第5章:反吐の出る社交、そして真の仲間
「だから、全部返すぜ。南部地域の利権も、公爵家の名前もな。そんなもん、俺には必要ねえ」
静まり返った謁見の間に、俺の冷徹な言葉だけが硬く響き渡っていた。あまりの衝撃に、誰も声を出すことすらできない。
「後はあんたらの好きにすればいい」俺は周囲の硬直した貴族どもを顎で指した。「そこにいる物欲しそうな貴族どもに切り売りしてもいいし、山分けにしてもいい。……何なら、一番領地が少なくて困ってる、あんたの直轄領にすればいい。諸侯の揉め事が嫌なら、王の権力で好きに差配しな。欲しいんだろ?王家の威信を支える、確固たる『財政基盤』がさ」
その言葉が、ようやく宰相グスマンの脳に届いたらしい。奴は顔にドス黒い血を上らせ、狂ったように怒鳴り散らした。
「貴様ッ!!何たる不敬!何たる口の利きようか!……ヒスパニアの命運を握る南部地域を、まるで子供の玩具のように投げ出すとは!あの地が持つ戦略的・経済的重要性を理解しているのか!アギラドス公爵家の地位を何と心得るッ!!」
グスマンが青筋を立てて激高する姿を、隣のガーブが冷え切った目で見つめ、ポツリと呟いた。
「たかだか、ヒスパニアっていうちっぽけな国の中の、貴族の内輪揉めでしょ?くだらな」
「貴様らッ!!」
グスマンが激しい衝撃に口をパクパクと金魚のように開閉させる。
ガーブがさらに余計な毒を吐く前に、俺が言葉を遮って引き取った。
「一つの狭い国の中で、貴族どもがちっぽけな領地を巡って醜く足を引っ張り合っている。あんたらには、それが世界のすべてであり、さぞ重大な死活問題なんだろうさ。だがな……もう少し、国の外に目を向けたらどうだ?」
俺は冷徹な視線で、居並ぶ大貴族どもを威圧した。
「フランク王国、ゲルマニア公国、そしてブリタニア四国連合王権国。特に、ゲルマニアの軍事改革と、ブリタニアの工学技術の進化は、これから世界を大きく変える。うかうか内輪揉めに現を抜かしていりゃあ、ヒスパニアなんて国は、一瞬で時代の潮流に飲み込まれて消え失せるぜ?」
「……貴様は、外の世界から来た男だったな」
玉座の上から、国王アルフォンソが低く呟いた。
「ああ」俺は頷く。「国土回復運動。その最後の泥臭い後始末は、俺たち傭兵が締めてやった。後は、あんたら特権階級の連中で、この国をどうしていくか……精々、その腐りかけた頭でよく考えるんだな」
「くっ……」
沈黙の後、壇上から奇妙な声が聞こえてきた。
「くっ……くっ、くっ、ははははは!」
見上げれば、国王アルフォンソが、玉座の上でのけ反るようにして狂ったように笑っていた。
「これが『傭兵』という生き物か。面白い、実に面白いな」
王はひとしきり笑うと、一瞬でその瞳から笑いを消し、立ち上がった。
「グスマン、もう良い。これ以上の問答は無益だ」
アルフォンソ王はそれだけ言うと、俺たちに二度と視線をくれることなく、謁見の間の奥へと足早に去っていった。
俺たちを除くすべての貴族が、慌ててその場に平伏し、王の後姿を見送った。
王の気配が完全に消え去り、謁見の間が解散の空気に包まれると、宰相グスマンが怒りに肩を震わせながら、俺たちの前に足音を荒げてやってきた。
「……貴様。精々、これからの身の上に気をつけることだな」
捨て台詞を残し、グスマンは踵を返した。俺が怪訝な顔をしていると、奴は振り返り、「そんな顔をするか。意外と年相応のガキだな。まあ良い、着いて参れ。貴様らの待機部屋へ案内する」と忌々しげに促した。
俺たち四人が歩き出そうとしたその時、背後から重厚な声が掛かった。
「待て。……少し、話をしたい」
声をかけてきたのは、先ほど真っ向から俺の復権に反対した、東部の大貴族アントニオ・デ・アルバ伯爵だった。
俺たちは足を止める。
「あんたがアルバ伯爵か。何か用か?領地なら、さっき王様に全部差し上げたところだが」
「お主……シンとか言ったな」アルバ伯爵は険しい顔で俺を凝視した。「お主、本当に南部地域の莫大な利権、公爵位という至高の栄誉が、惜しくはないのか?」
「……自分の手で勝ち取ったわけでもない看板をありがたがる趣味は、俺にはないんでね」
