……フランク王国の、あの合理の怪物(オルレアン伯爵)、かい?」
「可能性は、ゼロじゃない。だが、それこそ現段階で突っ込みすぎるのは、ガーブの言う通り妄想の罠にハマる。可能性の一つとして、頭の片隅に留めておこう」
まったく、政治の裏側ってやつは反吐が出るほど泥濘んでやがる。早く戦場で剣を交えるだけの、単純な世界に戻りたいものだ。
そう考えて俺が大きく伸びをした、その時だった。
テントの外から、場違いなほど緊張感の欠片もない、伸びやかな声が響いた。
「ごめんくださいな〜。こちらに〜、シンさんはぁ、いますでしょうかぁ〜?」
俺とオットーさんは顔を見合わせ、俺の唇が自然とニヤリと吊り上がった。
「ああ、待っていたよ。遠慮なく入ってくれ」
テントの幕を押し開けて入ってきたのは、俺たちの影――『Z』の第七位、漆だった。