アルバ伯爵は意外そうに眉をひそめ、それから深く溜息をついた。
「皮肉を言いよる。……いや、だが、お主の言う通りだ。実を言えば、儂らとて、望んで南部を欲しているわけではないのだ」
気づけば、彼の後ろには、北部の大領主アルバロ・デ・メンドーサ侯爵と、西部のロドリゴ・デ・サントス子爵も静かに佇んでいた。
「市井で、儂らがどのように言われているか、聞いておろう?」
「ああ、大体な」俺は肩をすくめた。「四大貴族が南部の権益を欲しがり、アギラドス家の復権を邪魔して、先代を暗殺した……とかいう、ありきたりな噂話だろ」
「……それを、事実だと思うておるか?」
「さあな。だが、火のないところに煙は立たない、とも言うだろ?」
「人の家の軒先で、勝手に火を焚きつけて煙を喜んでおる黒幕がおる、ということよ」
アルバ伯爵のその言葉に、俺の思考が急速に回転する。
「……それが、レオン家《王室》だと?」
「さてな。儂らには、そこまでは分からんよ」
そう言ったアルバ伯爵の表情は、極めて真剣だった。後ろの二人の大領主も、同様に重々しく頷いている。
「おっと、宰相殿を待たせてもいかんな。シン殿……あえて、シン殿と呼ばせてもらおう。王都にいる間、一度儂の屋敷へ来ぬか。美味い酒で歓待しよう。ではな」
アルバ伯爵はそれだけ言い残し、優雅に去っていった。メンドーサ侯爵もそれに続く。
だが、最後に残ったサントス子爵だけは、去り際に俺たちをねめ回すような、蛇のような陰湿な視線を向け、俺がその視線に気づいた瞬間、フイと目を逸らして足早に立ち去った。
(……サントス子爵、あいつの視線だけは、アルバやメンドーサとは明らかに異質だな。覚えておこう)
俺たち四人は、先を行くグスマン宰相の後を追い、再び薄暗い回廊を歩いていた。
俺は少し歩調を緩め、隣のヴィアナさんに話しかけた。
「ヴィアナさん、すまない。せっかく念願の男爵に昇爵したっていうのに、肝心のアギラドス家を、俺の独断で潰しちまって」
ヴィアナさんはフッと優しく微笑み、手に持った授爵の書状を見つめた。
「いえ……事前に貴方の『企み』と意思を聞いておりましたから。それほど残念には思っていませんよ」
「これで、アギラドス家騎士団とは名乗れなくなったな。……今後は『ヴィアナ騎士団』とでも名乗ったらどうだ?」
「団名、ですか……」ヴィアナさんは少し寂しげに目を伏せた。「我々は元々、アギラドス家の家臣。南方地域平定のために集められ、カバジェーロ(騎士)に叙せられた者の集まりです。お抱え騎士が他家に奉公することは滅多にありませんが、南部を熟知している我々は、引き続き騎士団の『機能』として存続させられるでしょう。……いや、むしろ増員されるかもしれませんね。まあ、私の手を離れるでしょうが」
ヴィアナさんは、冷徹に宮廷の先を見通していた。
「……男爵位を賜ったことで、私は確実に現在の騎士団の指揮権から切り離されます。おそらく、アギラドス騎士団は解体され、近衛や他地域から選抜されたレオン家に忠実な騎士たちが加入し、新たな『南方統括騎士団』として再編されるでしょう。アギラドス家に忠誠を誓う古参の者は除隊させられ、王室の直轄軍として立て直されるはずです」
ヴィアナさんは寂しげに言った。俺が何かを言おうとする前に、彼は誇らしげに胸を張った。
「ですがシン殿、気になさるな。アギラドス騎士団は、その歴史的使命を完全に全うしたのです。アギラドス家最後の当主、シンシオ・デ・アギラドス様の御前で、南部の平定を完遂できた。それだけで、我らの忠義は報われたのです」
ヴィアナさんの騎士としての高潔な覚悟に、俺は熱いものが込み上げるのを感じた。言葉を飲み込み、俺はあえて不遜な態度で言った。
「ならば――」
「え?」
俺は足を止め、ヴィアナさんの正面に立った。そして、かつて彼が俺に叩き込んだ貴族の礼法を精一杯真似て、厳かに声を張り上げた。
「ディエゴ・デ・ヴィアナ、アギラドス家騎士団長。貴殿と騎士団のこれまでの栄誉を称える。アギラドス家に仕え、南方地域平定の激戦において幾多の戦場を勝利に導き、我が家の名誉を最後まで守り抜いた功績……アギラドス家最後の当主、シンシオ・デ・アギラドスとして、心より感謝する。――本当によくやってくれた。ご苦労であった」
ヴィアナさんは目を見開き、それから感極まったようにその場に跪いた。
「は……っ!」
「そして」俺は悪戯っぽく笑った。「これをもって、貴殿の騎士団長の任を解く」
「はっ!……は?」
「国宮廷の狸どもに解任されるくらいなら、アギラドス家当主直々にクビを言い渡される方が、幾分マシだろ?」
「はは……っ。そうですね。仰る通りです、我が主」
「――で、ここからは傭兵としての話だ」
俺は跪くヴィアナさんの前にしゃがみ込み、その無骨な手を握りしめた。
「今後のことなんだが、もし良ければ……俺たちの『緋色の傭兵団』の一翼を担っちゃくれないか?これは当主としてじゃなく、緋色の傭兵のシンとしての、本気のスカウトだ。受けてくれるか?」
ヴィアナさんは驚愕に目を見張り、それから破顔した。
「――是非に!喜んで、お供いたします!」
ヴィアナさんは俺の手を、両手で壊れんばかりに強く握り返した。
「あー、言っておくが、傭兵団じゃ主従関係はなしだ。これからは『仲間』としてよろしくな」
「分かりました!騎士団の古参の中にも、志を同じくする者が幾人もおります。彼らにも声をかけ、改めてシンの元へ参集いたしましょう!」
ヴィアナさんは興奮のあまり、一向に俺の手を離してくれない。
その様子を後ろで見守っていたオットーさんが、呆れたように、だが嬉しそうに呟いた。
「まったく……シン君は本当に人を乗せるのが上手いんだから。ヴィアナさん、これからは同じ釜の飯を食う仲間として、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、オットー殿!」
ヴィアナさんはようやく俺の手を放し、今度はオットーさんと力強い握手を交わした。
その一連の光景を見ていたガーブが、ジト目で俺を指差した。
「……シン、人誑し《ひとたらし》」
「そうですね」オットーさんが悪ノリして微笑む。「とびっきりの人誑しですよ、我が団のシン君は」
「あ、見ろガーブ!シン、耳が真っ赤になってるぞー!」
「うるせえ、お前ら!」
俺は自分の耳が猛烈に熱くなるのを自覚し、足早に歩き出した。
そんな俺たちの騒がしいやり取りを、前方で立ち止まっていたグスマン宰相が、底の知れない静かな瞳で見つめていた。
「……歓談は終わったかね?よろしいか」
「ああ、すまない。今行く」
俺たちは再び歩き出し、回廊の突き当たりにある重厚な扉の前へと到着した。グスマンが扉を開け、「入れ」と顎で示す。
内部は、宮廷を訪れた賓客や官僚たちが面会を待つための、豪奢な客間だった。
「こちらでしばらく待機していろ」
グスマンはそう言い放つと、自らも部屋の中央にある高級なソファの一つに腰掛けた。
やがて部屋付きの給仕が全員分の温かい茶を配り、静かに退室していく。
宰相グスマンは茶器を手に取り、上品に一口啜った。
「皆も茶を飲むと良い。冷めぬうちにな」
しばらくの間、誰も言葉を発せず、ただ茶を啜る音だけが室内に響く。重苦しい沈黙。
俺たちをこの部屋に連れてきたのは良いとして、なぜ最高権力者であるはずのグスマン宰相自身が、未だに俺たちの目の前に居座っているのか。その理由が分からなかった。
オットーさんが静かに茶器を置き、グスマンを真っ直ぐに見据えて促した。
「――グスマン宰相。我々をここに足止めし、自ら同行されたということは、何か『裏の話』があるのですね?始めていただけませんか。我々傭兵も、色々と夜の用事(情報収集)がございますので」
グスマンはオットーさんを一瞥し、不気味な低い笑い声を漏らした。
「あまり年寄りを急かすものではないよ、傭兵の副団長殿。……まあ、良いじゃろう」
グスマンは茶器を卓上に置き、その昏い瞳を俺たちに向け、静かに語り出した。
「我らとて、この西方の地で起きている変革の兆しを、知らぬわけではないのだ。――当然、お主たちの『真の正体』のこともな」
宮廷の最深部で、毒蛇の牙が静かに剥かれようとしていた。




